第二十三話
街を抜けてから、道は次第に細くなった。舗装は麓で途切れ、車輪が凍った轍を拾うたび、車体が大きく揺れた。両側から迫る針葉樹の枝には雪が残り、昼だというのに林の奥は薄暗い。
「まだ先よ」
「このまま山を一つ越えるわ」
リンシャンは前を向いたまま答えた。両手でハンドルを押さえ、岩の突き出た道を避けて車を進めている。
膝の上の杖が、掌の中でかすかに熱を持っていた。窓硝子の冷たさの向こうに、細い脈がある。初めは毛先へ触れるほどだった感覚が、山へ入るにつれ少しずつ強くなる。魔力は途切れることなく、地の底を流れる水脈のように同じ方角へ続いていた。
アイリーンのものだった。
今思えば、夜会の支度をした時もそうだった。彼女は肌の見える夜会服を選ばなかった。着替えを手伝うと言っても、笑って断られた。マリの記憶に映っていた、袖をまくった細い腕。あれは傷ではなく、魔毒の痕だった。淵殻を人から吸い続けた者だけに残る痕。自分から生まれた毒を自らへ戻し続けた痕だった。
あの時どうして気づけなかったのか。――私は彼女の笑う方だけを見ていたのだ。
脈が急に太くなった。
「止めて」
リンシャンがブレーキを踏み、車はぬかるみに半ば沈みながら止まった。窓の外には針葉樹が続くだけだったが、その向こうへ灰色の煙が幾筋も真っ直ぐ立ち上っている。
車を降りる。雪を踏む音のあとから、地面を一定の間隔で震わせる低い機械音が響いてきた。
木立を抜けると山肌は大きく切り開かれ、谷を塞ぐように煉瓦塀が延びていた。塀の上には鉄条網が幾重にも張られ、監視塔では銃を持った兵が山を見張っている。
塀の内側には同じ形の建物が規則正しく並び、中央の三階建てだけが一回り大きかった。玄関に黒い文字が掲げられている。
『東征軍第七魔導衛生部』
魔導によって病を防ぎ、兵を守る。名だけなら、そういう施設だった。
だが中央の棟の奥では三本の煙突が絶えず黒煙を吐き、その手前には窓一つない建物が口を閉ざしている。
いた。
そう思った途端、背中の古傷に痛みが走った。彼女の魔力は弱っていない。むしろ強すぎた。人ひとりの内側へ収まる量ではない。それが何度も膨らみ、崩れ、また別の魔力を喰らって形を変えている。
淵殻と同じ脈だった。
「ここで待っていて」
リンシャンが私を見た。
「一人で入るつもり?」
「車を動かせる人まで中へ入る必要はない」
「戻らなかったら」
「戻るわ。あの子を連れて、必ず」
リンシャンは何かを言いかけた。だが、門の上を巡る探照灯がこちらへ近づくと、唇を結んで木立の陰へ身を寄せた。
私は木立を出てまっすぐ正門へ向かった。
「止まれ」
銃口が一斉にこちらを向き、誰何の声が飛ぶ。
「所属と目的を述べろ」
私は歩みを緩めないまま答えた。
「帝国参謀本部直属、魔術武官ヘルザ・ラルフエルト。部隊長に取り次ぎなさい」
門兵たちは互いに目を見交わし、一人が受話器を取った。応答に耳を傾けるうち、その背中がだんだんと強張っていくのが離れていても分かった。
「――入構は認められない。直ちに立ち去れ」
「命令書は」
「その必要はない」
乾いた金属音が連なって雪の静けさに散った。安全装置の外れる音だった。
「最後通告だ。止まれ!」
私は答える代わりにローブの留め具を外し、杖を抜いた。
世界が、ほどけた。
雪も塀も兵たちも、見えているものは何一つ変わらない。それでも、その内側にある流れだけが鮮明に浮かび上がった。銃を構える十幾つの身体。速まる鼓動と浅い呼吸。引き金へ掛かった指先の迷い。塀を巡る警戒術式と、監視塔へ魔力を送る細い導線。それらすべてが、術式の言葉で記された一枚の譜面となって、私の前に開かれていた。
「撃て!」
銃声が山へ谺した。
火薬が爆ぜ、弾丸が銃身を離れる。だが杖を通した魔力の流れの中では、その一つ一つが緩やかに順を追って見えていた。
弾道が白い線となって空中へ浮かぶ。私はその線を読み、指先ほどの魔力を差し入れた。ある弾は目の前で静かに止まり、ある弾は軌道を折られて雪へ沈んだ。残りは兵たちの間を縫い、誰ひとり掠めることなく煉瓦塀へ火花を散らした。
