第十九話
洗面台から、水音だけが聞こえていた。
リンシャンの締めた木綿が乾いて硬くなっている。アイリーンは指先でそれをほどき、汚れた布を洗面台の縁へ置いた。水はとうに透明へ戻っていたが、それでも何度も手を擦り合わせている。
「……ヘルザ殿」
蛇口が軋み、水音がふつりと途切れた。
「おじいちゃん……バインさんを、わざわざあそこまで誘き寄せて仕留めた理由は、何だったのでしょう」
私は窓辺へ目を向けた。マリの香袋が揺れ、乾いた花の匂いが部屋を満たしている。アイリーンはそれに手を伸ばしかけ、洗ったばかりの指を見てやめた。
「狙撃では足りなかったのよ」
アイリーンが振り返った。
「長距離から正確に撃てる者は限られる。射線と距離を割り出せば、候補は絞られる」
「……候補は、そう多くありませんね」
私は頷いた。
「でも、それだけでは説明がつかない」
バインは私たちに悟らせず結界を張り、アイリーンの目さえ欺くほど魔力を抑えていた。
「敵に気づいていたなら、あれほどの魔術師が背中を許すはずはない。結界の一つも張っていたでしょう」
アイリーンが息を呑んだ。
「近づけたのは、警戒されない相手だった。だから狙撃ではなく短剣だった。確実に背中へ届く方法を選んだのよ」
アイリーンは着替えたばかりの白い袖へ目を落とした。血はもう洗い流されている。それでも、そこを掴まれた感触だけは残っているようだった。
「……顔見知り。あるいは、最後まで疑わなかった相手」
「そうね。――それとも」
言いかけて、私は口を噤んだ。魔力を持たない者は魔術師の感覚には、はじめから映らない。その形は喉の奥に留まり、まだ音にはならなかった。
彼女はまっすぐに私と目を合わせ左の袖をそっと撫でた。
「だったら、最後に私の腕を掴んだのは、どうしてだったのでしょう。何度思い返しても、ただ縋っただけには思えません」
私はすぐには答えなかった。
「……それは、私にも」
血に濡れた老人の口元が、一瞬だけ浮かんだ。
「でも、一つだけ確かなことがある。バインがリードル側に残った最後の魔術師だったのなら、私たちには時間がない」
「そうですね。彼の結界がなくなった今なら、リードルの魔力痕を追えると思います」
そう言うと、アイリーンは外套の釦を留めながら扉へ向かった。
「ヘルザ殿」
把手に掛けた手はそのままだった。声だけがいつもより少し低かった。
「……ヘルザ殿は、この任務を何のために続けているのでしょうか」
言い終えた途端、アイリーンは目を伏せた。
「……すいません。何でもありません。忘れてください」
首を横に振り、一拍置いてから、いつものように笑おうとした。
「任せてください。すぐに見つけますから」
「アイリーン」
呼び止めたものの、その先の言葉は用意していなかった。ただ「お願いね」とだけ言って、彼女の肩に右手を置いた。
「今の『屋根』も、もう目をつけられているかもしれませんね」
外に出ると、アイリーンは頭上の洗濯物の綱をまじまじと眺めた。彼女の言う通り、結界を張っているとはいえ、前の『屋根』のような襲撃は避けたい。
私は歩きながら、引っ掛かっていたものをもう一度なぞった。ネールランドの仕業だとするなら、腑に落ちない。最初の襲撃は手投げ弾だと彼女は言った。建物ごと吹き飛ばされ、魔導具もすべて失った。だが今日の狙撃は違う。距離も手順も、あまりに慎重だった。まるで別人の仕事だ。
「ヘルザ殿。どうかされましたか」
アイリーンが顔を覗き込んだ。私は我に返り、「何でもない」とだけ返したが、視線は彼女の左腕へ落ちていた。
「リードルの魔力は微量よ。それでも、杖なしで追えるの?」
「前にも言ったでしょう。昔、人探しを生業にしていたと」
「ええ。でも前みたいに屋上へ上がれば、また狙撃されるかもしれない。まずは居場所をある程度まで絞りたい」
アイリーンは顎に手を当て、首を傾げた。
「隠れ家にもなるような場所ですか……。あの人、貴族出身だから倉庫みたいな粗末なところにはいないと思うんです。自分のこだわりが邪魔して……」
路地の先へ目を向けたまま、首を振った。
「ホテルや倶楽部なら、真っ先に探されますし……」
その言葉に、談話室の卓上を転がっていた氷の球が不意に脳裏へ浮かんだ。ヴィエルナの谷。純度の高い氷。遠くから運ばせるほどの執着。
この街で、夏を越すほどの氷を抱えられる場所は限られる。
「……氷」
「え?」
「ビール工場よ」
