第十七話
扉一枚で匂いが途切れた。黴と煤は廊下に置き去りにされ、野菜の甘さと煮込んだ牛肉、微かな酸味が部屋を満たしていた。
「お帰りでしたか、ヘルザ殿。ちょうど出来上がるところなんですよ」
部屋の奥から、アイリーンの声が届いた。琺瑯鍋の赤い中身をかき混ぜながら、こちらを振り返りもしない。カフェでのボルシチの話は、でまかせではなかったようだ。その手際を見ていると、リンシャンに何も言えなかったことが喉の奥へ戻ってきた。私はしばらく扉の前に立った後、彼女のもとへ歩み寄り、『餞別』を渡したことを短く伝えた。
「ヘルザ殿がなかなか戻らないので、外に出たら、つい色々と買い込んでしまって」
そう言いながら、彼女は鍋の中身を浅い窪みのある皿二枚によそい、卓に並べた。暗い紅色の表面に牛肉の脂が細かな輪をつくり、甜菜とキャベツが覗いていた。
「さあさあ、召し上がってください。結構自信があるんですよ」
立ったまま、いつものように大袈裟に両手を広げた。
木の匙ですくい、口に運んだ。酸味も甘味も互いを消していない。甜菜の甘さを牛肉の脂がほどよく抑え、赤い見た目に反して口当たりは柔らかい。汁は冷えていた腹の底までゆっくり染みた。
「どうですか。お味の方は? 帝国じゃ、この甜菜は珍しいかと」
両手を卓につき、前のめりに身を寄せる。卓の端の茶筒が、その拍子に小さく揺れた。
「ええ、温かい」
素直な気持ちだった。
彼女は一度きょとんとし、それから吹き出した。
「それは味の感想じゃないでしょ」
と笑いを収めながら、彼女は続けた。
「ところで、東征軍は何か言ってましたか?」
「障害を排除しろ、と。まずはネールランドを探さないと」
私は匙を動かしたまま答えた。アイリーンも卓につき、手を合わせてから匙を取った。
「それだけ、ですか?」
「…………それだけよ」
私は一口飲み込んでから続けた。
「そういえば、戻る途中であの子たちに会ったわ。マリが貴方に渡したいものがあるって。直接渡した方がいいと言っておいたから、今度会いに行ってあげて」
一息に伝え、再び匙を口へ運んだ。
アイリーンは匙を持ち上げたまま、嬉しそうに目を細めた。
「本当ですか。何かしら」
アイリーンはもう贈り物のことしか見ていなかった。言うべきか迷ったが、その横顔を見ているうちに口を開いていた。
「もう一人、リンシャンという華神の女性に会ったわ。子どもたちから先生と呼ばれていた」
「知っていますよ、その人。長い黒髪の若い女性でしょ。気質がヘルザ殿みたいな感じの」
私の驚きを気に留める様子もなく、浮いた油の部分だけを器用にすくって口にした。
「……どこが」
思いがけない返事に、声が低くなった。
「芯のあるところかな。だって、私はそういうのも、からっきしですから」
そう言って、次は甜菜だけをすくい、汁を皿の端で切った。
私は部屋を見渡し、卓上の皿に目を落とした後、アイリーンをじっと見つめた。
「なに、何かまずいこと言いました? わたし……」
視線に気づいたアイリーンが口元をこわばらせ、匙を置いた。
「華神の部屋で、レスイ料理を作る帝国人。そんな人、私は貴方しか知らないわ」
アイリーンは目を見開いた。
「一体、何の話ですか?」
私は答えず、匙を口へ運んだ。緩みかけた口元を見られないように。
食事を終えると、私は皿を重ね、水で軽く流した。琺瑯に当たる水音だけが、しばらく部屋に響く。
「……つまり、あのおじいちゃんの魔力痕を追うってことですか」
