途中で終わる紙
澪は紙束のいちばん上にあった一枚を、そっと抜き出した。
コピー用紙より少し厚い、ざらつきのある紙だった。折られた跡はなく、端のほうにだけ指で持った癖のようなゆるい反りがある。日付はない。署名もない。けれど、開いた瞬間にわかった。
誰かに向けて書かれた文章だった。
名前も宛名もないのに、言葉の向きだけがある。
最初の数行には、何でもないことが書かれていた。部屋のこと。棚の隅に残った小さな埃のこと。朝より午後のほうが、窓際の机が少しだけあたたかいこと。そういう細部が、静かな筆圧で置かれている。
次の行で、文はわずかに揺れた。
――今日も、うまく言えませんでした。
澪はそこで一度、まばたきをした。
その先にも大きな事件は書かれていなかった。何を言えなかったのか、相手が誰なのか、その人がどんな顔をしたのか。肝心なことは、何ひとつ明かされていない。ただ、言えなかったあとの沈黙だけが、机の上に残る手の冷たさのように記されていた。
最後の一文は、途中で終わっていた。
もし、
そこまでだった。
投げ出した文章には見えなかった。むしろ、最後まで丁寧だったからこそ、その途中の切れ目だけが不自然に残る。続きの紙があるのかと思い、澪は箱の中を見たが、同じ筆跡のものはすぐには見つからない。
「……変ですね」
ほとんど独り言のように、澪は呟いた。
「何がですか」
紬が訊く。
「大きなことは書いていないのに、閉じにくいです」
紬は何も言わなかった。代わりに、白峰が静かに答えた。
「そういうものが多いんです」
その一言が、妙にまっすぐ胸に落ちた。まるで、この部屋に残っているもの全体の性質を、短く言い当てたようだった。
午後の作業はそのあとも続いた。手順に従って通常資料を確認し、問題のあるものだけを別に分ける。箱の中身は仮置きのまま戻し、記録票には簡潔に「内容混在・要再確認」と記した。
正しい書き方だった。けれど澪は、その言葉がこの箱の実態をほとんど言い当てていない気がしていた。
帰り際、資料室の扉を閉める前に、澪はもう一度だけ中を振り返った。
整然と並んだ棚。空になりつつある列。光の薄い奥に置かれた、名前のつかない箱。
どこも乱れてはいないのに、部屋全体がまだ何かを言い終えていないように見えた。
外へ出ると、夕方の風が建物の角を回ってきた。紬は明日の作業予定を確認し、白峰は鍵をポケットにしまう。交わされる言葉は少なく、必要なことだけがきちんと受け渡された。
それで一日は終わるはずだった。
夜、自宅の机で湯を沸かし、カップを持ったまま窓の外を見たとき、澪はふいにあの一文を思い出した。
今日も、うまく言えませんでした。
見知らぬ誰かの文章のはずだった。自分には関係のない、途中で終わった紙のはずだった。けれど、その文だけが、部屋から持ち出していないのに、まだ手の中に残っているような気がした。
閉鎖前の資料室。分類不能の箱。途中で終わる一枚の紙。
ただの廃棄整理ではない。
そう言い切る理由は、まだなかった。説明もできない。けれど、あの部屋には、捨てるとも残すとも呼びきれない何かが、たしかにあった。
湯気が薄くなっていくのを見ながら、澪は鞄からメモ帳を取り出した。
白いページを開く。
何を書くのかは、まだわからない。
それでも、すぐには閉じられなかった。




