第二十一話
「貴方は、一体誰」
問いは、思っていたより静かに部屋へ落ちた。
アイリーンと名乗る女は足を止めた。振り向いた顔は、私の知るアイリーンのままだった。困った時に眉尻を下げる癖も、何かを誤魔化す時に口元を緩める仕草も、何一つ変わらない。変わらないことが、今は一番の答えのように思えた。
「リンシャンが、井戸のお礼に昼を作ってくれた。鍋包肉だった……初めて会った日、貴方はその料理の話を嬉しそうにした」
彼女は何も言わない。私は静かに首を振った。
「別に、それだけで確信したわけじゃない」
マリに見せた光の球を、掌へ浮かべる。
「マリの思い出を見たの。イーサンとウロ、それから貴方が羽根のついた玉で遊んでいた」
球の中で笑う子どもたちの残像を私はもう一度なぞった。
「その少し後ろに、黒髪の女性が立っていた」
視線を卓の隅へ移す。丁寧に畳まれたリンシャンの布が夕方の光の端で白く沈んでいた。
「あれは……リンシャンじゃなかった」
ゆっくりと顔を上げる。
「あの人は、誰」
彼女は答えなかった。ただ湯呑みを持ち上げ、一口だけ茶をすすった。飲むためではない。手に何かをさせるためだ。そのことに……私はもう気づいてしまっている。
「結界術師は、人の魔力を覚えるの」
光の球を消した。部屋が一段暗くなる。
「同じ術式でも魔力の癖は人によって違う。だから結界は、通す相手も拒む相手も選べる」
一歩だけ、距離を詰めた。
「初めて淵殻の魔力に触れた時——一瞬だけ、貴方だと思った」
湯呑みが、音もなく卓へ戻された。
「その時は、偶然の空似だと思った。疲れているのだとも。でも、談話室でバインは貴方だけを見た。最期も貴方の腕だけを掴んだ」
骨ばった指の力を彼女はまだ袖の下に覚えているはずだった。私は目を逸らさなかった。
「今なら分かる。バインも、気づいていたのね」
——彼女は、限りなくシロです。
東征軍本部へ送るつもりで、頭の中で何度も清書した報告の一文だった。
それでも私は続けるしかなかった。
「もう一度だけ聞くわ。貴方は、誰なの」
静寂が流れた。彼女は息を吐き、ようやく口を開いた。
「ああ……やっぱり、分かってしまいましたか」
いつものように大袈裟に両手を広げかけた。その手が宙で止まる。彼女は行き場を失った自分の両手をしばらく眺め、一人で小さく吹き出してから、ゆっくりと下ろした。
「こういうことをするから、分かりやすいんですよね。私は嘘をつく時、手を黙らせておけないらしいです」
笑おうとしたのが分かった。唇の端は上がらなかった。
「……私には名前がありません」
アイリーンではない女は、そう言った。名乗りではなかった。名乗れるものが何もないという、告白だった。
「母は華神の女だったそうです。父は帝国人で、軍服を着ていたとも聞きました。でも、それを教えてくれた人は両親を知っていたわけではありません。私の髪と目の色を見て、きっとそうだろうと言っただけです」
自分の栗色の髪へ指先を伸ばし、それも途中でやめた。
「生まれた場所も知りません。気づいた時には、レスイの町を転々としていました。荷車の下で眠ったことも、教会の施しを受けたこともあります。どの国の人間かと訊かれるたび、相手が一番怒らなさそうな国の名を答えていました」
窓から入る夕方の光が、彼女の頬を半分だけ照らしている。照らされていない半分の方が、素顔に近いような気がした。
「二年前……九頭がちょうど帝国の土地に渡ろうとした頃です。私は市場で魔法を使いました。傷みかけた果物を酒に変えて、売ろうとしたんです……お腹が空いていましたから」
そこで、かすかに息を吐いた。
「……それを帝国の軍人に見られました」
声は平らだった。平らであることにどれだけの力が要るのか。私はもう知らないふりができなかった。
「帝国、東征軍は、魔力を持たない兵士にも魔法を使わせようとしていました。術式を覚えさせるのではありません。魔力そのものを薬や注射で人の中へ入れようとしていた」
私は口を挟まなかった。挟めば、帝国の武官として何かを弁明したくなる。その資格が自分にあるのか、分からなかった。
「九頭には消えても誰も捜さない人間が大勢いました。孤児。亡命者。戸籍のない華神人。国を追われたレスイ人。それから——私のように、人前で魔法を使った愚かな者」
彼女は自分の右手を見た。
「捕まった時、私は自分の魔法を物を腐らせるだけの、役に立たないものだと思っていました」
指を一本ずつ折りながら続けた。数えているのは、指ではないのだろう。
「でも……あの人たちは違うものを見つけたんです。他人から抜いた魔力は、身体の外へ出せばすぐに形を失う。薬へ混ぜても、術式へ移しても、長くは保たない。けれど、私の魔力を通すと——変化が止まらなかった」
「変化が止まらない?」
「腐りながら、生き続けるんです」
彼女は初めて、逸らさずに私の目を見た。
