第十六話
九頭駅は昼前から人で満ちていた。改札の前で背広姿の帝国の商人が駅夫に行き先を怒鳴り、毛皮の襟を立てたレスイの婦人が切符売り場の列を睨んでいる。その間を、籠を背負った華神の女が身を細めるように抜けていった。
発車を待つ列車の腹から吐き出された煙は梁にぶつかって薄まり、煤と油、濡れた外套の匂いを混ぜて落ちてきた。
兵の姿は少ない。
二年あまり前、この駅の柱という柱に寄りかかっていた銃剣の光は、今はホームの端に数えるほどしかない。警戒が薄れたわけではない。切符売り場にはレスイ語の苛立った声が残り、毛皮の襟の下には古い公国の徽章が覗いている。帝国はもうここを奪った土地ではなく、持っている土地として扱いはじめていた。だから銃剣を並べるより、誰がまだレスイ側に心を残しているかを見張る方が今は都合がよかった。
私は雑踏の内側で足を止めた。
まだ自分のものではない黒い髪を指で触れかけ、右手を途中で止めた。ここで髪を気にする女はいくらでもいる。けれど、その仕草が癖だと知られていれば、途端に目印になる。
アイリーンには『餞別を渡す』とだけ言って出た。去り際に彼女は寝台の端に座り、湯気の立つ湯呑みを両手で包んだまま「石ならそこの茶碗に入れてあります。落とさないでくださいよ。よく転がるんで」と言って、卓の隅の紫の玉を目で指した。私は紫の玉を取り出し、新聞紙に包んで外套の内側へ入れた。
時刻表の黒い板には、白い文字で行き先と時刻が並んでいる。大ぶりの帽子をかぶった女性が派手な黄色の手提げ鞄を腕にかけ、慣れない手つきで字を追っている。レスイ語、帝国語、華神語。三つの文字は同じ列車を指しているはずなのに、それぞれ別の国へ向かっているように見えた。
黒板の脇に中年の男が立っていた。
中折れ帽の下から覗く七三の髪。鈍さを隠しきれない靴。そして、膝丈まである外套だけは質のよいものを身につけている。商人街ならどこにでもいる、印象に残らない男だった。男は時刻表から目を離さず、紙巻を取り出した。火はつけない。ただ唇に挟み、黒い手袋の中の指で向きを直した。
私は手袋の男の横に立った。
「新都行きは遅れているようだ」
汽笛が鳴る。耳の奥を白く潰す音が過ぎてから、私は答えた。
「遅れているのは、新都行きだけではありません」
男はうなずいた。合図はそれで終わった。
私たちは並んで時刻表を見上げたまま、互いの顔を見なかった。ホームでは駅夫が声を張る。荷車の鉄輪が石床を噛み、蒸気の弁が断続的に鳴った。会話はそれらに裂かれ、裂かれた端から雑踏に紛れた。
「札は」
男は時刻表を向いたまま、ざわめきに紛れるほど低く落とした声で言った。
「昨夜、リードル・クライアトフと接触しました」
私もまた、唇の動きを抑え、喉の奥だけで答えた。
「条件は」
「保護と引き換えに、連邦とつながる情報を出すと。『前借り』はここに」
私は新聞紙に包んだ玉を外套の内側から指先で確かめた。
「障害は」
「ネールランド・アメリオロ。魔術師ではありません。ただし、対魔術に特化した訓練を受けています」
男は紙巻を黒い指の間で半回転させた。
「魔術師殺しか……」
男は時刻表の一番上からゆっくり視線を下ろした。文字の列を読んでいるだけに見えた。
「煙の方は」
淵殻――。
冬の路地で、煙もない空を抱き締めて笑っていた男を思い出した。
「リードル側の資金源です。調合と流通の中心にあり、淵殻という名で流れています。ですが、あれほどの量を原料から流通まで単体で動かせるとは思えません。商館を経由していることは掴めていますが、その先は幾層も挟んであります。帳面を辿っても、紙一枚出ないでしょう」
