第二十四話
男は口の端を吊り上げたまま、こみ上げるものを噛み殺していた。私の言葉はそれだけで嗤うに値したらしい。
私は杖を握り直した。
掌に何も返ってこない。
男の背後の青黒い硝子の内側から、気泡が静かに上っている。
水槽を巡る魔力も、男の鼓動も、何一つ拾えない。さっきまで世界を埋めていた譜面が、白紙になっていた。
指先へ魔力を練ろうとしても芯は応えず、灰色の木肌はただの冷たさしか返さなかった。
男の魔力が読めないのではない。
私が魔術師ではなくなっていた。
機械の振動が低く唸る。男は堪えていたものをようやく喉の奥から漏らした。
「ただの棒切れを持った女だな」
胸元から拳銃が抜かれる。リボルバー式の古い型。磨かれた銀の銃口が静かに私へ据えられた。
「滑稽だ」
口元だけが笑っていた。
「あの女の腐敗は、魔力を喰う。触れた場所から、一時的にな」
男は銃口を固定台のアイリーンへ振った。
「精神も魔術も、がらんどうになる。よく出来た力だろう」
カフェの、あの二人組。彼女が尾行者へ術式を通した時も――私は何も読めていなかった。
アイリーンは固定台の上で、顔を伏せたまま動かなかった。青黒い筋の浮いた指先だけがかすかに震えている。
「ラルフエルト、お前は何も見なかった。このまま立ち去って、参謀本部に二重間者を始末したとだけ報告しろ」
革手袋の指が引き金に触れた。
「そうね。その方が利口なようね」
私は杖を握ったまま両手を肩の高さへ上げた。開いた掌の上で、灰色の木肌が人差し指の付け根に引っ掛かり、ゆらりと傾ぐ。
「杖は置いていけ。後で使われては厄介だ」
男が空いた手で床を指した。
――引き金は、誰が引いても同じように弾が出る。
私は男から目を逸らさぬまま、ゆっくりと右膝を折った。右手の杖を床へ横たえる。急がず、恭しく。降参の形を指の先までなぞってみせた。
屈んだ左手は、床ではなく足首へ落とす。
革帯から短銃を抜いた。
ザルク……悔しいが、今は貴方が正しい。
弾丸は男の背後――水槽の硝子を撃ち抜いた。弾痕を中心に亀裂が円く走り、一拍遅れて内側から砕けた。
青黒い液が男を頭から呑んだ。淵殻の原液。浴びれば、魔術師でなくとも只では済まないはずだった。
だが、何も起こらない。
男は濡れた前髪を左手で乱暴にかき上げた。青黒い滴が頬を伝い顎から床へ落ちていく。男は濡れた顔のまま、ゆっくりと笑みを取り戻していった。
男が一歩踏み出すと、靴底で液体がぬるりと逃げた。
……アイリーン。
「悪くない判断だ。あの女が毒を抜いてなければ、無事では済まなかった」
それでも銃口は指一本分も揺れていない。私は短銃を右手へ持ち替え、男の胸へ合わせた。
左手を何度か握っては開く。――まだ、戻らない。
間合いは十歩。男のリボルバーは、まだ一発も撃っていない。撃ち合えば先に尽きるのはこちらだった。
背後で金属の外れる音がした。
振り向けない。私は音だけで読んだ。留め具。革帯。管が一本ずつ抜けていく湿った音。足音が一歩。崩れる音。床を掴む音。もう一度、足音。
「……ヘルザ殿」
左肩へそっと指が触れた。白い指には、黒いまだらの痕が枝のように浮いていた。男の銃口が初めて私から逸れた。
アイリーンが私の隣に立っていた。胸元には管の抜けた痕が並び血と液に爛れている。栗色の髪は汗で頬へ貼りつき、顔色は死人のように白い。それでも男を見据える背筋だけは伸びていた。
「……私を撃ってお終いにしましょう」
彼女は一歩前に出る。
「……それとも、貴方が死にますか」
その弱くかすれそうな声に、男は半歩退いた。濡れた外套の裾から青黒い滴がまだ落ちている。
「よ、寄るな。下がれ」