「そう。あの老人、バインはかなりの魔術師よ。リードルは、おそらく彼の張った結界から出てこない。なら、結界の維持も出入りの管理も、バインが担っているはず」
アイリーンは腕を組み、小さく頷いた。
「……淵殻を」
その言葉だけ、独り言のように零れた。
「ですが、ネールランドは、おじいちゃんを狙いますかね」
「狙うわ。バインを消せば、結界は張れないから」
彼女は何かを頭の中で組み立てるように視線を落とし、それから勢いよく顔を上げた。
「なるほど。流石、ヘルザ殿。暗殺者の素質がありますね」
右手を握り、左の掌へ打ちつけようとしたところで、私と目が合った。動きが途中で止まり、その拳は行き場を失う。
「暗殺者は、失言でした……」
私は何も言わなかった。気に掛かっているのは、その軽口ではない。淵殻という言葉を口にした瞬間だけ、彼女の魔力がわずかに揺れたことだった。
「貴方は魔力感知が鋭いから、見つけられると思うわ」
アイリーンは頷いた。しかし、返事は続かなかった。
「ただ……」
「ただ?」
彼女は膝の上で指先を組み直した。
「貴方は淵殻のことになると、魔力制御が甘くなる。そこだけは肝に銘じて」
俯いたまま、息を吐いた。
「……そうですね」
それから三日、私たちは九頭を歩いた。
結界に籠っていても、人は食べ、金は動く。物と金の通り道のどこかに足跡は落ちているはずだった。銀行街では鉄格子の窓口に並び、河岸の倉庫と香辛料市場を回り、日が落ちてからは荷運び人の宿を覗いた。アイリーンが足を止めるたび、私は息を潜めた。
「違います」
「これは、別の方です」
「……あのおじいちゃん、相当足跡を消すのが上手いですね」
三日目の夜には、卓に広げた地図が赤鉛筆の×で埋まった。椅子に座ると、歩き続けた足の裏だけが、まだ石畳の上にいた。
私は赤鉛筆を置き、指の腹で目頭を押さえた。
「何か、見落としている」
「あの」
寝台の縁で膝を抱えていたアイリーンが、遠慮がちに手を挙げた。
「私たち、ずっと地面を歩いてますよね」
顔を上げると、彼女は天井を指差していた。
翌日の朝、帝国資本の百貨店へ入ると、声が幾重にも重なっていた。化粧品売場の硝子越しに店員の声が跳ね、包装紙の乾いた音が重なる。菓子売場の前では子どもが母親の袖を引き、昇降機の脇では白手袋の係員が歌うような調子で階の名を読み上げている。
昇降機の格子戸が閉まると床が足の裏を押し上げた。アイリーンは首を伸ばし、格子越しに流れ落ちていく各階を目で追っている。階を上がるごとに音は薄れていった。絨毯と家具の階では足音ごと布に吸われ、美術品の階では客より店員の数が多かった。最上階の食堂を過ぎると人の気配は絶え、屋上へ続く階段だけが急に飾り気をなくしていた。
屋上は風の音だけがした。
休みの日なら、ここは賑わうのだろう。塗りの剥げかけた木馬が三頭並び、茶店の床几には緋色の毛氈まで敷かれている。だが平日の午前、老爺は湯呑みを両手で包んだまま動かなかった。金網の小屋から時折、小鳥の声だけがした。手すりに沿って、硬貨を入れて覗く望遠鏡が三台。覗き口の縁だけ鍍金が剥げ、無数の手に磨かれた地金が鈍く光っていた。
風で冷えた手すりの向こうは、九頭が一枚に広がる。レスイ人街の尖塔の連なり。華神街の低い瓦の波。その間を裂いて走る中央大街の両側には、帝国の石造りが四角い頭を並べている。旗を立てた軍本部。白い壁を几帳面に並べた陸軍病院。レスイは空へ向かって尖塔を建て、帝国は街を見下ろすため屋上を平らにし、その眺めに値をつけた。
「では、はじめてみます」
