第二十六話
あの時が、アイリーンとの最後だった。
再び会うとすれば、こういう形だろう。
どこかでそう思ってはいた。
逃げたつもりはない。
ただ、あの選択が最良だったと言い聞かせるたび、答え合わせだけは先へ延ばしてきた。
手紙を持つ右手に、目を落とす。
手の甲を走る血管が、昔よりずっと近くに見えた。指を曲げれば節に細かな皺が寄る。あの頃、この手はもう少し白く、何も刻まれていなかった気がする。
九年。
紙に書けば、たった二文字だ。
――あの茶筒の底には投影石が沈んでいた。
本物のアイリーンがリンシャン達に託したもの。抜かれていく魔力の色も、番号で呼ばれた者たちの声も、あの石は残らず憶えている。
これが参謀本部に上がれば、東征軍は切り捨てられる。それだけの重さだった。
あの日、病院を出た私は東征軍本部へ向かった。
♢
窓の外では、細かな雪が降っていた。
東征軍本部の応接室は暖かすぎるほどで、壁際の暖房器具が時折、蒸気を吐いて乾いた金属音を立てる。
机の向こうの女は、松葉杖をついた私を見るなり、哀れむような手つきで椅子を引いた。
私は座らなかった。
四十前後だろうか。背は私より高い。長い髪が顔の片側を隠し、襟元まできっちり留めた軍服の肩には徽章が光っていた。手袋と長靴だけが、室内の灯りを硬く弾いている。
九頭駅で情報を渡した、あの黄色い手提げ鞄の婦人。背格好がどこか重なった。
「それで……我々に、この件から手を引けと」
女も立ったまま腕を組み、私を見下ろした。
「ええ。今後いかなる名目でも、彼女への拘束、監視、接触を一切行わない」
一度、言葉を切る。
「そして……淵殻を含め、華神地区を対象とした研究の一切を放棄してください」
女が笑った。
喉の奥だけで。
「参謀本部の魔術武官殿が無策でこんな馬鹿げたことを言うまい。――で、お前の手札は」
「……投影石。アイリーン・サイベルが、あの施設で行われたことを遺している。条件を飲む限り、参謀本部には上げない」
靴音が背後へ回った。左の首筋に手袋の指が置かれる。革越しにも硬く、冷たい。支えを失いかけた身体が松葉杖の上でわずかに揺れた。
黒の混じった赤い髪をかき上げられ、右の耳に息がかかる。
「ヘルザ・ラルフエルトは、第七魔導衛生部の爆破事故に巻き込まれた……。あるいは、魔術師殺しを得意とする赤のレスイに喉を裂かれた。報告など.......いくらでも打てる」
わずかに間を置き、舌の鳴る音まで聞こえそうな距離で女は付け加えた。
「アイリーン・サイベルも……右に同じ」
私は息の触れた側の髪を払った。
「私を消しても、投影石は見つからない。もう私の手元にはない」
「時間の問題だ。お前の頼れる範囲など、たかが知れている」
「ええ。確かに私には、頼れる糸なんてほとんどない」
首筋に置かれた手の重さを感じながら、私は続けた。
「だけど、あの子は違う」
女の指が止まった。
「あの子が九頭で繋いだ糸は、幾重にも重なっている。蒸籠屋台から路地の隅にある使われなくなった井戸まで、あなたたちでは辿り切れないほどに」
言い終えた瞬間、女の手が首筋から離れた。正面へ回り込み、革手袋を嵌めた左手をしばらく見つめている。
「……魔女が」
初めて、その顔から余裕が消えた。
私は松葉杖を強く握り、畳み掛けた。
「ヘルザ・ラルフエルトは、特務上の失態の責任を取り、本部を去る……そう打てばいい」
女の目が細くなる。
「あの石は、もう私にも手の届かないところにある。ただ、あの子に何かあれば、すべてが開くようにしてある」
女は、気でも触れた者を見るような目を私へ向けた。無理もない。私は帝国の武官で、いま握り潰せと言っているのは、その帝国に裁かれるための証拠だ。
壁際の暖房器具が蒸気を吐いた。乾いた音だけが、私たちの間を何度も行き来する。
「理解できない。いつ死ぬかも分からん、どこの馬の骨とも知れぬ女と、あの街の連中のために、お前は今までの経歴を捨てるのか」
