名前のつかない箱
紬が廊下に出ているあいだ、白峰は窓際の台で簡単な確認作業をしていた。
澪は足音を立てないように奥の棚へ近づいた。箱は四つ。どれも蓋つきの保存箱で、潰れたり破れたりはしていない。だが貼られたラベルの文字が曖昧だった。
雑記。仮置。要確認。混在。
資料名でも件名でもない、判断の途中で止まったような語ばかりが並んでいる。
澪は一番手前の箱に手をかけた。思ったより軽い。蓋を持ち上げると、中には整然と綴じられた文書ではなく、紙の厚みも大きさも異なるものが重なっていた。封筒、メモ片、クリアファイルに挟まれた数枚の文書、下書きのような紙束。揃えようとして揃えきれなかった形のまま収められている。
手紙のように見える紙がある。だが宛名がない。
報告書のような書き出しのものもある。だが末尾がない。
日付のあるものとないものが混じり、筆跡も一人には見えない。それでも、全体には奇妙な統一感があった。雑多なのに、ばらばらではない。別々の声が、同じ沈黙の中に置かれているような感触だった。
「そちらですか」
背後から白峰の声がして、澪は振り返った。
責める響きはない。ただ、確認するような静けさだった。
「気になって」
「気になるでしょうね」
白峰はそれ以上止めようとはしなかった。否定も許可もなく、ただ、その箱がそういうふうに人の目を引くことを前から知っているようだった。
「どういう扱いだったんですか、これ」
澪が訊くと、白峰は少しだけ箱の中を見下ろした。
「扱いが決まらなかったものです」
「資料ではない?」
「資料と言い切るには、少し」
「私物でもない」
「そうです」
それだけで意味は十分だった。どちらにも属しきれないものは、制度の上では名前がつかない。名前がつかなければ、判断も止まる。
廊下から戻ってきた紬が、開いた箱を見て小さく眉を寄せた。
「見つけましたか」
「はい。たぶん、これですね」
「後回しにしたかったやつです」
紬は苦笑に近い表情をした。
「保存価値を説明しづらいんです。内容が統一されていないし、公的資料とも言い切れない。けど廃棄判断を出すには、どうしても引っかかるものがある」
白峰は黙ったまま、箱の端に手を置いていた。その沈黙が、紬の説明を否定しないかわりに、言葉にしきれない部分をそのまま残していた。
澪は中の紙束をそっと持ち上げた。指先に伝わるのは、古い紙の脆さというより、何度も触れようとしてやめたものに残る柔らかさだった。
誰かが整理しかけて、途中で止めたのかもしれない。
誰かが捨てようとして、やめたのかもしれない。
誰かが残そうとして、言葉を選びきれなかったのかもしれない。
そういうためらいが、そのまま箱の中に折り重なっているように見えた。
「仮分類だけでもしておきますか」
紬が実務の声音に戻って言う。
澪はすぐには頷かなかった。
分類はできる。手順もわかる。けれど、この箱に対して最初に置くべき言葉は、まだそれではない気がした。
「もう少し、中身を見てからにします」
そう言うと、紬は短く「わかりました」と返した。反対しない代わりに、深入りもしない。相良紬らしい距離だった。
白峰だけが、ほんのわずかに澪を見た。
それは評価でも警戒でもなく、この箱に対して澪がどんな触れ方をするかを、静かに見ている目だった。