「……後ろ盾がいる、と」
「はい」
男の声は何も変わらなかった。その平坦さの方が、よほど笑みに近かった。
「範囲は」
「中央大街通の裏手から、華神街の南へ下る一帯。蒸籠の屋台が並ぶ通りを越えて、集合住宅の多い区画まで」
言いながら私は駅舎の外へ目をやっていた。馬車と人力車が行き交っている。そのさらに向こう、石造りの商館が途切れるあたりから炭と湯気の匂いのする道がはじまっていた。
子どもたちが手を振って呼ぶ気がした。
「淵殻は、もう華神の路地の隅々まで入っています。大人は働ける者から順に、行く行くは子どもたちにまで――」
「区画で言え」
男は正面を向いたまま、さらに声を低くした。私は唇を閉ざした。
「数に直せ。様子は不要」
蒸気が足もとを流れた。白いものが靴先を隠し、すぐに薄まった。
「失礼しました」
「続けろ」
「確認できた範囲では、南三番街から南六番街。屋台裏、洗濯場、集合住宅の階段下。売人は華神の人間を使っており、流動的。価格は量によって変動し、現物支給もあります。死者数は未確認です」
「未確認? すぐに確認しろ」
「承知しました」
男は紙巻を唇から外し、折れた先を手袋の上から指でならした。
発車ベルが鳴り、赤い帽子の駅夫が旗を振り上げる。線路の向こうで華神の男が荷物を抱え直し、列車の扉へ駆けた。すべてが同じ高さで混ざる。その中で男が言った。
「サイベルは、二重か」
「彼女は、限りなくシロです」
私はすぐに答えた。声の高さも震えもなく。
男は初めて、時刻表から目を離した。顔をこちらへ向けたわけではない。ただ視線だけが、私の横顔のどこかに置かれた。
「それは観測か。思いだけか」
私はすぐに答えるべきだった。だが、思い出してはいけないものから順に浮かんでくる。
華神の子どもたちと無邪気に笑い、淵殻の魔毒に差し伸べた手。そのどれも、根拠とは呼べなかった。監視記録に書けば、余白で済むものばかりだ。役に立たない細部は並べれば並べるほど、観測ではなく、私が捨て損ねた記憶に変わっていく。
男は黙って待っていた。その方がずっと重くのしかかる。
「観測です」
ようやく出た声が、抑えたつもりでも震えていた。
「根拠は」
「新生派との接触痕はありません。リードル側とも利害は一致していません。リードルの魔力痕の確保も、彼女の独断ですが任務上の成果です」
「独断だと」
「はい」
「管理できるか」
「します」
「できるかと聞いた」
足もとで低い振動が続いていた。床石を通じて伝わり、音というより骨に触れる気配に近かった。
「できます」
私の言葉を聞いて、男は紙巻を捨てた。火のついていないそれは、石床に落ちても煙を出さなかった。彼はようやく足を動かし、人の流れに半歩だけ入った。
「ラルフエルト」
呼ばれて、私は顔を上げた。男は振り返らなかった。列車方向へ足を止めず、肩越しに言った。
「通達の妨げになるなら――」
汽笛が鳴る。男の声はその中で続いた。
「ノームの席は、空けば埋まる」
返答の機会ごと、男は持ち去っていった。車輪が軋み、白い蒸気がホームを覆う。汽笛の向こうで、男の影は人の流れと蒸気の中へほどけていた。
私は外套の内側から新聞紙の包みを取り出した。朝刊の紙面には、鉄道会社の広告と帝国の相場が載っている。その間に紫の玉は収まっていた。紙越しでも丸い硬さが掌にわかる。取り出すだけの動作に、ひどく時間がかかった。渡せば終わる。ただの情報球だ。リードルの持つ情報を閉じ込めた石にすぎない。私は何度もそう思おうとした。けれど新聞の中で玉が動くたび、アイリーンの指先の温度まで挟んでいるような気がした。
