第二十五話
息を吸うと、喉の奥まで埃が入ってきた。舌に残るのは、ざらつきと黴の臭いだけだった。
寒い。
指を曲げると爪が何かを掻いた。石とも土ともつかない硬さが指先に残る。腕へ力を込めても、肩の辺りで押さえつけられたまま動かなかった。
「貴方たち、返事をして」
どこか遠くで女の声がした。何度か途切れながら近づいてくるその声を追っているうち、ようやく名前が浮かんだ。
……リンシャン。
アイ……アイリーンは。
……あの子は無事なのだろうか。
唇だけは動いたが、息が掠れるばかりで声にならない。もう一度息を吸い、名前だけでも押し出そうとした時、頭上で瓦礫の崩れる音がした。隙間から落ちる光が頬の上で細かく割れている。
「聞こえる?」
返事の代わりに私は口を動かした。
アイリーン……
そう言ったつもりだった。
リンシャンの顔が光の中で揺れ、それを最後にまた何も見えなくなった。
♢
カチカチと、やけに規則正しい乾いた音が何度も繰り返されていた。それを随分長く聞いたあとで、自分が起きていることに気がついた。
瞼を開け、僅かに顔を横へ向ける。薄い仕切り布の向こうを軍服姿の男が二人通り過ぎ、白衣の女が台を押してその後に続いた。
身体を起こそうとすると、腹の奥から背中へ痛みが走った。すぐに諦め、右脚を僅かに動かすと踵がシーツを擦った。
左も同じようにする。動いたのは膝までだった。
もう一度力を入れてみたが、その先からは何も返ってこない。痺れているのとも違う。掛布の重さもシーツの冷たさもなく、身体の輪郭だけが膝の下で突然途切れていた。
浮かんだのはお母さまの笑った顔だった。
——ごめんなさい......
私は掛布の中を見ないまま、小さく謝った。
しばらく動けずにいると、仕切り布が開いた。
白衣の女は目を覚ました私を見るなり、少し慌てた様子で「今、先生を呼んできます」と言って出ていった。
ほどなくして、長い髭を蓄え、金縁の眼鏡をかけた男を連れて戻ってきた。軍服の上に白衣を纏った男は寝台の脇に立ち、髭を撫でながら私の顔をしばらく眺めたあと、手元の紙へ何かを書きつけた。
白衣の女に身体を起こされ、背中へ枕を差し込まれる。その間に軍医は私の手を取り、指先から手首へゆっくり触れた。
「強い魔力をお持ちだ。魔術師ですかな」
「……ええ」
「名前は?」
「ヘルザ・ラルフエルト。帝国参謀本部直属の魔術武官です」
軍医の手が止まった。眼鏡を掛け直す。
「山の中で倒れていたそうです。華神の女性が、麓まで運んできたと」
軍医は紙から目を離さずに言った。身なりから帝国人と判断され、この陸軍病院へ回された——ここに届いているのは、それだけらしかった。
リンシャンだ。
あの施設の名は、誰の口からも出なかった。
軍医は少し言いにくそうに続けた。
「残念ながら、左脚は壊疽が進んでいました。命を優先し……膝下から切断しています」
「……そう」
それだけ答えた。
聞きたいことは一つしかなかった。
アイリーンは......あの子は、生きているの。
けれど、その名を口にすれば答えが返ってくる。
その答えを、私はまだ聞けなかった。
軍医が何かを続けていたが、もうほとんど耳に入らなかった。
寝台の横の棚に見覚えのある茶筒が置かれていることに気づいた。
.......どうして、ここに。
腕を無理に伸ばして手に取り、蓋を開けて中を覗く。
「貴方を運んだ方が、置いていったようですよ」
軍医に声をかけられ、私は反射的に蓋を閉じた。
「それと、もう一人女性が一緒に運ばれてきたのですが、お知り合いですか?」
思わぬ問いに声が詰まった。
「その……女性は、今は……」
そう尋ねるのがやっとだった。
「別室でまだ眠っています。かなり衰弱していて、危険な状態ですが」
生きている。
胸の奥に張りつめていたものが、僅かに緩んだ。
「彼女の名前は.......アイリーン・サイベル。私の任務を助けてくれた.......九頭出身の女性です」
しばらく黙った後、私はそれだけ伝えた。
軍医は再び紙へ何かを書きつけると、「お大事に」と言って病室を出ていった。
アイリーンは生きている。
それでも、このままにはしておけない。
私は茶筒へ目を落とし、両手で強く握った。
♢
それから二週間ほどが経ち、私はようやく病室を出ることができた。
両脇の杖を床へつき、右脚を前へ運ぶ。初めのうちは一歩進むだけで身体の重さが両腕へ集まり、廊下を曲がる頃には掌が痛んだ。それでも、自分の足で向かいたかった。
私の魔力は、とうに戻っていた。
廊下を行き交う人間の魔力も、壁の内側を走る術式も以前と変わらず感じ取れる。それなのに、一番奥の病室へ近づいても、探しているものだけはどこにもなかった。
扉を開ける。
アイリーンは白い寝台の上で眠っていた。
頬にはまだ血の気がなく、栗色の髪だけが誰かの手で綺麗に梳かされている。胸元のシーツは呼吸に合わせ、ゆっくりと上下していた。
生きている。
分かっている。
それでも、何も感じない。
私はもう一度、彼女の中を探った。だが、魔力は一筋も残らなかった。
いざ寝台の前に立つと、何をすればいいのか分からなくなっていた。
両脇の杖は膝をつくことも、彼女のそばへ屈むことも許してくれない。手を伸ばせば届く距離にいるのに、私はただ白い寝台に眠るアイリーンを見下ろしていた。
シーツに小さな染みがひとつ落ちた。
それを見ているうちに、もうひとつ隣へ落ちた。
「アイリーン」
頬を伝うものを止めることができなかった。
「アイリーン」
もう一度呼んだ。
あの困った時に下がる眉も、何かを誤魔化す時の口元も動かなかった。
「アイリーン!」
私は声を上げた。
彼女の名を、部屋の外まで届くほどの声で何度も呼んだ。
「ヘルザ殿、うるさくて眠れませんよ」
――そんな声は、いつまでも返らなかった。
それでも私は呼ぶのをやめられなかった。
部屋の外を硝子瓶の触れ合う細い音が通り過ぎ、盆を運ぶ誰かの足音がその後に続いた。その音に気づいた頃には、私はいつの間にか黙っていた。
アイリーンは静かに眠っていた。頬にはまだ血の気がなく、閉じた瞼も動かない。それでも胸元のシーツだけは、呼吸に合わせてゆっくり上下していた。
私はその動きをしばらく見ていた。
「アイリーン、行ってくる」
私には、まだやることが残っている。
両杖をつき、ゆっくりと戸口まで戻った。
そこで一度だけ足を止めた。
振り返らなかった。
「さよなら」
自分にしか聞こえないほど小さく言い、私は両杖を前へ出した。




