第二十話
えぐられた樹皮に触れる。指に残るのは、ざらつきと冷たさだけだった。
やはり魔力は感じられない。
辺りを見渡した。冬の夜風を避けたのか、池沿いに人影はない。ところどころに立つガス燈だけが暗がりの中に遊歩道を細く浮かび上がらせていた。
バインの指は最期にアイリーンの腕を掴んだ。リードルの側に残った男が彼女に何を託そうとしたのか。私だけがその輪の外にいた。
手掛かりを得られないまま華神の筋へ戻った。赤い灯籠が濡れた石畳に揺れ、閉じかけた食堂から香辛料と獣脂の匂いが流れている。軒下には汗ばんだ男が壁にもたれ、痩せた女が誰もいない路地へ頷いていた。角では外套の男が、足を止めた者へ懐から何かを渡している。昼の喧騒は消えていたが、街はまだ眠っていなかった。
坊主頭とおかっぱ頭、二つの子どもの影が路地を横切った。こんな時間に?
嫌に速まる鼓動を抱えたまま後を追い角の陰から様子を窺う。やはり、イーサンとウロだった。二人は柄の悪そうな男と何やら話し込んでいる。
「あなたたち、こんな時間に何をしているの」
私は角を出て、子どもたちの前へ立った。イーサンもウロも隠していたものを見つけられたように俯いた。
「その言葉、帝国の人間か。俺たちの商売を邪魔しないでくれ」
男は華神語でまくし立てながら怪訝そうに距離を詰めてきた。聞き取れたのは、その程度だった。
公衆の面前で術式を使うことは禁じられている。その時ばかりは忘れていることにした。忘れたというより、ただ機嫌が悪かったのだろう。アイリーンが必死に守ってきた人々を子どもまで使って汚す男に。いや、その奥にいる、認めたくない自分自身に。
いずれにせよ男は、私のさもしい八つ当たりで宙を舞い、路上に積まれた木箱へ突っ込んだ。
私は呆気に取られた二人の腕を掴み、その場を後にした。路地を二つ抜けたところでイーサンが私の手を振りほどいた。
「よくないことだって、分かってる。でも、俺たちが貧乏なのは帝国やレスイが来たからだろ」
「だから、毒を売るの?」
イーサンは唇を噛み、私の外套の留め金へ目を向けた。
「俺たちは運ぶだけだ。あいつらが何に使うかなんて、知らない」
「知らなければ、関係ないとでも思っているの」
「じゃあ、どうすればいいんだよ」
張り上げた声が狭い路地に反響した。冬の壁はその声をどこへも逃がさなかった。ウロが慌ててイーサンの袖を引いたが、彼は構わず続けた。
「店の荷物を運んでもパン一つ買えない。あれを渡せば、その日の飯が食える。帝国の人は駄目だって言うだけで、代わりに何もくれないじゃないか」
施しをしたところで、何かが変わるわけではない——いつかアイリーンに投げた言葉が、少年の口から跳ね返ってきた。
私はすぐには返せなかった。
——魔法が世界を変え、人を救える。これも彼女へ向けた言葉だ。
私は少年たちに顔を向けた。
「この辺りに、水を売る店はある?」
思いがけない問いだったのか、イーサンの怒りがわずかに緩んだ。
「……東の筋にある。でも、井戸が濁ってからは、よその水を買って売ってる」
「明日、そこへ案内しなさい。水脈が生きているなら、私が井戸を使えるように戻すわ」
「井戸を直して、どうするんだよ」
「代わりに、店の主人へあなたたちを雇わせる。食堂や洗濯屋へ水を運ぶ仕事なら、毎日あるでしょう」
イーサンは疑うように目を細めた。
「あんたがいなくなったら、また終わりじゃないか」
「魔法を使うのは最初の一度だけよ。井戸も、店も、水を買う客も残る」
「そんなにうまくいくもんか」
「うまくいかせるの。井戸を直す代価として、二人を雇うこと。桶と手押し車を貸すこと。働いた分は、その日のうちに払うこと。リンシャンにも立ち会ってもらうわ」
ウロが初めて顔を上げた。イーサンはまだ何か言いたそうにしていたが、先ほどまでの勢いはなかった。
「重いし、何度も往復する。手も割れるでしょうね」
私は続けた。
「魔法でパンは出せない。でも、井戸を一つ戻せば、パンを買う仕事は残せる」
私は二人へ右手を差し出した。少年たちは顔を見合わせ、やがてイーサンが「分かったよ」と声を落とし、そっと私の手を握った。
♢