アイリーンが大きく手を伸ばすと、男は震える銃口を彼女へ向けた。はったりだ。肩に触れたあの指は氷のように冷え切っていた。男を殺すだけの魔力など、もう残っていない――最初から自分ごと終わらせるつもりで。
私はもう一度、左手を握った。
男の腕を一寸逸らすだけの力でいい。
どうか――。
耳を潰すような轟音が、反応室に爆ぜた。
アイリーンは手を伸ばしたまま立っていた。
男は拳銃を握った手を強張らせ、鋭い視線を私へ向ける。やがて、その鋭さが安堵にも似た笑みに変わった。
「自ら逸らした弾に当たるとはな。芸達者が、芸に溺れたか」
その声が妙に近くに聞こえた。
左脚で床を踏んでいる感覚がなかった。感覚のない膝下だけがひどく熱を持っている。身体を支えきれず私は膝から床へ落ちた。
床に広がる青黒い液へ赤黒い血が流れ込み、二つの色は混じり切らないまま細い筋を幾重にも描いた。
「ヘルザ殿!」
アイリーンが振り向く。
男の銃口がその頭へ移った。
「大丈夫よ」
私は彼女の赤く染まった目を見た。
「――私は、魔術師だから」
右手の銃を捨て、両の掌を男へ開いた。
詠唱はしない。唱える息さえ惜しかった。戻りかけた何かを指先へ掻き集め、一枚の膜へ引き延ばして銃口を覆った。
引き金が引かれる。
弾道が銃身を出る寸前で歪み、金属が跳ねる音とともに黒い革手袋が裂けた。
男は呻き声を噛み殺して右手を左手で押さえ、その指の隙間から赤黒い血が滴り落ちる。
私は床に置いた杖を手探った。意識が霞み、指先が思うように動かない。
なるほど。毒が弱体化したとはいえ、傷口からあの液が入るのは、あまりよくないらしい。男も右手を押さえたまま膝を折り、その場へへたり込んだ。
その時、反応室の扉が勢いよく開いた。銃を抱えた兵が数人、その後ろから白衣の研究員たちが雪崩れ込んでくる。先頭の兵が床へ崩れた男を見るなり足を止めた。
「部隊長!」
男は右手を押さえたまま顔を上げた。
「機密保全甲種毀滅処分を発令する」
一瞬、誰も動かなかった。研究員の一人が顔色を変える。
「……甲種?」
「聞こえなかったか」
男が睨み上げた。
「全棟だ。記録、試料、反応槽、地下設備――残すな」
兵の一人が弾かれたように振り返った。
「甲号が出た! 退避しろ!」
その声を境に反応室が一斉に動き出した。研究員たちは互いを押し退けて扉へ走り、兵たちは怒鳴りながら廊下へ散っていく。
私は床へ手をついたまま男を見た。
「自分まで消すつもり?」
男はゆらゆらと立ち上がり、部屋を閉ざすように扉へもたれかかった。赤く染まった左手で短銃を抜く。
「甲種毀滅は……私も対象だ。どのみち東征軍は、私の失態を許さない」
どれほど経ったのだろう。
アイリーンは私のそばへ膝をつき、懸命に左脚へ手を置いていた。私はもういいと、その手を握った。
「なぜ、貴方はここまでするの」
扉の前に座り込んだ男へ投げた。
男は掠れかけた声で返す。
「帝国はいずれ……避けられぬ戦を迎える。……今の国力で勝てるはずもない」
一度、息を継いだ。
「お前たち中央が気づく頃には手遅れだ。だから……我々が先に決める」
男は薄く目を閉じた。
「……今日ここで死んだ人間など、誰も覚えてはいまい」
口元がわずかに動いた。
「お前もこの先……一番大事なものを失いたくはないだろう」
それきりだった。
短銃を握った左手がゆっくり床へ落ち、男は扉にもたれたまま動かなくなった。
遠くで低い音がした。一度。間を置いてもう一度。床の下から細かな振動が這い上がり、感覚のないはずの左脚にさえ骨を伝って届いた。
毀滅。
この建物そのものが内側から消されようとしている。
「……行きましょう」
アイリーンが私の腕を肩へ回した。立とうとしたが、左脚は床の上に置かれているだけだった。力を込めても応えない。膝から下だけが別の場所へ置き忘れられたようだった。