考える必要もなかった。
「そういうことになるわね」
私が素早く答えると、半分髪で隠れた顔から怒りだけが抜けた。
「大義なき者が志せば、いずれ歪む。……歪めば、周りが死ぬ」
先ほどまでとは別人のような、優しく諭す声だった。
――あの男も、死ぬ間際に似たようなことを言っていた。
「貴方の言うことは、正しいのかもしれない」
髪で隠れた奥の顔には赤く爛れた跡がわずかに見えた。
「だけど……私はもう、足元の誰かを踏みつけなければ成り立たない大義を、志すことはできない」
女は何も答えなかった。
しばらくして、もう一度椅子を引いた。今度の手つきには哀れみより、諦めに近いものがあった。
私はようやく、浅く腰を下ろした。
女は、私の左脚があった場所をしばらく黙って見ていた。それから、自分の左手へ目を落とし、革手袋の指を確かめるように一本ずつ折った。
窓の外の雪は、まだ止んでいなかった。
♢
手紙の末尾に記されていた場所を目指す。
中央大街通を外れ、華神街を南へ抜けると、石造りの建物は次第に低い家並みへ変わり、やがて舗装も途切れた。道の両側には畑が広がり、その先に低い丘が見えた。
私は歩きながら、彼女に何と声をかけようか思い悩んでいた。
久しぶり。
あなたのボルシチが懐かしい。
あの時は、何も言わずにいなくなって、ごめんなさい。
どれもしっくりこない。
九年もあったというのに、こんな時に限って何一ついい言葉が浮かばない。苛立って、思わず後頭部を掻いた。
墓地は、その丘の裾にあった。
『ヘルザ殿、やっと来ましたか。待ちくたびれましたよ』
たぶん、随分長い時間が流れていたのだと思う。私は言葉を忘れたまま、盛り土の上に立てられた小さな石碑を、焦点の定まらない目で見つめていた。
『真夏なのに、これしかなくて』
アイリーンは腰を低くして、笑いながら湯呑みを差し出す。
――立ち昇る湯気。茶葉の乾いた香り。私は今、散らかっているくせに妙に小洒落たあの部屋で、少し軋む寝台に座っている。
「ねえ、聞いてくれるかしら。私の話――」
それが、私の最初の言葉だった。
ハーバーによって電気が普及し、魔法が用済みになりつつあること。
そのハーバー家の娘に婚約者を取られ、破談になったこと。
お屋敷を手放し、田舎で魔術技官をしていること。
代替わりした老舗の魔導具店の店主が、やたら鼻につくこと。
そんなことを、一つずつ話した。
「ほんと、ろくでもないことばっかりだったわ」
私は湯気の立つお茶を一気に飲み干した。
「でも……いたの。貴方と同じように、手品みたいに魔術を使う天才が。ミーナというの」
風が丘を渡り、夏草の先だけを揺らした。
「アイリーン……」
石碑へ目を落とす。よく見ると、刈られた夏草の間には燃え残った紙銭が白く貼りつき、何本かの香が灰になったまま土へ刺さっていた。
「貴方に、会わせたかった……」
背後で、小さく草を踏む音がした。
まさかと思い振り返ると、まだ少女の面影を残す若い女性が立っていた。
黒髪を後ろでひとつに束ね、淡い青灰色の上衣に黒紺の長いスカートを合わせている。腕には小さな花束を抱えていた。
「もしかして……ヘルザ様でしょうか?」
思いがけず、帝国の言葉だった。それも、私の名前を知っている。
ということは……今の独り言を全部聞かれたのか。そう思った時には、私は左手で赤髪を整えていた。
「まさか、本当に来ていただけるなんて……」
若い女性は目を丸くした。その目元に、どこか見覚えがある。
彼女は小さな石碑の前まで歩み寄ると、抱えていた花束をそっと置いた。
「ジェジェの言った通りだったね」
その呼び方に、記憶の中の小さな少女が重なった。
「……マリ?」
女性は振り返り、少し照れたように笑った。
「はい」
私は外套から手紙を取り出し、彼女へ向けた。
「これを送ってくれたのも、貴方?」
「はい。今は陸軍病院で働いています。この手紙も、陸軍を通して送らせていただきました」
