第十八話
外は冬の入り口らしい冷気に満ちているはずだった。だが聖堂の石の冷えを潜ったあとでは、雲一つない空の下の十一月がかえって暖かかった。
「人は祈りを捧げた後、どこに足を運ぶのでしょうか」
アイリーンは大聖堂を背にし、通りの人の流れをゆっくりと目で辿った。
私は祈りを捧げるような人間ではない。だが、お父様を亡くした時、屋敷の隅の長椅子に一人で座っていた。白い塗装の剥げた、もう誰も座らない椅子だった。悲しみも、思い出も、廻らせはしなかった。ただ、黄や赤に染まって落ちていく葉を数えるでもなく見ていた。
「……公園」
気づけば、口にしていた。アイリーンはその言葉を拾い、私の左手を両手で握った。
「それですよ、ヘルザ殿。確か通りを挟んだ所に中央公園があります。ここからそう遠くありません。行ってみましょう」
私は頷いた。引かれた左手に、体が遅れてついていった。
中央公園は鋳鉄の門から始まっていた。黒い格子の先に砂利道がまっすぐ伸び、両側の白樺は葉をあらかた落として、白い幹だけが骨のように明るかった。
道の先が開け、池が広がっていた。対岸の東屋が小さく見えるほどの水面が、空をそのまま横たえ、縁だけが薄く凍りはじめている。
人はまばらにいた。毛皮の帽子の老人が長椅子で新聞を読み、乳母車を押すレスイの女が砂利を鳴らして遠ざかっていく。皆、示し合わせたように池に沿って歩いていた。
アイリーンが足を止めた。その視線を辿り、私も気づいた。新聞を持つ老人の奥にバインはいた。
彼は長椅子に浅く座り、丸めた背から足元へ餌を撒いている。鳩が数羽、その足元に群れていた。遠目にも警戒している者のものではなかった。
「ヘルザ殿の勘が当たりましたね。しかし、あそこまで白昼堂々とされたら、どうしたものやら」
私たちは木の陰に移った。アイリーンが老人の周囲へ目を配る。
あまりにも開け過ぎている。逆にここなら、狙われない自信があるのだろうか。それとも……。
乳母車が鳩の群の手前で歩みを緩めた。バインまでは、あと十歩もない。
まさか。あの乳母車の中に——。
私は木の陰から半歩、体を出した。
その半歩が、私を生かした。
耳元で、布を一気に裂いたような音が走った。次の瞬間、直前まで頭のあった高さで背後の樹皮が乾いた音を立てて欠けた。
乳母車ではない。方向がまるで違う。
「アイリーン、離れないで」
彼女を背に庇い、右手を宙へ走らせた。即興の結界。二発目が目の前で止まり、金属の塊は足元の砂利へ転がり落ちた。
視界の奥で、乳母車は何事もなく鳩の群を迂回し、通り過ぎていった。女はこちらを見もしなかった。
——狙いはバインではない。初めから私たちだ。
三発目が、膜の外で潰れた。即興の薄い結界は、注ぎ続ける魔力だけで保っている。手を止めれば破れる。足を出せば、ずれる。私はその場に縫い留められた。
バインが立ち上がるのが見えた。鳩が一斉に飛び立つ。その白い羽ばたきの向こうで、丸めていた背はもう老人のものではなかった。彼は一度もこちらを振り返らず、池を離れていく。
樹皮の裂け目だけを見た。弾は幹を横から浅く削り、木屑を私の肩へ散らしていた。池の向こうから、遅れて乾いた発砲音が届く。距離がある。二発目も、ほぼ同じ角度から結界へ食い込んだ。射線は池を挟んだ向こう岸から伸びている。木立の奥か、その外側。姿を隠したまま、こちらの動きだけを見ている。
私たちがここへ来ることを、誰かが知っていた。昇降機の係員。屋上の老人。大聖堂の蝋燭売り。いずれか。あるいは、どれも。
「ヘルザ殿、かなり遠くからです。おそらく――」
鈍い衝突音とともに結界が震えた。声を呑み後退りかけた彼女の腕を私は左手で掴んだ。
「結界は広くない。離れないで」
「――ですから、池の氷を散らせば、一瞬死角を作れるかと」
人目のある場所で大きな術式を使うのは避けたかった。しかし、他に選択肢はなかった。私は頷いた。
アイリーンは池に向かって両手を上げた。私は彼女の前面へ結界を集中させた。
【眠りし水よ、底より起きよ。凍れる光を、暫し散らせ――】
池の中央で、水面が持ち上がった。
張りはじめの薄氷が下から割られ、水ごと空へ弾ける。白い水柱だった。思っていたより、ずっと高い。遅れて轟音が届き、足の裏から砂利が震えた。砕けた氷が細かな幕となって降り、昼の光をあたり一面に散らした。
「今のうちです」
氷の幕はもう薄れはじめていた。私たちは走った。中央大街通に着いた頃、アイリーンは「少し、やり過ぎましたね」と息の合間に、かすかに笑った。だが、私が相槌を打つまもなく彼女は顔の向きを変えた。
「あちらの方で、魔力の揺らぎが」
アイリーンが華神街の筋を指した。
あの狙撃は四発で止んだ。その直後の、この揺らぎ。繋がっていないと考える方が難しい。ただ、その糸の先に何があるのかは見えなかった。
手首まで毛皮を巻いた少女が、母親を見上げながら前を横切っていく。ここは人が多すぎる。立ち止まるわけにはいかなかった。
赤い灯籠の下を、鍋から立つ湯気が幾筋も横切っていた。人を避けながら進むうち、アイリーンの足が次第に速くなった。
「隠しているのではありません。魔力そのものが、弱っているような……」