私は一歩も動いていない。
急ぐ必要がどこにもなかった。結界はもう壁ではない。この世界の書かれ方そのものが、私の手の中にあった。
兵たちは誰一人、次の引き金を引けなかった。銃を構えた姿勢のまま立ち尽くし、自分の銃口と、無傷の私とを何度も見比べている。
「……化け物」
誰かの呟きが白い息になって消えた。
私はその声に答えず杖先へ目を落とした。灰色の木肌は何も語らない。ただ、掌へ吸い付くような感触だけが残っている。魔力は寸分も乱れず杖の芯を静かに巡っていた。
「悪くない」
思ったままを小さく口にした。
兵たちはなおも道を塞いでいた。だが私が歩き出すと、雪を踏む音から逃げるように隊列は左右へ割れていった。
誰一人、止める者はいなかった。
中央棟の前に立ち重い鉄扉を押し開けると、薬品の苦い臭いと焼けた金属の匂いが肺へ流れ込んだ。
廊下の左右には厚い硝子槽が並び、青黒い液体の底へ濁った結晶が沈んでいる。槽から伸びた黒い魔導線は壁を這い、床へ潜り、そのまま施設の奥を目指していた。
杖を通して流れを探る。
淵殻の原液。術式の失敗で形を崩した魔力。被験者から抜き取られた魔力。性質は違っても、行き先だけが同じだった。
扉の開いたままの研究室の前で、足が止まった。
机の上にも、床にも、書き散らされた紙が積もっている。その一枚を拾い上げた。
被験者番号。投与量。魔力定着率。精神状態。経過。
几帳面な文字で埋められた欄のいちばん下に、赤い判が押されていた。
処分。
顔を上げる。同じ紙束が棚を埋め尽くしていた。百では利かない。名のある者も、番号だけの者も、この紙の上では同じ一行だった。
本物のアイリーンは、これを見ていたのだ。
毎日この廊下を歩き、この欄を書き足し、判の数を数えながら――それでも帝国へ知らせることを諦めなかった。
私は紙を机へ戻し、歩き出した。
廊下の先から怒鳴り声が響く。
「反応値が下がっています!」
「流量を上げろ!」
「これ以上は危険です!」
白衣の研究員たちが振り向き、拳銃を抜いた。
「誰だ!」
「侵入者だ!」
私は歩みを止めず、杖先をわずかに傾けた。
結界が空気の中で幾筋にも分かれ、それぞれの手首へ絡みつく。引き金へ掛かった指だけが凍りつき、拳銃が次々と床を打った。銃声は一発も生まれなかった。
この人たちを傷つける必要はない。あの判を押した手だとしても、まだ、その必要はない。
奥から届く魔力は一歩ごとに濃くなっている。私は棒立ちの研究員たちの間を抜け、地下への階段を駆け下りた。
降りるほどに空気は重くなり、息を吸うたび、他人の魔力までが喉の奥へ絡みついてくる。胸を内側から圧され、杖を握る指先に鈍い痺れが走った。
最後の鉄扉を押し開けた。
吹き抜けのように高い円形の反応室だった。中央には巨大な反応槽が据えられ、壁や天井から伸びた無数の魔導管が蜘蛛の巣のようにそこへ集まっている。
その中心にアイリーンがいた。
両手首と足首を革帯で固定台へ拘束され、胸元や背中から伸びた管が反応槽へ繋がっている。汗で濡れた栗色の髪が頬に貼りつき、露わになった首筋には青黒い痕が浮かんでいた。魔毒の痕。それは襟の下へ潜り、革帯から覗く両の手首にも枝を伸ばして、指先の近くまで届いている。
「アイリーン!」
返事はなかった。
研究員たちは彼女を見ていなかった。誰もが計器へ群がり、怒鳴り合っている。
「回収率が維持できません!」
「魔力が消えていく!」
「供給を止めろ!」
錯綜する声の中で私は杖を握り直した。
何かがおかしい。
管は確かに彼女へ刺さっている。誰が見ても、施設がアイリーンから魔力を抜き取っている図だった。
だが、杖に映る流れは逆だった。
反応槽の淵殻も、保管槽の原液も、被験者から奪われた魔力までもが、施設中を巡る黒い魔導線を伝い、ただ一つの方向へ――アイリーンへ流れ込んでいる。
奪われているのではない。
取り戻している。