「でも、どうやって私の居所を」
今のウゼの住まいを知る者はほとんどいない。それに、私が組織を離れてからもう九年になる。
手紙を受け取った時から、そこだけは気に掛かっていた。
マリは少し言いにくそうに視線を落とした。
「恐れながら、ラルフエルト少佐のお力を借りました」
「ラルフエルト少佐……?」
ザルクのこと……。
ラルフエルトの名を辿れば、確かに私へ行き着く。
暖炉の前で喧嘩別れした時のことを思い出し、手にした手紙へもう一度目を落とした。あの子に借りを作るのは癪だが、今回ばかりは素直に感謝しよう。
「帝国の字は、リンシャンから?」
「ええ、先生に教えてもらいました。でも言葉は、ジェジェから教わった方が多かったかな」
「彼女は、今も先生をしているの?」
マリは小さく首を振った。
「先生は、たぶんもうここにはいません。ジェジェが亡くなったあと、私に『回頭見』とだけ言って、それっきりです」
「回頭見……」
またね。
彼女らしいと言えば、そうなのだろう。けれど私はまだ、あの時病院まで運んでくれた礼すら言えていない。
「イーサンとウロのこと、覚えてますか」
「ええ」
「二人とも徴兵されて、今は東征軍にいます」
返す言葉が出なかった。
「レスイ連邦が攻めてくるって噂もあって……兵隊が足りないみたいなんです。これから九頭がどうなるのか、私にも分かりません」
マリは俯いたまま、墓前の花を見つめていた。
あの二人が。
井戸の水を積んだ手押し車を、競うように押していた小さな背中が浮かんだ。
ごめんなさい、と言いかけた。
けれど、私は何も言わなかった。
「ジェジェは……最後まで一緒でした。もう魔法が使えなくなっても、私たちに生きる術を教えてくれました。腐ってるものと食べられるものの見分け方とか、変なことばっかりでしたけど」
顔を上げたマリには、少しだけ笑みが戻っていた。
「ヘルザ様。あの時お渡しいただいた茶筒、今日まで約束通り誰にも言わず、開けずに持っていました」
マリは肩に掛けた白い麻の鞄から、少し錆びた茶筒を取り出した。
「開けてみて」
そう促すと、マリは驚いたように私を見る。
「いいのですか?」
私は頷いた。
マリは恐る恐る蓋へ指を掛けた。錆びついているのか、なかなか動かない。両手に力を込め、何度か捻るうちに、ようやく小さな音を立てて蓋が外れた。
ゆっくりと中を覗き込んだマリの顔が、きょとんとした。
「ヘルザ様。これって、一体……」
私は茶筒を彼女の手から受け取った。
「両手を出して。そう、碗を作るように」
マリは言われるまま、胸の前で両手を丸くした。
その掌の上で、茶筒を逆さにする。
薄い紙に捻り包まれた小さな砂糖菓子が、ひとつ、ふたつと転がり落ちた。それから幾つも続き、マリの両手を色とりどりに埋めていく。
「わあ……ジェジェの手品みたい」
マリは、少女の頃のように目を輝かせた。
「そうだね」
私はそれだけ答え、しばらくその顔を眺めていた。
「亡くなる間際まで、ジェジェはヘルザ様のことをほとんど話しませんでした。でも、容態が悪くなって入院することになった時、私に言ったんです」
マリは茶筒を大事そうに鞄へ仕舞うと、大袈裟に両腕を広げた。
「『ヘルザ殿は、私のために強い結界を張ってくれた』って」
「結界?」
「はい。淵殻や実験の証拠だけなら、当時の東征軍が折れるはずがないって。怖かったのは、導火線の先にどれだけ火薬があるのか分からなかったから……。ジェジェは、それがヘルザ様が全て捨てて張ってくれた結界だと言っていました」
――ヘルザ殿、流石です。でも、玉はどこにやったのですか?
そんな声が聞こえてきた気がした。
――流石なのは、貴方よ。玉は落とした時になくしちゃった。あなたの言った通り、よく転がっていったわ。
私は膝をつき、彼女の小さな石碑の前に指先から光をひとつ灯した。
夏の昼の白い光の中で、橙色の灯りだけが淡く輪郭を残していた。