アイリーンは手すりに両手を置き、目を閉じた。風が栗色の髪を持ち上げる。私は彼女の斜め後ろに立った。階段口、望遠鏡の陰、給水塔の脚元へ順に目を配る。
私にも魔力感知はできる。だが行き交う人々の波紋の中から、巧みに畳まれた一筋だけを選り分ける——それは、私には無い芸当だった。
三十秒ほどが経ち、アイリーンの唇がかすかに動いた。
「……上からだと、重ならないんです」
目は閉じたままだった。
【空よ、わが耳を預かりたまえ。地よ、過ぎし足音を、いま一度歩ませたまえ】
それから、しばらく黙った。風の音だけが続く。
不意に、彼女の眉が寄った。
「一箇所だけ、変です」
「変?」
「わかりません。強い、というより——深いんです。同じ場所に、何度も、何度も重なってる」
目を開け、迷いなく一点を指した。その先にあるのは、銅葺きの緑青が昼の光を散らす大聖堂の丸屋根だった。
大聖堂までは、歩いて四半刻もかからなかった。送り込まれる冷気が、肩から沈んだ。石の底に溜まった空気が外套ごと私たちを包み、歩いてきた首筋から熱を抜いていく。蜜蝋と乳香は、その冷たさの底に薄く溶けていた。
聖堂の中は、外の昼より暗かった。高窓から落ちる光の帯の中で、香の煙がゆっくり形を変えている。壁のイコンの金地だけが蝋燭の火を受け、暗がりの奥で静かに燃えていた。
人は少なかった。頭巾の老婆が床を拭き、入口脇の売り場では、別の老婆が蝋燭を数えている。祈りの声はない。それなのに、無音ではなかった。石の建物そのものが、長い残響を抱えているようだった。
アイリーンは戸口で足を止め、それから、ゆっくりと歩き出した。床を読むような足取りだった。
彼女が立ち止まったのは、左手の奥——四角い燭台の前だった。
他の燭台は丸い。そこだけが四角く、細い蝋燭が数本、燃え尽きかけている。台の縁には、流れて固まった蝋が幾層にも重なり、根を張っていた。一度や二度ではない。毎日、同じ場所で、長く灯し続けた者の跡だった。
「死者のための燭台よ」
私は声を落とした。
「丸いのは生者のため。四角いのは、亡くなった者のため」
アイリーンは頷き、台の縁の蝋の根へ、指先を近づけた。触れはせず、長い間そうしていた。
「……同じです」
ようやく開いた口から、囁きが漏れた。
「あの時に感じ取った痕と同じ……でも」
言葉を探すように、指先が宙で小さく円を描く。
「夜会の痕は、纏うみたいだったんです。硬く畳んで、隙間なく仕舞ってあって。取れたのは、ほんの一瞬の綻びで、けれど……」
指が止まった。
「ここのは、剥き出しです」
蝋燭の火がどこかから入る風にわずかに揺れた。
「この場所だけ、この人は纏を脱ぐんですね」
私は答えなかった。ただ、どこまでも高い天井へ向かう蝋燭の火の揺らぎを追った。誰のための灯かは、わからない。革命に呑まれた家族か。もう地図にない祖国か。それとも——名も知らぬ、数えたこともない誰かか。
蝋の層は、ただ厚かった。
「この人にも、隠せないものが、あるんですね」
アイリーンは燭台を見つめたまま、独り言のように言った。俯いたその横顔は、いつかの時と同じだった。私は目を逸らし、イコンの金地へ視線を移した。同じ形の弱さ。けれど、その中身まで同じだとは、私には思えなかった。
帰り際、蝋燭売りの老婆の前で私は足を止めた。細い蝋燭を一本買った。老婆は釣り銭を数えながら、一度だけ私の髪を見た。
祈りの作法は知らない。それでも、失われたものへ灯を捧げる手つきなら——知っている気がした。