『行きましょう、ヘルザ殿』
私は大ぶりの帽子をかぶった女性とすれ違いざま、黄色の手提げ鞄に新聞に包まれた投影石を入れた。人の波が背中や肩に触れ、左右へ分かれて流れていく。誰かの荷物が私の肘に当たり、謝罪の言葉もなく過ぎた。駅夫が床に落ちた切符を拾い、次の列車の時刻を叫ぶ。九頭駅は何事もなかったように昼前の喧騒を続けていた。
戻り道、赤い灯籠も香辛料の匂いも湿った空気の底へ沈み、私を静かに拒んでいるようだった。
しっかりしろ。私は帝国の魔術師だ。いや、その前にラルフエルト家の人間だろう。
路地の奥から、布靴の足音がぱたぱたと駆けてきた。
「おーい。ジェジェのお友達。ジェジェは?」
おかっぱのウロが私の横へ並び、左の袖を引いた。私は反射的に腕を引いた。その動きが、自分でも嫌になるほど早かった。
「ごめんなさい。今日はアイリーン……ジェジェとは一緒じゃないの」
言ってから、私は一拍遅れて膝を折り、目線を合わせた。
「え、なんだよ。せっかくマリがジェジェのために作ったのに」
坊主頭の後ろで両手を組むイーサンの陰に、マリが隠れていた。胸の前で、小さな布包みのようなものを両手で抱えている。色の違う端切れを縫い合わせ、赤い糸が一本だけ結ばれていた。
「そうだ、ジェジェに渡しといてくれよ」
「そういうものは、自分で渡すものよ」
私がそう言うと、イーサンは「それもそうだな」と答え、マリへ華神語で伝えた。私は、あの小さな手から差し出されるものをこの手で預かるのが怖いだけだった。
「貴方、ここで何してるの。帝国の方でしょ」
イーサンとウロが口を噤んだ。
女が私と子どもたちの間へ入り、華神訛りの帝国語で言った。飾り気のない身なりだった。藍の上衣は何度も洗われて色が抜け、首には木綿布、髪は黒い紐でひとつに束ねられている。
彼女は子どもたちを背に庇うように立ち、歓迎されていないと知るには十分だった。
「リンシャン、シエンション――」
イーサンはバツが悪そうに、先生と呼ぶリンシャンに華神語で何やら早口で弁解しているように見えた。リンシャンは私を睨み「子どもたちに関わらないで」と区切るように華神語で言った後、三人を囲うように両腕を広げ、私に背を向けた。マリだけが一度振り返り、胸に抱えた布包みの陰から手を振った。
「マンジェ――」
待って。私は華神語で呼び止めた。舌の上で、音は思ったより硬くなった。
束ねた黒髪の揺れが止まる。
何をしているのだ、私は。
リンシャンは子どもたちをその場に残し、早足で戻ってきた。
「まだ何か」
冷ややかな顔が間近に迫った。
「私はただ、あの子たちと話していただけで、別に――」
なぜ私まで弁解しているのだろう。少し離れたところで、三人は黙ってこちらを見ていた。
「貴方たち、帝国の人には、道端の猫を懐かせる程度のことかもしれない。でも、子どもには違いが分からない」
リンシャンは肩越しに三人を見た。言葉を挟む隙も与えずに続けた。
「優しくされたことだけ覚える。笑ってくれたことだけ覚える。その人が何者かなんて、大人になっても分からない人は大勢いる」
「だから……」
「もう関わらないでください」
アイリーンが浮かんだ。言葉が熱を帯びて喉元まで上がる。
けれど、リンシャンは私を睨んではいなかった。瞬きひとつせず、そのまま何かを押し戻すように私を見据えていた。私は開きかけた口を閉じた。