アイリーンは一瞬きょとんとしたあと、息を呑んだ。
♢
路地を二つ抜けると、赤煉瓦の建物が見えてきた。煤に黒ずんだ煉瓦壁が四階ほどの高さまでそびえ、屋根から伸びる煙突だけが曇った空を突いている。表門には荷馬車が何台も停まり、樽を抱えた男たちが帝国語とレスイ語を交ぜながら忙しく行き来していた。麦を煮る甘い匂いと酵母の酸味が風に乗り、石畳まで流れてくる。
門柱には文字の掠れたレスイ語の看板が残っていた。帝国の支配になっても、ここだけはまだ別の国の時間が流れているように見えた。
私は建物の奥へ目を凝らした。煉瓦造りの醸造棟は裏手だけが昼でも暗かった。荷車の轍は地下へ下る搬入口の暗がりに消え、冷えた空気がそこから静かに流れ出ている。
隣で、アイリーンが足を止めた。
「……います」
低い声だった。
「冷気に散らされていますが、間違いありません。微弱ながらリードルの魔力です。地下へ続いています」
私は搬入口へ目を向けた。
「地下熟成庫ね」
アイリーンは頷いた。
搬入口の前には、麦を積んだ荷車が二台並んでいた。男たちは樽を肩に担ぎ、地下から流れ上がる冷気など気にも留めず、慣れた足取りで出入りしている。
私は外套の襟を立て、アイリーンを見た。
「行きましょう」
彼女は黙って頷き、半歩先へ出た。
煉瓦の階段は地下へ向かうほど狭くなり、石壁には長い年月をかけて滲み出た水が黒い筋を残していた。一段降りるごとに麦の甘い匂いは薄れ、湿った土と冷えた石の匂いが肺を満たしていく。
やがて、頭上の喧騒は途絶えた。
聞こえるのは、どこかで水滴の落ちる音だけだった。
アイリーンの後について歩くと、煉瓦の柱が等間隔に並び、その間を幾列もの樽が埋めていた。天井近くの小窓から差し込む細い光だけが、冷えた床を白く照らしている。
「氷は形を保っているから価値がある」
聞き覚えのある男の声が、地下の壁に反響した。
「溶けてしまえば、あとは流されるだけだがね」
リードルが柱の陰から姿を現した。高い鼻の先を指でひと撫でし、私たちの前まで歩み寄った。
両手は空だった。
私の視線は袖口へ落ちた。仕立ては一流だったが、襟も袖も何年も前の流行のままで、一度も直された形跡はなかった。
「ご無事でしたか。リードル殿」
アイリーンの言葉に、リードルは露骨に眉をひそめた。
「……なんだか私、嫌われていますね」
私へだけ聞こえる声で囁いたつもりなのだろう。だが、この静かな地下では、おそらく本人にも届いていた。
「バインが言っていた。自分が死ねば、君たちがここへ来る、と」
沈黙の中、冷気が足元を流れた。
「……そうか。逝ったか」
束ねた金の髪は乱れひとつなく、その顔にも何ひとつ浮かばなかった。老人の死をどう受け止めたのか、私には読み取れない。
「ラルフエルトだったかな。君には帰る故郷があるだろう」
リードルは私だけを見た。
「ええ、あるわ」
お母さまの顔が浮かんだ。私の髪を撫でる、あの優しい手も。
「そうか」
彼は何もない天井を見上げた。
「私は毎晩、帰っている。美しい空も、暖炉の温かさも、鐘の音も……昔のままだ」
ゆっくりと顔を戻したが、私とは目を合わせなかった。
「目を覚ますと、この街だけが残っている」
男は笑った。
乾いた音だけが地下熟成庫の奥へ長く残った。
長い沈黙のあと、私はようやく口を開いた。
「バインさんのことは残念です。これからは、私たちが護衛いたします」
リードルはさっきとは違う笑みを浮かべた。口元を歪ませ、人を嗤うためだけの笑みだった。
「まったく、仕事熱心で感心する。ところで、君は何のためにそこまでする」
「任務だからです」
反射的に答えていた。いや、そう答えるしかなかった。
隣へ目をやった。
あの時、同じ問いを私へ向けたアイリーンは何も言わず、私の答えだけを静かに聞いていた。
「そこの娘は、そうは思っていないようだが」
リードルがアイリーンを一瞥した。それでも彼女は何も言わず、私だけを見ている。
「商人は、品ではなく値打ちを売る。私は、まだ値が付くと思っていた」
柱の陰、樽と樽の狭間には藁を被せた氷塊が積まれていた。荷札に記されたレスイ語は掠れ、角だけが溶けて丸くなっている。リードルはその一つへ歩み寄り、藁を払った。
「何にですか」
「私にだよ」
彼は氷の面へ掌を置いた。長い指の下で、溶け水が細い筋を引いた。
「亡命貴族――それだけで、まだ値が付くと思っていた」
「バインさんは、それに気づいていたのですね」