「発酵と同じです。死んだはずの魔力が、別のものを食べて、膨らんで、また形を変える。私の魔力には、そういう癖がありました」
東征軍はその癖だけを取り出したのだと、彼女は続けた。術者から集めた魔力を薬液へ溶かし、彼女の術式に通して変質させる。人間へ入れれば、一時的に魔力を持ったかのような感覚を与える。
だが、それは魔法ではなかった。
「最初は、兵士を魔術師にする薬でした」
「何度作っても、失敗しました。術式を使えるようになった者は一人もいなかった。ただ、飲んだ者は身体が軽くなったと言いました。熱も痛みも感じなくなった。自分が何にでもなれるような気がしたそうです」
その後で、長く眠れなくなるのだという。手が震え、物音に怯え、もう一度だけ、と同じものを欲しがる。量を増やしても、最初に感じたあの力は二度と戻らない。それでも、身体だけが求め続ける。
黒水街の路地が瞼の裏を過ぎった。壁にもたれたまま動かない者。首筋を掻き続ける、皮ばかりの腕。あの光景の始まりの話を、私は今、聞いている。
「軍にとっては失敗作でした。でも……商品としては違った」
淵殻。
華神街で売られている毒の名を、彼女は自分の名より慎重に口にした。
「東征軍は、製法を白系へ渡しました。リードルたちに作らせ華神人へ売らせたんです。軍が直接手を汚したことにはならない。白系は金を得る。その金で新生レスイと戦う。東征軍は表に出ないまま、九頭に混乱と資金の両方を作れる」
「……リードルが淵殻を作ったのではないのね」
「調合を完成させたのはリードルです。でも、種を作ったのは東征軍です」
彼女は右手を、胸元へ押し当てた。
「その種は、私です」
吐き出された言葉は、声よりも息に近かった。
私は何も言えなかった。貴方のせいではない——喉まで上がったその言葉を、呑み込んだ。どんな言葉を選んでも慰めになってしまう。慰めはひとりで抱えてきた人間に対してあまりに軽すぎた。
「淵殻を使った人から毒を吸い出せるのも、そのためです。あれは私の魔力と同じ形をしている。触れれば分かります。遠くにいても、時々、分かるんです」
彼女の指が服の胸元を掴んだ。
「淵殻の方が、私を見つけるんです」
華神街で毒を吸い出す女。
リードルの語った噂は、特異な治癒魔法などではなかった。彼女は自分の魔力から生まれた毒を自分の中へ戻していただけだった。あの路地で一人ずつ膝をつくたび、頬から血の気が引いていった、その理由も。
「助けてくれたのが、貴方の言う黒髪の女性、アイリーンでした」
しばらくして、彼女はそう続けた。
「アイリーン・サイベル。ノームスクールを出た、東征軍の工作員です」
本物のアイリーンは、淵殻の製造と流通を監督するために九頭へ送られていた。表向きの任務は白系への支援と、新生レスイの情報収集。実際には、淵殻が華神街へどれほど広がるかを記録する役目も負っていたのだという。
「私を実験棟から出したのも、最初は任務のためだったと思います。研究成果を知る、生きた証拠として。利用するつもりだったのかもしれません」
けれど本物のアイリーンは、彼女を軍へ戻さなかった。
華神街へ運び、リンシャンへ預けた。食べ物と服を与え、自分がいない時にも困らないよう、幾つかの言葉と連絡先を紙に書き残した。
「ボルシチの作り方も、あの人に教わりました」
彼女は卓の上へ目を落とした。
「だから、あれも嘘ではありません」
どこまでが嘘で、どこからが本当か。その線を引こうとして私は途中でやめた。線の引き方を彼女自身が誰よりも知りたがっているのだと、もう分かっていたからだ。
本物のアイリーンは東征軍のやり方に疑問を持ちはじめていた。淵殻が白系の資金になることも、華神街へ意図的に流されていることも。やがて軍が、その蔓延そのものを九頭制圧の口実に使うつもりでいることも。
彼女は証拠を投影石へ記録し、帝国本国へ報告しようとした。
「でも、報告は届きませんでした」
東征軍は先に本国へ別の報告を送った。
アイリーン・サイベルには二重間者の疑いがある。新生レスイ、あるいは白系へ情報を流している可能性がある。現地部隊だけでは調査できないため、本国直属の特務の派遣を求む——。
「それが、貴方です」
私は何も言わなかった。言えなかった、というのが正しい。発つ前に受け取った命令書の文面が、一枚ずつ裏返っていく。私はアイリーン・サイベルを調べるために九頭へ来た。つまり私は、あの人を消すために東征軍が呼び寄せた刃だった。
「貴方は本国の人間です。でも、九頭へ入れば東征軍の指揮下に置かれる。あの人を調べるつもりで来ても、渡される情報も、会わせてもらえる人間も、すべて東征軍が選べる」
「……本物のアイリーンは、それを知っていたのね」
彼女は頷いた。
「あの人は、もう自分が消されると分かっていました」
本物は、自分の杖と投影石を彼女へ託した。
