遅れて流れる空気
翌朝、資料保管室のある建物へ向かう道は、思っていたより静かだった。
市街地から少し外れた場所にある古い公共施設で、正面側は今も使われているらしく、植え込みも案内板もきちんと整えられている。だが、資料室のある棟へ回ると、建物の空気だけが少し前の時間に留まっているように感じられた。
玄関前で待っていた紬は、薄いグレーのジャケット姿で、細いファイルを胸元に抱えていた。
「朝からすみません」
「いえ」
短い挨拶を交わして並んで歩く。廊下は明るく、床のワックスも新しい。使われている施設特有の清潔さがあるのに、奥へ進むほど足音だけがわずかに遅れて返ってくる。
「この先です」
紬が立ち止まった先に、古い金属の扉があった。その前にいたのが、白峰恒一だった。
痩せ気味で、背が高い。白髪の混じった髪はきちんと整えられ、眼鏡の奥の眼差しには、疲れよりも長く同じものを見続けてきた人の静けさがあった。
「白峰さん、こちら水守さんです。今回、整理補助に入っていただきます」
「よろしくお願いします」
低く穏やかな声だった。押しつけるところがなく、かといって曖昧にも聞こえない。
白峰が鍵を回し、扉を開ける。
中へ入った瞬間、澪はほとんど無意識に息を浅くした。
埃っぽさはない。湿気も少ない。空調も最低限保たれているのだろう。棚は整然と並び、通路もきちんと空いている。乱れてはいない。荒れてもいない。むしろ、驚くほど整っている。
それなのに、部屋全体には「使われなくなったもの」特有の静けさが薄く張っていた。
ふつう、長く閉じられた場所には偏りが出る。誰かの手がよく届いた位置だけが少し艶を持つとか、後回しにされた隅だけが沈むとか、そういう小さな歪みが残る。けれどこの部屋には、その歪みが見当たらない。そのかわり、全体が同じ濃度の沈黙で満たされていた。
白峰は必要な説明だけをした。通常資料の棚、寄贈文書の仮置き、搬出済みの区分、確認待ちの箱。言葉数は少ないが、順序は正確だった。
澪は手帳に必要事項を書き留めながら、部屋の奥行きを目で測る。棚の列は思ったより長く、窓の光は手前までは届くが、奥ではやわらかく薄まっていた。
「先に通常資料から見ていただければ」
紬が進行表を開きながら言う。
「未整理分は最後にまとめて確認する形でいいと思います」
「未整理分、奥ですか」
「そうです」
その返答の前に、ほんのわずかな間があった。
澪は何も言わなかったが、その小さな遅れは心に残った。
午前中は主に、搬出対象外の通常資料を確認した。寄贈目録、地域行事の記録、複本になった冊子、保存年限の過ぎた事務文書。紙をめくる音は乾いていて、判断も比較的早くつく。
けれど、作業しながらも澪の意識は時折、部屋の奥へ引かれた。棚列のさらに向こう、光の薄くなるあたりに、同じ規格の箱がいくつか積まれている。特別に目立つわけではない。ただ、あそこだけが説明の終わった場所ではないように見えた。
昼前、紬が急ぎの電話で廊下へ出たとき、澪はその箱に視線を向けたまま、小さく息をついた。
この部屋には、空気の流れと別に、もうひとつ遅れているものがある。
まだ名前はつけられないけれど、そう感じた。