華神街で中毒者から淵殻を吸い出した、あの時と同じだ。この施設に蓄えられた毒を彼女は一つ残らず自分の身体へ引き戻している。
山ごと揺らすようなあの魔力は施設が放っていたものではなかった。すべてが一人へ集まり続ける、その異常な流れの中心で――
アイリーンは毒の海を一人で呑み干そうとしていた。
私は駆け出した。
結界で研究員たちを左右へ払いのけ、固定台へ辿り着く。間近で見る顔は紙のように白い。汗に濡れた頬へ手を添えると氷のように冷たかった。
瞼がかすかに震えて開いた。
「……ヘルザ……殿」
掠れた声だった。
「管を抜くわ」
胸元の管へ手を伸ばすと、アイリーンは静かに首を振った。
「駄目……です」
「このままでは、あなたがもたない」
「まだ……終わって……いません」
彼女の視線は私ではなく、背後の反応槽へ向いていた。底の方で、青黒い液体がなお脈打っている。
「保管庫にも、培養室にも……まだ、私の魔力があります。全部…戻さないと」
「全部、自分へ戻すつもりなの」
「それしか……ありません」
管が震えるたび、彼女の身体も小さく震えた。
「淵殻は、私から生まれました。だから……私の中へ戻せば……終わります」
「終わるのは淵殻だけじゃない」
アイリーンは答えなかった。
その沈黙だけで十分だった。
「最初から、そのつもりだったのね」
「……他に方法が……思いつきませんでした」
私は革帯の留め具に触れた。
「あなた一人で背負う必要はない」
「ですが」
「後は私に任せて。東征軍も、淵殻も、帝国本部へ報告する。全部、終わらせる」
アイリーンの瞳が初めて揺れた。
「……信じてもらえますか」
「信じさせる」
私は彼女の目を見たまま言った。
「だから、もう一人で抱えなくていい」
アイリーンは長く目を閉じ、小さく息を吐いた。
「……分かりました」
管の留め具へ指を掛けた。
その時だった。
乾いた音が鳴った。
一つ。また一つ。革手袋越しに打ち鳴らされる、まばらな拍手。広い反応室の壁に反響して、どこから聞こえるのかも掴めない。
「――ラルフエルト」
振り返った。
反応室の入口から男がゆっくりと歩いてくる。中折れ帽。七三に撫でつけた髪。膝丈の質のいい外套。九頭駅の時刻表の下で火のつかない紙巻を弄んでいた、あの男だった。
気づかなかった。杖はこの部屋のすべてを読んでいた。魔導線の一本、研究員の鼓動の一つまで、譜面の上に開かれていたはずだった。その譜面のどこにも、この男は書かれていなかった。
「さすがは、誉れ高き帝国の魔術師だ。ここまで辿り着くとは」
「……最初から、知っていたのね」
「知っていたとも」
男は歩みを止めず、固定台のアイリーンへ目を向けた。
「彼女は必ず戻ってくる。そう確信していた。――彼女自身が、望んでここへ来たのだから」
アイリーンが俯いたまま口を開いた。
「リードルさんに……聞きました。この施設なら、淵殻の種を、終わらせられると」
「嘘は言っていない」
男は肩を竦めた。
「バインは気づいてしまった。淵殻の原型が、君の魔力だと。手を引きたくなったのだろうな。彼は我々へ製造の中止を求めた。当然、決裂した。――知り過ぎた人間を生かしてはおけない」
アイリーンが目を閉じた。
「その後、我々はリードルへ話を持ち掛けた。彼女を引き渡せば、これまでの件は不問とする。資金も出す、とね」
「……リードルさんは」
「組織を守った」
男は淡々と言った。
「見事な商人だよ。売り物の値打ちを、誰よりも分かっている」
計器の針が大きく跳ねた。アイリーンの身体が震え、首筋の魔毒がさらに広がって、青黒い筋が頬の下まで這い上がる。
「もっとも――君も承知の上で来たのだろう? 構わなかった。むしろ、都合がよかった」
男はそれを、実験結果でも眺めるように見ていた。
「あなたたちは」
声が、自分でも驚くほど低く出た。
「最後まで、この子を人として見るつもりはないのね」
男は初めて足を止め小さく笑った。
「実験体に人格は不要だ」
その一言で、十分だった。
私は杖先を男へ向けた。
「なら、東征軍第七魔導衛生部は――この場で閉鎖する」