翌朝、東の筋の入り口で、イーサンとウロ、リンシャンと落ち合った。その後ろにマリが半分隠れるように立っていた。一通り話すと、リンシャンは呆れたように息を吐いたが、反対はしなかった。もちろん淵殻のことは伏せている。
水舗は食堂や染物屋へ井戸水を売る小さな店だった。軒下には空の桶が積み重なり、大きな一輪の手押し車が壁に立て掛けてあった。店の奥では井戸の口が厚い板で塞がれていた。
店主は私たちを順に眺め、最後にリンシャンへ華神語で何かを尋ねた。彼女が短く答えると、男は鼻を鳴らした。
「井戸を直すだって? 帝国は水まで売るつもりか」
訛りは強かったが、その程度なら聞き取れた。
「水を売るのはあなたよ。私は井戸を戻すだけ」
私の拙い華神語を聞くと、男は苛立たしげに井戸を塞ぐ板を靴先で叩いた。
「濁って使えん。今は三筋先から水を買って売ってるが、運び賃を引けば、儲けはほとんど残らん」
「中を見せてください」
店主はしばらく私を見ていたが、やがて板に掛けた錠を外した。イーサンとウロが両端へ手を掛け、重い蓋をずらす。井戸口から冷えた泥の匂いが上がった。
私は指先に灯りを生み井戸の内へ滑らせた。白い光が底へ沈むにつれ、石積みの一部が崩れているのが見えてきた。その奥から、濁った水が細く流れ込んでいる。底には泥が溜まり、浮いた藁が灯りの下をゆっくり回っていた。
「水脈が枯れたわけではないわ」
私は井戸の縁へ掌を置いた。崩れた土の向こうには、まだ水の流れがあった。ただ、その上を通ってきた汚れまで一緒に引き込んでいる。
リンシャンは井戸の周囲を一度回り、裏手の排水溝へ向かった。細い棒を土へ差し込み深さを測りながら店主へ何かを尋ねる。
「洗い水が、去年から井戸の方へ流れるようになったそうよ」
「それで土が緩んで壁が崩れたのね」
彼女は頷き上衣の袖を肘までまくった。
店主が古い手押しポンプを運んできた。革の弁は乾き、鉄の柄には赤い錆が浮いている。
私は柄の根元へ指を当て、術式を鉄へ這わせた。淡い光が錆の下を走り、継ぎ目へ吸い込まれていく。指を離すと、柄は見えない手に押されるように沈んだ。底で光が脈打ち、軋みながら元の位置へ戻る。そのまま魔力の脈に合わせ、ひとりでに上下を繰り返し始めた。
最初の一往復では管の奥から空気だけが咳き込むように吐き出された。二度目には泥が飛び、三度目でようやく、濁った水が桶へ落ちた。
桶が満ちると、イーサンとウロが両側から抱えて路地の外へ運んだ。二人が戻る頃には次の桶へ水が半分ほど溜まっている。
だが、何度汲み出しても濁りは消えなかった。井戸壁の裂け目から泥水が細い糸となって流れ込み続けていた。
私は右手を井戸へ向けた。
【地の底に鎮まる磐座よ
今ひとたび目醒めよ
土よ、崩るるなかれ
石よ、形を失ふなかれ】
崩れかけた壁の表面が白く曇り、石と湿った土が押し固められていく。
濁りの筋が細くなった。
「長くは保たないわ」
「それで十分」
リンシャンは腰へ縄を結び、石灰と粘土の練り物が入った浅い木桶を井戸端へ寄せた。イーサンとウロが縄を支える。
「あなたが下りるの?」
「他に誰がいるの」
リンシャンは暗い底を見下ろした。
「頼むわよ」
低い声だった。けれど私を見る目に、いつもの棘はなかった。
彼女はゆっくりと井戸を下り、崩れた壁の手前で止まった。私が土圧を押さえている間に、外れた石を拾い、形を確かめながら元の隙間へ戻していく。石灰と粘土を指で押し込み、木槌の柄で奥まで詰めた。
マリは井戸口へ膝をつき、リンシャンの求める石を一つずつ縄籠へ入れていた。
最後の石が収まる頃には、私の指先から感覚が薄れ始めていた。
「リンシャン、そろそろ限界よ」
「あと少し」
彼女は返事を待たず、裂け目の上へ最後の粘土を塗り込んだ。それから井戸壁を掌で二度叩き縄を引いた。
地上へ戻ったリンシャンの頬には泥がつき、両手は石灰で白くなっていた。私は術式を解いた。
壁は、崩れなかった。
再びポンプを動かすと、最初の数桶にはまだ泥が混じった。十桶を越えた頃から色が薄くなり底の見える水が管から落ちはじめた。
イーサンは桶を持ち上げ、朝の光に透かした。匂いを確かめ指先を浸して舐めようとしたところでリンシャンがその手を叩いた。