「結界を……」
私は両の掌を開いた。この部屋ごと守る必要はない。私たち二人を覆う一枚があればいい。
指先へ魔力を集める。薄い膜が宙へ滲み――すぐに歪んだ。左脚の奥で何かが脈打つたび、集めた端から足元へ吸われていく。膜は形を保てず、水に溶ける薄紙のように崩れた。
「ヘルザ殿」
「もう一度」
息を整え、掌を開く。
一枚。それだけでいい。
けれど指先へ届くより早く、左脚が魔力を喰っていく。結界は生まれては消え、消えては生まれ、その繰り返しさえ次第に細っていった。
また、遠くで爆ぜる音がした。今度は近い。天井から細かな埃が落ち、割れ残った反応槽の硝子がかすかに鳴った。
私は床の杖へ手を伸ばした。指先が届かない。アイリーンがそれを拾い、私の右手へ押し込んだ。
杖を握るが何も返ってこない。……いや。ほんのわずかに芯の奥で何かが震えた気がした。
ここで終わるわけにはいかない。この子を連れて帰ると決めたのだから。
歯を食いしばり、指先へ魔力を練る。鉄の味が口に広がる。しかし、わずかに形を持った流れは杖の芯へ届く前に崩れていった。もう膜にすらならない。
その時、杖を握る右手へ別の手が重なった。
「アイリーン?」
まだら色の五本の指が私の手を軽く握る。
「私の魔力を使ってください」
「駄目よ」
考えるより先に答えていた。
「今ここで使えば、貴方がどうなるか分からない」
「でも、このままでは――」
「駄目」
振りほどこうとした手に力が入らない。彼女の指は私の手から離れなかった。
「ヘルザ殿。私は、貴方を失いたくありません」
「私もよ」
アイリーンの目が、わずかに開いた。
「だから使わせない。私は――今の貴方を失いたくない」
名前もなく、誰かの代わりとして生きてきた女ではない。淵殻を生んだ魔力でもない。アイリーン・サイベルの身代わりでもない。今、私の隣で息をしている、この人を。
アイリーンは首をかしげ、小さく笑った。
「……困りましたね」
重ねられた手は離れなかった。
「それでは、半分だけにしましょう」
「話を聞いていた?」
「半分なら、全部ではありません」
「そういう問題では――」
掌が熱い。
「アイリーン!」
「少しだけです」
彼女の魔力が掌から入り、腕を伝う。異質だった。私の魔力とはまるで違う。形を留めず、触れたものへ絡みつき、喰らいながら姿を変えていく。それでも、私を侵そうとはしない。ただ流れている。私の魔力と重なり、右手から杖へ。
灰色の木肌が熱を持ち、芯が応えた。
途切れていた譜面が一つ、二つ戻ってくる。床を走る魔導線。天井を支える鉄骨。壁の向こうを駆ける振動。施設の奥で連なる爆発。そのすべてが、霞んだ視界の中へ浮かび上がった。
「……見える」
杖を両手で握った。アイリーンの手はその上に重なったままだった。
息を吸うと、肺の奥が痛んだ。構わず、残っている息をすべて声へ変える。
【天地の境を分かち】
杖の芯が掌の奥で低く震えた。
【四方の風を鎮めん】
足元から光が走り、床の青黒い液を裂いた。
【東に青龍、西に白虎】
光は二筋に分かれ、瓦礫を越えて左右の壁へ伸びていく。
【南に朱雀、北に玄武】
さらに二筋。四方へ放たれた光が壁を這い、砕けた反応槽を越え、天井で結ばれた。アイリーンの指が私の手を強く握った。
【四神よ、今ここに目覚めよ】
遠くで爆発が起きた。床が大きく揺れ、天井から埃が降る。それでも杖は離さない。私の魔力とアイリーンの魔力。混じり切らない二つの流れが、戻ったばかりの譜面の上で軋みながら、一つの和音へ編み上がっていく。
【見えざる垣を立て】
四方の光が一斉に立ち上がり部屋の輪郭を象った。
息はもう残っていない。
叫んだ。
【垣よ、巡れ――結え!】
光が私たちを囲み、
世界が白く弾けた。




