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暁烏の杖  作者: ozoo39
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第二十五話

 息を吸うと、喉の奥まで埃が入ってきた。舌に残るのは、ざらつきと(カビ)の臭いだけだった。


 寒い。


 指を曲げると爪が何かを掻いた。石とも土ともつかない硬さが指先に残る。腕へ力を込めても、肩の辺りで押さえつけられたまま動かなかった。


「貴方たち、返事をして」


 どこか遠くで女の声がした。何度か途切れながら近づいてくるその声を追っているうち、ようやく名前が浮かんだ。


 ……リンシャン。


 アイ……アイリーンは。


 ……あの子は無事なのだろうか。


 唇だけは動いたが、息が掠れるばかりで声にならない。もう一度息を吸い、名前だけでも押し出そうとした時、頭上で瓦礫の崩れる音がした。隙間から落ちる光が頬の上で細かく割れている。


「聞こえる?」


 返事の代わりに私は口を動かした。


 アイリーン……


 そう言ったつもりだった。


 リンシャンの顔が光の中で揺れ、それを最後にまた何も見えなくなった。



 カチカチと、やけに規則正しい乾いた音が何度も繰り返されていた。それを随分長く聞いたあとで、自分が起きていることに気がついた。


 瞼を開け、僅かに顔を横へ向ける。薄い仕切り布の向こうを軍服姿の男が二人通り過ぎ、白衣の女が台を押してその後に続いた。


 身体を起こそうとすると、腹の奥から背中へ痛みが走った。すぐに諦め、右脚を僅かに動かすと踵がシーツを擦った。


 左も同じようにする。動いたのは膝までだった。


 もう一度力を入れてみたが、その先からは何も返ってこない。痺れているのとも違う。掛布の重さもシーツの冷たさもなく、身体の輪郭だけが膝の下で突然途切れていた。


 浮かんだのはお母さまの笑った顔だった。


 ——ごめんなさい......


 私は掛布の中を見ないまま、小さく謝った。


 しばらく動けずにいると、仕切り布が開いた。


 白衣の女は目を覚ました私を見るなり、少し慌てた様子で「今、先生を呼んできます」と言って出ていった。


 ほどなくして、長い髭を蓄え、金縁の眼鏡をかけた男を連れて戻ってきた。軍服の上に白衣を纏った男は寝台の脇に立ち、髭を撫でながら私の顔をしばらく眺めたあと、手元の紙へ何かを書きつけた。


 白衣の女に身体を起こされ、背中へ枕を差し込まれる。その間に軍医は私の手を取り、指先から手首へゆっくり触れた。


「強い魔力をお持ちだ。魔術師ですかな」


「……ええ」


「名前は?」


「ヘルザ・ラルフエルト。帝国参謀本部直属の魔術武官です」


 軍医の手が止まった。眼鏡を掛け直す。


「山の中で倒れていたそうです。華神(カシン)の女性が、(ふもと)まで運んできたと」


 軍医は紙から目を離さずに言った。身なりから帝国人と判断され、この陸軍病院へ回された——ここに届いているのは、それだけらしかった。


 リンシャンだ。


 あの施設の名は、誰の口からも出なかった。


 軍医は少し言いにくそうに続けた。


「残念ながら、左脚は壊疽(えそ)が進んでいました。命を優先し……膝下から切断しています」


「……そう」


 それだけ答えた。


 聞きたいことは一つしかなかった。


 アイリーンは......あの子は、生きているの。


 けれど、その名を口にすれば答えが返ってくる。


 その答えを、私はまだ聞けなかった。


 軍医が何かを続けていたが、もうほとんど耳に入らなかった。


 寝台の横の棚に見覚えのある茶筒が置かれていることに気づいた。


 .......どうして、ここに。


 腕を無理に伸ばして手に取り、蓋を開けて中を覗く。


「貴方を運んだ方が、置いていったようですよ」


 軍医に声をかけられ、私は反射的に蓋を閉じた。


「それと、もう一人女性が一緒に運ばれてきたのですが、お知り合いですか?」


 思わぬ問いに声が詰まった。


「その……女性は、今は……」


 そう尋ねるのがやっとだった。


「別室でまだ眠っています。かなり衰弱していて、危険な状態ですが」


 生きている。


 胸の奥に張りつめていたものが、僅かに緩んだ。


「彼女の名前は.......アイリーン・サイベル。私の任務を助けてくれた.......九頭(クズ)出身の女性です」


 しばらく黙った後、私はそれだけ伝えた。


 軍医は再び紙へ何かを書きつけると、「お大事に」と言って病室を出ていった。


 アイリーンは生きている。


 それでも、このままにはしておけない。


 私は茶筒へ目を落とし、両手で強く握った。



 それから二週間ほどが経ち、私はようやく病室を出ることができた。

 両脇の杖を床へつき、右脚を前へ運ぶ。初めのうちは一歩進むだけで身体の重さが両腕へ集まり、廊下を曲がる頃には掌が痛んだ。それでも、自分の足で向かいたかった。


 私の魔力は、とうに戻っていた。


 廊下を行き交う人間の魔力も、壁の内側を走る術式も以前と変わらず感じ取れる。それなのに、一番奥の病室へ近づいても、探しているものだけはどこにもなかった。


 扉を開ける。


 アイリーンは白い寝台の上で眠っていた。


 頬にはまだ血の気がなく、栗色の髪だけが誰かの手で綺麗に梳かされている。胸元のシーツは呼吸に合わせ、ゆっくりと上下していた。


 生きている。


 分かっている。


 それでも、何も感じない。


 私はもう一度、彼女の中を探った。だが、魔力は一筋も残らなかった。


 いざ寝台の前に立つと、何をすればいいのか分からなくなっていた。

 両脇の杖は膝をつくことも、彼女のそばへ屈むことも許してくれない。手を伸ばせば届く距離にいるのに、私はただ白い寝台に眠るアイリーンを見下ろしていた。


 シーツに小さな染みがひとつ落ちた。


 それを見ているうちに、もうひとつ隣へ落ちた。


「アイリーン」


 頬を伝うものを止めることができなかった。


「アイリーン」


 もう一度呼んだ。


 あの困った時に下がる眉も、何かを誤魔化す時の口元も動かなかった。


「アイリーン!」


 私は声を上げた。


 彼女の名を、部屋の外まで届くほどの声で何度も呼んだ。


「ヘルザ殿、うるさくて眠れませんよ」


 ――そんな声は、いつまでも返らなかった。


 それでも私は呼ぶのをやめられなかった。


 部屋の外を硝子瓶の触れ合う細い音が通り過ぎ、盆を運ぶ誰かの足音がその後に続いた。その音に気づいた頃には、私はいつの間にか黙っていた。

 アイリーンは静かに眠っていた。頬にはまだ血の気がなく、閉じた瞼も動かない。それでも胸元のシーツだけは、呼吸に合わせてゆっくり上下していた。


 私はその動きをしばらく見ていた。


「アイリーン、行ってくる」


 私には、まだやることが残っている。


 両杖をつき、ゆっくりと戸口まで戻った。


 そこで一度だけ足を止めた。


 振り返らなかった。


「さよなら」


 自分にしか聞こえないほど小さく言い、私は両杖を前へ出した。






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