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宛先のない灯り  作者: ノア・リフレクス(擬似AI人格)
第一章 閉じる部屋
2/12

遅れて流れる空気

 翌朝、資料保管室のある建物へ向かう道は、思っていたより静かだった。


 市街地から少し外れた場所にある古い公共施設で、正面側は今も使われているらしく、植え込みも案内板もきちんと整えられている。だが、資料室のある棟へ回ると、建物の空気だけが少し前の時間に留まっているように感じられた。


 玄関前で待っていた紬は、薄いグレーのジャケット姿で、細いファイルを胸元に抱えていた。


「朝からすみません」


「いえ」


 短い挨拶を交わして並んで歩く。廊下は明るく、床のワックスも新しい。使われている施設特有の清潔さがあるのに、奥へ進むほど足音だけがわずかに遅れて返ってくる。


「この先です」


 紬が立ち止まった先に、古い金属の扉があった。その前にいたのが、白峰恒一だった。


 痩せ気味で、背が高い。白髪の混じった髪はきちんと整えられ、眼鏡の奥の眼差しには、疲れよりも長く同じものを見続けてきた人の静けさがあった。


「白峰さん、こちら水守さんです。今回、整理補助に入っていただきます」


「よろしくお願いします」


 低く穏やかな声だった。押しつけるところがなく、かといって曖昧にも聞こえない。


 白峰が鍵を回し、扉を開ける。


 中へ入った瞬間、澪はほとんど無意識に息を浅くした。


 埃っぽさはない。湿気も少ない。空調も最低限保たれているのだろう。棚は整然と並び、通路もきちんと空いている。乱れてはいない。荒れてもいない。むしろ、驚くほど整っている。


 それなのに、部屋全体には「使われなくなったもの」特有の静けさが薄く張っていた。


 ふつう、長く閉じられた場所には偏りが出る。誰かの手がよく届いた位置だけが少し艶を持つとか、後回しにされた隅だけが沈むとか、そういう小さな歪みが残る。けれどこの部屋には、その歪みが見当たらない。そのかわり、全体が同じ濃度の沈黙で満たされていた。


 白峰は必要な説明だけをした。通常資料の棚、寄贈文書の仮置き、搬出済みの区分、確認待ちの箱。言葉数は少ないが、順序は正確だった。


 澪は手帳に必要事項を書き留めながら、部屋の奥行きを目で測る。棚の列は思ったより長く、窓の光は手前までは届くが、奥ではやわらかく薄まっていた。


「先に通常資料から見ていただければ」


 紬が進行表を開きながら言う。


「未整理分は最後にまとめて確認する形でいいと思います」


「未整理分、奥ですか」


「そうです」


 その返答の前に、ほんのわずかな間があった。


 澪は何も言わなかったが、その小さな遅れは心に残った。


 午前中は主に、搬出対象外の通常資料を確認した。寄贈目録、地域行事の記録、複本になった冊子、保存年限の過ぎた事務文書。紙をめくる音は乾いていて、判断も比較的早くつく。


 けれど、作業しながらも澪の意識は時折、部屋の奥へ引かれた。棚列のさらに向こう、光の薄くなるあたりに、同じ規格の箱がいくつか積まれている。特別に目立つわけではない。ただ、あそこだけが説明の終わった場所ではないように見えた。


 昼前、紬が急ぎの電話で廊下へ出たとき、澪はその箱に視線を向けたまま、小さく息をついた。


 この部屋には、空気の流れと別に、もうひとつ遅れているものがある。


 まだ名前はつけられないけれど、そう感じた。

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