「まだ飲むな。何度か汲み出して、沸かしてから」
イーサンは叩かれた手を擦りながらも、桶から目を離さなかった。
それから二人は、空になった手押し車を路地へ出した。軋む車輪を鳴らして押してみたが、真っ直ぐには進まず、食堂の壁へぶつかりそうになって慌てて引き戻す。
「明日からそれで運ぶのよ」
私の声にイーサンは車輪を見下ろした。
「直すところ、まだあるな」
井戸の底で水音がした。
濁りの消えた水が石の隙間から滲み、時間をかけて少しずつ溜まり始めていた。
店主は縄を巻き取りながらイーサンとウロを見た。
「明日から来な。水を運ぶだけでいい。賃金は出す」
イーサンは返事も忘れ店主を見上げ、ウロが何度も頷いた。
「本当か」
「嘘をついてどうする」
店主は照れ隠しのように鼻を鳴らした。
リンシャンはそれを見届けると白く乾いた手を私へ向けた。
「来て」
案内された先は華神街の外れにある小さな家だった。
「大したものはないけど、お昼くらい食べていきなさい」
礼のつもりなのだろう。
リンシャンはそのまま台所へ入り包丁の音が静かな部屋へ響き始めた。
私は卓を囲み、イーサン、ウロ、マリと向かい合って座った。
「ねえねえ」
マリが身を乗り出した。
「ジェジェの友達。ジェジェはどこへ行ったの?」
「私はヘルザ」
私は華神語で答えた。
「あの子は少し用事で出かけているの」
「ふうん」
マリはすぐに笑った。
「じゃあ、ヘルザ。何か手品見せてよ」
「手品じゃなくて、魔法よ」
魔法!三人の目が輝いた。
私は苦笑して、子どもが喜びそうな術式を選んだ。
「マリ、両手を出して」
彼女は言われた通り小さな両手を重ねた。掌の上へ小さな光の球を浮かべる。
「最近、一番楽しかったことを思い出して」
光がゆっくりと揺れた。
やがて、球の中へ景色が浮かぶ。
路地だった。
イーサンとウロが、羽根の付いた錘を笑いながら蹴り合っている。二人の間へアイリーンが夢中で飛び込み、大人げなく競い始めた。腕をまくり、何度失敗しても笑い、子どもたちも負けじと追い掛ける。
「すごい!」
マリが声をあげ、球の中の絵が少し歪んだ。
「ジェジェと遊んだ時だ!」
「毽子だ!」
イーサンとウロも目を丸くした。
私は球の奥へ目を向けた。少し離れた場所で、黒髪の女が静かに三人を見守っている。
「ねえ、この時って——」
「できたわよ。運ぶの手伝って」
私の問いは、台所から響いたリンシャンの声に断ち切られた。
マリが振り返る。
その途端、光は音もなく消えた。
「鍋包肉!」
子どもたちが一斉に声を上げた。
甘酢の香りとともに大皿が卓の中央へ置かれる。狐色に揚がった豚肉へ艶のある餡が絡み、湯気を立てていた。
「先生の得意料理なんだ」
マリは小皿へ取り分け私の前へ置いた。私は箸を取り一口運びしばらく黙って噛み締めた。
「帝国の方の口には合わないかしら」
リンシャンが少しだけ不安そうに尋ねた。
「美味しい」
私はそう答え、もう一切れ箸でつまんだ。
食事を終え、家を出た。
見送りに出たリンシャンは戸口で立ち止まり、小さく言った。
「イーサンとウロのこと、ありがとう」
私は振り返った。彼女は少しだけ目を伏せていた。あの二人が何を運んでいたのか、気付いていなかったはずはない。
「昼食、ごちそうさまでした」
そう言って歩き出す。
リンシャンは何かを言いかけ、唇をわずかに開いた。だが、結局何も言わず小さく頭を下げただけだった。
『屋根』へ戻り、扉を開けると人の気配がした。
いや。お茶の香りだった。
「ヘルザ殿。お戻りになりましたか」
アイリーンはいつものように、湯呑みへ茶を注いでいた。湯気が静かに立ち上る。
私は椅子へ腰を下ろし、井戸でのことを順に話した。イーサンとウロが淵殻の運びをしていたこと。リンシャンと井戸を直したこと。店主が二人を雇うと決めたこと。
アイリーンは黙って聞いていた。話し終えると、「ありがとうございます」と小さく微笑み、まるで自分のことのように目を潤ませた。
私は湯呑みへ手を伸ばした。湯気の向こうでは、彼女がいつもと変わらない笑みを浮かべていた。
胸の奥でばらばらだったものが静かに重なった。
私は湯呑みを置いた。
「……あなた、一体誰なの」




