第二十二話
目を覚ますと、格子の隙間から朝の光が差し込んでいた。
呼んでも返事はないことは分かっている。それでも寝台を見、炊事場を覗き、窓際まで歩いた。部屋に残っていた昨夜の湯呑、冷え切った茶の表面には私の顔がぼんやり揺れている。
窓辺の釘からは掛かっていたはずのマリの香袋が消えていた。
あれは、持っていったのか。
湯呑を手に取ると失われた温もりの代わりに昨夜の言葉が戻ってきた。
――私の最後の勝手な行動をお許しください。
東征軍の実験施設。
淵殻。
昨夜、彼女が最後と言った意味。
一つずつ並べていけば、向かった先は一つしか思い浮かばなかった。
本部へ報告し、九頭の駐留部隊を動かす。それが帝国の武官として正しい手順なのだろう。だが、その頃には何もかも終わっている気がした。
私は湯呑を卓へ戻し、乱れた髪を両手で撫でつける。
彼女は私を欺いた。
けれど、本当に欺いたのは私だ。
東征軍が華神街で何を作り、何を流していたのか、本気で知ろうとすれば気付けたことはいくらでもあったはずなのに、私は任務という言葉に身を隠し、それ以上見ようとはしなかった。
リンシャンにも。子どもたちにも。あの子にも。
外套を羽織り、私は部屋を出た。
♢
リンシャンは子どもたちへ書き取りを教えていた。卓を囲む三つの背中を順に回りながら、イーサンの癖字を赤鉛筆で直し、ウロには書き順を指でなぞって見せ、マリの紙には小さく頷いて返している。井戸の底で石を積んでいた時と少しも変わらない横顔だった。
私に気付いても、顔は上げなかった。
「話があるわ」
「後にして」
華神語で言い切ると、リンシャンはイーサンの紙へ赤鉛筆を走らせもう一度書き直すよう促した。
「アイリーンがいなくなった」
私の声に鉛筆の音が止まる。
リンシャンは紙を見つめたまま小さく息を吐き、それから三人へ早口で何かを告げた。
イーサンは口を尖らせ、ウロは黙って鉛筆を置き、マリだけが戸口で立ち止まって私の後ろを覗き込むように首を伸ばした。
「ジェジェは?」
答えられなかった。
リンシャンはマリの肩にそっと手を置き、外へ促す。
扉が閉まる音を聞き終えてから、ようやく私へ向き直った。
「どこへ行ったか知っている?」
「知っていても、貴方には教えない」
「このままでは東征軍に殺される」
「帝国の人でしょう」
その一言だけで十分だった。思わず胸元へ手をやったが、外套から徽章は外してある。それでも布の裏側には、まだそこへ縫い付けられたままの重さが残っていた。
「お願い」
口にしたあとで、自分の声とは思えなかった。
「彼女が誰だったのかなんて、もうどうでもいい。ただ、助けたい」
リンシャンは答えなかった。私もそれ以上言葉を探さなかった。
開け放たれた窓から子どもたちの笑い声が流れ込み、その音ばかりが私たちの間を行き来していた。
「助けて、それからどうするの」
沈黙を破ったのは、リンシャンだった。
「帝国へ連れて帰る?」
「違う」
考えるより先に、言葉が出た。
「なら、どこへ」
私は答えられなかった。あの子を助けた先のことまで、考えていなかった。
リンシャンは俯き、小さく息を吐いた。
「……あの人も、同じだった」
聞き返さなかった。
「あの人も、助けることしか考えてなかった」
その声は、誰かを責めているようには聞こえなかった。
「だから、一人で抱え込んで」
そこで言葉が切れた。私は俯いた彼女の横顔を見ながら、初めて知った。
リンシャンもまた、本物のアイリーンを救えなかった側の人間なのだと。
長い沈黙のあと、彼女は静かに顔を上げた。
「東征軍は放っておかない」
リンシャンは私を見たまま続けた。
「白系も放っておかない。あの子は、生きているだけで追われ続ける」
そこで初めて言葉を切る。
「それでも、助ける?」
私は息を吸った。
帝国を欺くことは重罪だった。武官である私には、その重さを疑う余地すらない。それでも今はーー
「助ける」
リンシャンは何も言わず、私は続けた。
「助けたあとを、まだ答えられない」
一度、唇を噛む。
「でも」
視線を逸らさなかった。
「今ここで見捨てれば、私は一生、その先を考える資格も失う」
リンシャンは私を見つめたまま、ゆっくりと目を閉じた。
「……そう」
その一言だけが、小さく部屋に落ちた。再び開かれた目に、もう迷いはなかった。
「ついてきて」
外套も取らず、リンシャンは部屋を出た。私は黙って後を追う。
華神街を二つ折れ、乾物屋の裏へ回る。積み上げられた麻袋の陰に古い木戸があり、リンシャンは慣れた手つきで錠を外した。
湿った空気が、階段の下から流れてくる。地下室だった。
煉瓦の壁は黒く湿り、棚には布で包まれた細長いものや、小さな木箱が整然と並べられている。リンシャンは卓上のランプに火を灯すと、一番奥の棚から細長い布包みを静かに抱えて戻ってきた。
「本物のアイリーンが私たちに預けたもの」
指先が布をほどく。
現れたのは、三フィートにも満たない短い杖だった。杖先の魔石もなく、灰色の木を削り出し、握りに黒い革を巻いただけの、衣服に隠して歩ける質素な一本。
「でも、あの子は使えなかった」
リンシャンは杖から目を離さなかった。
「魔術師じゃなくて、魔法を使える……ただの女の子だったから」
少しだけ笑う。思い出したからではない。思い出さないようにする笑みだった。
「あの人は、自分がいなくなっても、この杖はいつか誰かが使うって言ってた」
指先が、革の巻かれた握りをそっと撫でる。
「でも」
短く息を吐いた。
「あの子は、生きることで精一杯だった」
地下室が静まり返る。
リンシャンはようやく杖を私に差し出した。
「だから」
そこで一度言葉を切る。
「あの子を今度は貴方が助けて」
私は杖を見つめた。
灰色の木肌には細かな傷が幾筋も残り、黒い革だけが何度も握られた艶を帯びている。
本物のアイリーンが握り、誰にも使われることなく、リンシャンが守り続けてきた一本だった。
私は両手で杖を受け取った。杖を握った瞬間だった。地下室を満たしていた静けさが、音もなくほどけていく。
卓上のランプが淡い魔力をまとって見えた。煉瓦の奥では、地下水が細い脈となって壁の向こうを走っている。一つの暗がりでしかなかった空間が、交わることのない幾つもの流れとなって、私の前に開けていく。
リンシャンが小さく息を吸う。その呼吸さえ、微かな揺らぎとなって伝わってきた。
私は静かに目を閉じる。
探すべき魔力は、一つしかなかった。