ノームスクールの教官の名。校舎の石段の数。食堂の時計が、いつも五分遅れていたこと。訓練で使う暗号。卒業生しか知らないはずの、幾つかの失敗談。
アイリーン・サイベルとして生きるために必要なものを、思いつく限り、注ぎ込むように教えた。
「ノームの人間には、本当の経歴なんてありません。入る前の名前も、卒業した後の任務もほとんどが虚です。だから知識さえあれば本物かどうかを証明するのは、誰にも難しい」
その知識を渡し終えた後、本物のアイリーンは消えた。
「おそらく.......死にました」
彼女は、それ以上を語らなかった。
私も訊かなかった。
「私は杖が使えませんでした。だから、ノーム出ではないとすぐに分かってしまう。それに投影石は東征軍の手に渡る訳にはいかない」
だから、二つとも隠した。そしてヘルザには——私には爆発に巻き込まれて失ったと伝えた。
「あの時、私は杖が吹き飛ぶところを、手で表そうとしましたよね」
彼女は両手を上げかけた。今度は広げなかった。胸の前で固く握った。
「あれは、嘘だったからです。何かしていないと、顔だけでは、隠しきれなかった」
「任務は」
「ほとんど、本当です」
彼女は答えた。
「リードル。白系への資金。淵殻の流通。東征軍の命令。私が話したことは、ほとんど本当です」
わずかに、俯いた。
「違っていたのは、その話を誰がしているか。それだけでした」
本物の死後、彼女はアイリーン・サイベルの名で、私へ接触した。
東征軍が本国から呼び寄せた特務なら、東征軍の外へ証拠を持ち出せるかもしれない。淵殻の流れを断ち、研究を公にできるかもしれない。初めは、ただ利用するつもりだったのだという。
「貴方なら、あの人の代わりに全部を暴いてくれると思いました。私は知っていることを話して、貴方をリードルまで連れていく。それで、終わるはずでした」
彼女の声がそこで初めて揺れた。
「でも、貴方は、私を私として扱った」
窓の外を、荷車の音が通り過ぎていく。
「同じ部屋で眠って、食事をして。私が術式を失敗すれば呆れて、上手くできても、何も言わない。子どもたちのところへ行くのも、止めなかった」
固く握られていた両手が、ゆっくりと開かれた。
「そのうち、どこまでが、あの人から教わったアイリーンで、どこからが私なのか。自分でも、分からなくなりました」
彼女は私を見た。
そこにあったのは、見慣れたアイリーンの顔だった。眉尻を下げる癖も、口元を緩める仕草も、もうどこにもない。それなのに、初めて会う顔だとは、どうしても思えなかった。
「私は、アイリーンではありません」
彼女は言った。
「ノームスクールを出ていません。帝国に忠誠を誓ったこともない。生まれた国も、自分の名前も、知りません」
それでも、と続けた。
「淵殻を作った魔力は、私のものです」
華神街で倒れる者。窓のない部屋で震える者。毒を買うために、家から物を持ち出す者。そのすべてに、自分の魔力が残っている。
「私が望んで作ったものではありません。だから私は悪くないと、何度も、思おうとしました」
声はもう震えていなかった。
「でも、淵殻を吸った人に触れるたび、分かるんです。あれは、私から始まったものだと」
アイリーンではない女は、両腕を身体の脇へ下ろした。嘘を飾る仕草は、もう一つも残っていなかった。
「本物のアイリーンが始めたことを、継ぐためではありません。帝国を救うためでも、華神人に赦してもらうためでもない」
彼女はまっすぐに私を見た。
「淵殻を、私のところで終わらせるために貴方の前へ来ました」
そして、ほんのわずかに頭を下げた。
「これが、私の話せる、本当のことです。ヘルザ殿」
夕方の光はいつの間にか卓の端まで退いていた。名前のない女が名前のない場所に立っている。私はまだ彼女を呼ぶための言葉を一つも持っていなかった。
卓の上の湯呑みから、湯気が細く立ちのぼっている。
喉が渇いていたことを思い出し、手を伸ばした。残っていた茶を一口飲む。温度は残っているのに、不思議と味がしなかった。
考えが、まとまらない。本物のアイリーン。東征軍。淵殻。そして、目の前の女。どこから考えればいいのか、それさえ分からなかった。湯呑みを置こうとして、指先がわずかに震えた。
部屋が静かに揺れた。いや、揺れたのは私だった。
「……ヘルザ殿」
彼女は、穏やかな声で言った。
「貴方が、いいお方でよかったです」
その笑みは、もうアイリーンを演じるためのものではなかった。
「私の最後の勝手な行動を、お許しください」
最後。その言葉だけが、妙にはっきり聞こえた。
「待って……アイリーン」
立ち上がろうとした。椅子が音を立てた気がしたが、身体は思うように動かない。視界の端から夕暮れの色がゆっくりと滲み、輪郭が溶けていく。
彼女は黙って一礼した。そして扉へ向かい、振り返ることなく部屋を出ていく。閉まりきらない扉の隙間から、最後に栗色の髪だけが見えた。
その背中を追おうとして――私の意識は、静かに途切れた。