氷の面をなぞっていた指が止まった。
「あれは昔から、値踏みだけは私より上手かった。何度も言われたよ。『坊ちゃん、その品はもう売れません』と」
私は目を伏せた。
「それでも、続けた」
「番頭が一人欠けたところで、代わりはいくらでも金で揃う」
声だけは、談話室で氷を回していた頃のままだった。だがその言葉は樽の並ぶ暗がりへ沈み、当の本人の耳へだけ遅れて還るようだった。リードルは自分の掌を見た。氷に奪われた熱の分だけ、指先が白くなっている。
「……代わりなど、いるはずもないのにな」
掌が氷から離れ、濡れた跡だけがしばらく黒く残った。
「気づけば、売っていたのは情報ではない」
私は息を詰めた。
「人だった」
樽の木が冷えた空気の中でかすかに軋んだ。
「淵殻も……最初から、それが目的だったのですか」
「違う。最初は通り道だった。いつの間にか、売り物になった」
アイリーンの魔力に揺らぎはなかった。
「だから、バインさんは殺されたのですか」
「値打ちを知りすぎた品は、店には置いておけない」
言い終えてから、リードルは氷塊へ向き直り、囁いた。
「――インペリーシカ」
レスイの言葉だった。意味は取れなかったが、それが私たちへ――私たちの祖国へ向けられた棘であることだけは、声の硬さで分かった。
私は聞き流した。それが、今の私にできるせめてもの慰めのように思えた。
リードルは懐から紫の玉を取り出した。あの夜、羅紗の上を転がして寄越した男が、今度は自ら二歩を詰め、私の掌へ両手で載せた。
「残りの情報だ。淵殻からも身を引く。……だから、もう終わりだ」
玉には彼の体温が残り、わずかに温かかった。
私は指を閉じず、掌に載せられた紫を見つめた。欲しかったはずのものだった。これを持ち帰れば任務の大半は終わるはずなのに、何かを受け取ったという感覚だけがなかった。
「どういうことでしょうか」
問いかけた時には、リードルの両手はすでに離れていた。
「言った通りだ。二度言う気はない」
この男の言葉を信じられないのではない。ただ、どこから数えても辻褄が合わなかった。
「私たちは、あなたを保護する命令も受けています。それなのに、なぜ――」
リードルは私の言葉を遮り、長い指を唇へ運んで短く口笛を鳴らした。
搬入口の暗がりから四人のレスイの男が姿を現した。私は反射的に半歩退き、アイリーンと背中を合わせたが、男たちは私たちへ近づかず、リードルの前で足を止めた。
「ラルフエルト殿を外まで送れ」
低い声で命じてから、リードルはアイリーンへ長い指を向けた。
「蛇女。お前は残れ」
私は思わず一歩前へ出た。
「どういうことですか」
「何もせん。最後に少し話をさせてくれ。それが私からの頼みだ」
「そんなことは受け入れられません」
言い切る前に、アイリーンが静かに首を振った。
「大丈夫です、ヘルザ殿。どうか、ここは彼の言葉を聞いてください」
いつもの芝居がかった調子も、大袈裟な身振りもなかった。魔力にも揺らぎは感じられなかったが、左手は白い袖の下で固い拳を作っていた。
「でも、こんなことは……」
そこから先の言葉が続かなかった。
リードルはこれまでアイリーンを避けてきたが、嫌っているだけなら、あれほど目を逸らす必要はなかった。それなのに今は、彼女だけを残そうとしている。アイリーンも、それを拒まない。
バインが死んでから、二人の間にあったものが初めて私にも見える形になった。いや、それ以前から見えていたものを、私だけが見落としていたのかもしれない。
「君は、あの夜の氷の球に似ている」
リードルは鼻で笑い、今度は長い人差し指を私へ向けた。
「澄み切って角ひとつないが、脆い」
私を見ていたアイリーンが、そこで初めて目を伏せた。
私には話せないのだろうか。それは、私が命令に従う帝国の武官だからなのか。だけど...
「さっき、私に聞きましたね。この任務を何のために続けているのかと」
私はリードルではなく、アイリーンを見た。伏せられていた顔がゆっくりと上がる。
「私は魔術師です。魔法が世界を変え、人を救えると信じています」
そこで初めて、掌の紫を握った。
「どんな力が相手でも――誰が相手でも、その気持ちは変わりません」
アイリーンは何も答えなかったが、白い袖の下で作られていた拳が、わずかに解けた。
私はレスイの男たちに促され地上へ続く階段へ向かった。
「アイリーン、待ってますから」
振り返らないまま右手を上げ、乱れてもいない髪を整えた。




