第二十七話 第一章 最終話
九頭駅でマリと別れ、三度、寝台の上で夜を跨いだ。その間に汽車と船をいくつか乗り継ぎ、ようやく車窓の向こうにウゼの見慣れた山並みが現れた。
『病院で、ジェジェと二人で縫ったんです。暇でたくさん作ったから、ヘルザ殿にも……って、ジェジェが』
マリと別れる間際に渡された、小さな布の袋を取り出した。
指先で軽く揉むと、乾いた花の匂いが立った。もう一度だけ確かめたくなり、鼻を近づける。
高い汽笛が鳴り、車体が大きく揺れた。私は左膝を手で押さえ、もう片方の手で香袋を外套の内側へ戻した。
♢
平屋の木造駅舎を抜けると、見慣れた鼠色の車が停まっていた。
「先生、おかえりなさい」
運転席の窓から、ノマーク村長が顔を覗かせて大きく手を振っている。
助手席に収まるなり、村長は待ちかねていたように喋りはじめた。
「先生、先生。春には電気が来ますよ。柱を立てるための測量の人が、もう来とりましてね。役場にも電話がつくそうです」
よほど嬉しいのだろう。私が口を挟む間もなく、どの道に柱が立つだの、役場の電話を誰が最初に使うだのと話はしばらく続いた。
やがて村長は何か思い出したように口を閉じ、少しばつが悪そうに額を拭った。
「いや……だからといって、先生はずっといてくださいよ。魔術のことだけじゃなく、色々と博識でいらっしゃるので、みんな頼りにしておりますから」
片手でハンドルを握ったまま、今度は先ほどまでより幾分早口になった。
「それは、便利になりますね」
私は窓を少し下げた。
「微力ながら、これからもお役に立たせてください」
細く開けた窓から風が入る。頬を撫で、耳の後ろへ抜けて、束ねた赤い髪からひと筋だけ引き出していった。森の匂いが少し遅れて追いついてくる。門が見えるまで、私はほどけた髪を押さえずにいた。
車を降りると、まだ私が礼を言う前から、村長は運転席の開いた窓越しに腕を真っ直ぐ伸ばし、掌をこちらへ向けた。
「先生、今日は頂くわけにはいきませんよ」
いつになく硬い口調だった。
「ですが――」
「その代わりと言っちゃなんですが、今度の『朱夏祭』で……花火をお願いできませんか」
今度は打って変わって、拝むように両手を合わせた。
きっと村長のことだから、「わしから先生に頼んどいてやる」とでも役場で言ったのだろう。
「では、とびきり大きいのを上げましょう」
そう言うと、村長はほっとしたように顔を綻ばせ、「それではお願いします」と何度も頭を下げ、鼠色の車を走らせていった。
♢
玄関先では、お母様がいつもと変わらぬ、すっとした立ち姿で私を待っていた。手紙を読んでろくな説明もせぬまま、翌朝には発ったのだから無理もない。
お母様は私の顔を見たあと、少しだけ視線を上げた。長い睫毛の下の目が肩を経て、髪へ移る。
「あなたにしては珍しく、少し乱れていますよ」
それだけ言って、背伸びするように華奢な腕を伸ばし、ほどけた赤い髪を撫でた。
私は何も言わず、ほんの少し頭を下げた。
「そういえば、ザルクに助けられたそうです」
お母様の手が止まった。
「ザルクに?」
「九頭で亡くなった友人の知らせを私まで届けるのに、あの子が手を貸してくれたそうです」
「まあ……そうでしたか」
「少佐になったそうですよ。随分と偉くなったものね」
「あなたより先に出世してしまいましたね」
お母様は少し目を丸くした。けれど、その顔はどうにもわざとらしかった。
「私はもう、とっくにただの人です」
そう返すと、お母様はとうとう堪えきれなくなったように、口元へ手を添えた。
「ふふふ」
「何がおかしいのです」
「あなたからザルクの話を聞くのは、随分久しぶりだと思いまして」
「……別に、避けていたわけではありません」
「そうでしたか」
お母様はそれだけ言って、私の荷物を手に取った。「……そうです」と返す間もなく、もう廊下を歩き始めている。
私はその背中を見てから、少し遅れてあとを追った。
♢
自室へ戻ると、荷物も解かぬまま寝台に腰を下ろし、香袋の紐を右手の中指へ引っかけた。目の高さまで持ち上げると、乾いた花の匂いに混じって、奥の部屋からフルートの音が届いてくる。
ゆっくりと持ち上がった旋律が、少し高いところで留まり、惜しむように降りていった。このところミーナが熱心に練習している、セントラで買ってきた譜面の曲だった。
静かで柔らかく、わずかに翳りを帯びていた旋律は、やがて軽やかさを増し、細かな音を忙しなく連ねていく。今まで気にも留めなかったが、どういうわけかアイリーンを思い出した。
黙っている時は妙に静かで、そのくせ口を開けば、こちらが割って入る隙もないほどよく喋る。
香袋が指先で小さく揺れた。
いつもなら途中でひとつ音を取りこぼし、悔しそうにやり直す節へ差しかかる。けれど今日は、細かな音がひとつも躓かず、するすると先へ抜けていった。
やがてフルートの音が止まり、しばらくして扉を叩く音がした。開けると、『うずまき』を抱えたミーナが立っている。
「……『とぐろ』じゃないのね」
思いがけず、そんな言葉が口から出た。
「帰ってきたなら教えてくれてもいいのに」
ミーナは杖を抱えたまま頬をわずかに膨らませた。
「あなたの演奏を聴いていたのですよ。随分、上手くなりましたね」
「ヘルザがいない間、いっぱい練習しましたから」
得意げに胸を張ったが、すぐに何かを思い出したように目を逸らした。
「……いや、ちゃんと魔法の練習もしてましたよ。ちょっとは」
初めは誇らしげだった瑠璃色の目が、だんだんとこちらを外れていく。その仕草が、今日は妙に可愛らしく見えた。
「そのおかげで、あなたはあの曲を吹けるようになった。私も、上手くなったあなたの演奏を聴けた」
ミーナは私の顔をまじまじと見たあと、怪訝そうに首を傾げた。私はその視線を受け流すように、少しだけ肩をすくめた。
「ねえ、その布は?」
ミーナが私の右手にある香袋を指差した。鼻先へそっと近づけてやると、すぐに目を細める。
「お花のいい匂い。どうしたの、これ」
「大切な友人から貰ったのよ」
「ヘルザにも友達いたんだ」
余計な一言を添えながら、ミーナはもう一度、香袋へ鼻を寄せた。
「そんなに嗅いだら、鼻がおかしくなるわよ」
そう言って取り上げると、ミーナは名残惜しそうに目で追った。
「ねえ、ヘルザ。魔法の練習、今からでもいい?」
「そうね。外へ行きましょう」
「今日は何するの? 界衛応用の初段なら……」
庭へ出ると、西の空には夏の日の最後の赤が残っていた。その中を、一羽の烏が黒い影になって横切っていく。
「そうね……動物と話す術式なんてどうかしら」
「え、本当? そんな術式、本当にあったんだ!」
「どんな動物でも、というわけではないけれど。烏くらいならできるわ」
私はミーナの髪を耳にかけ、顔を寄せてタネと仕掛けを囁いた。
ミーナは声を弾ませ、『うずまき』を空へ掲げる。
やがて一羽の烏が羽をすぼめ、私たちの前へ静かに降りてきた。
美しい。
私は消えていく光に背を向け、長く伸びた私と少女の影、その間に降り立った烏を眺めていた。