筋を一つ折れたところで、彼女は走り出した。
木箱が乱雑に積まれた陰にレスイの老人が倒れていた。壁に背を預け、片脚を投げ出している。灯籠の赤い光が白髪と頬を交互に照らした。
「バインさん」
アイリーンが膝をつき、その身体を抱き起こした。背に回した手が、すぐに赤黒く染まった。
バインの背には細身の短剣が深く刺さっていた。呼吸のたび、喉の奥で湿った音がした。息が、血の中を通っている音だった。
彼は私たちを見て、何かを伝えようと唇を動かした。だが息が漏れるだけで言葉にはならなかった。
「もう喋らなくていい」
私はバインの背へ手をかざし、治癒の術式を組んだ。指の間から生まれた緑の光が傷口を覆う。血の流れはわずかに鈍った。だが、それだけだった。緑の光は幾度か弱く脈打ち、掌の下で痩せていった。
「……間に合いませんでしたな。今度こそ、一曲ご一緒したかったのですが」
老人はゆっくりと私を見た。掠れた声には、微笑みの名残さえあった。
「刺したのは誰」
バインは首だけを横に振った。答える気がないのか、もうその力が残っていないのかは、分からなかった。
それから、視線をアイリーンへ移した。
「祖国を愛する者は……自分だけは、赦されると……」
息が途切れ、喉の奥で血が鳴った。アイリーンが首を振る。喋らないで、と。だが老人は続けた。
「昨日まで罪だったものが……今日には、忠義になる。人は……一番美しい言葉を、一番醜い行いの……理由にできる」
アイリーンはもう、止めなかった。ただ、頷いた。不意に、バインの左手が持ち上がり、骨ばった指がアイリーンの腕を掴んだ。その力に、彼女がわずかに目を見張った。
「知っていて……捨てられなかった。リードル様のお側についたのも……祖国のためでは、ない。ただ……」
薄く、笑った。
「失うのが……恐ろしかった」
腕を掴んでいた指から力が抜けた。バインの唇がわずかに開き、長い息がひとつ漏れる。
次の息は、来ない。
灯籠の赤が閉じた瞼の上で揺れている。毎日、死者の燭台へ蝋燭を灯し続けた男の顔だった。
アイリーンはバインを静かに横たえ、掴まれた袖に残る赤い指の跡を見つめた。
「掴まれた腕に、何か」
「……いえ。それが、何も」
アイリーンは血に汚れた自分の手と袖とを何度も見返した。魔力痕も、印も、彼女は何ひとつ拾えなかった。
「あの力は、ただの縋りつきではなかった。何かをしようとしていた」
「……はい。私もそう感じました。ですが、それが何かは——」
わからないものは、わからないまま持つしかない。私はバインへ短く頭を垂れ、背を向けた。
♢
『屋根』へ戻る途中、リンシャンといつもの三人の子どもたちに行き合った。坊主頭のイーサンがリンシャンの顔色を窺い、それでもこちらへ小さく手を振った。
アイリーンは両手を背に隠し、何事もなかったように笑った。背に隠した指先を擦り合わせ、こびりついた血を落とそうとしている。そんなことで消えるはずもなかった。
イーサンが、ジェジェに渡してもいいだろう、とリンシャンへ食い下がった。リンシャンはアイリーンを一度見てから、目でマリを促した。それでも動かない背を最後には掌でそっと押した。
まずい。
マリは胸へ抱えていた布包みを両手で持ち直し、小さな歩幅でこちらへ近づいてきた。背に隠した手は出さないまま、アイリーンが身を屈める。
「けがしてる、だいじょうぶ?」
つたない帝国語だった。
マリの目は、アイリーンの左袖に残った血へ向けられていた。
「だいじょうぶ、へいきです」
アイリーンの表情はマリの前では崩れなかった。だが、背に回した手の指が一本ずつ内へ折れ、爪が掌へ食い込んだ。
リンシャンの目は、いつまでも出てこない手へ向いていた。子どもたちの後ろから歩み出ると、首へ掛けていた木綿布を外した。
「手を」
アイリーンは一瞬だけ私を見たあと、背に隠していた左手を差し出した。
リンシャンは赤茶けたその手を取り、木綿布で包んだ。布の端を手首へ回し、そのまま固く結ぶ。アイリーンは右手を背に残したまま、されるがままになっていた。
リンシャンは結び目を確かめると、マリへ頷いた。マリは布包みを両手で押し上げるようにして、アイリーンへ差し出した。
「いいにおい、するでしょ」
今度は華神の言葉で、得意げに言った。
アイリーンは木綿布の巻かれた左手だけを差し出し、掌の窪みでそれを受けた。右手は背に隠したままだった。
左手を鼻先まで持ち上げる。
「わあ、いい香り」
声は弾んでいた。だが、目だけは閉じなかった。甘い香りが揺れるその底に、まだ鉄の匂いが残っていた。
マリは何を入れたかを話しはじめた。母親に手伝ってもらったのだと。アイリーンは頷きながら、その手を下ろさなかった。話が終わるまで、片時も。
「ずっと嗅いでたら、鼻がばかになっちゃうよ」
イーサンが笑った。
アイリーンは話が終わるのを待ってから、ようやく手を下ろし、香袋を胸元へ抱いた。
リンシャンはマリの手を取り、
「毒蛇は自らの毒で死ないというけど、どうかしら」
とだけ残して歩き出した。
「ありがとう。これ、洗って返すわ。必ず」
アイリーンの声は背中へ届いたはずだった。だが、リンシャンは振り向かなかった。




