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童心

――3月初旬、午前11時――


「久しぶりだな。優一」


「久しぶり。父さん」


 俺は、父さんと面会するために、刑務所を訪れた。


 久しぶりに見た父さんの姿。かつての院長だった頃からすっかり変わり果てていた。

 無造作にハゲ散らかした白髪だらけの頭。数えきれない程の皺に生気のない瞳。まだ60歳手前だというのに、70歳に見える。たった数年しか経っていないというのに……院長をやっていた頃の威厳は完全になくなってしまった。

 

 柳木病院の院長だった父さん。

 母さんにプロポーズして結婚したのに、洋子さんと出会ってから、俺と母さんを蔑ろにした父さん。

 姉さんと洋子さんが亡くなったあと、母さんや俺の所に戻らずにつまみ食いを繰り返し、もはや院長としてのプライドを失った父さん。


 俺が父さんと面会する目的――それは、俺の意思を父さんに伝える事。

 母さんは放っておけと言っていたが、そうはいかない。

 父さん(この人)は、腐っても俺の――血のつながった父親だ。


「それで優一。話って何だ?」

「俺は医師を目指すよ。でも柳木病院を継がない」

「何だと!? お前が継がないで誰が継ぐんだ!?」

「親戚の人――父さんの弟が継いでるよ。あの人は医師ではあるが、経営者としても信用できる人だ。柳木病院の危機を救った人だからね」

修二(しゅうじ)め……」


 柳木(やなぎ) 修二(しゅうじ)。父さんの弟で俺の叔父さん。柳木病院の現院長である。

 院長になる前は、遠い田舎の診療所で医師をしていたが、父さんが逮捕されたとの連絡を受け、柳木病院の危機を救うため戻ってきた。


「でもな、優一。修二の次は誰が院長をするんだ? アイツは結婚していないんだろ?」

「そんなの、やりたい人がやればいい。別に子供が継ぐ必要はないだろ。俺はやりたくないな――というより、俺は院長ができるほどの器じゃない。それは父さん自身がよくわかってるだろ。俺はアンタの息子なんだから」

「……」


 父さんは下唇を噛みしめた。図星なんだろう。

 父さんの不祥事で落ちぶれたとは言え、柳木病院はそれなりに大きい病院だ。その院長となると、医師免許があるだけでは何の役にも立たない。院長というのは、言わば経営者だ。

 学校で経営学を学ぶ事はできるが、経営学を実際の経営で活かせるかはまた別問題だ。俺は今までそういうのを教わらなかった。だから、俺に院長はできない。

 それに、経営学を学ぶくらいなら、俺は『毒物パラダイス』を読んで妄想していたい。


「許さん……許さんぞ! 俺は絶対に認めん! 柳木病院はお前が継げ! それでさっさとどこかのお嬢様と結婚して子供を産め!」

「ヤダね。それに、叔父さんはもう次の院長候補を見つけたって言ってたぞ。もう俺の出る幕はない。あと、俺の結婚相手はもう決めている」

「は? なんだ、優一。ついに相手が見つかったのか? それで? どこのお嬢様だ?」


 父さんは急にしおらしくなった。お嬢様て……


「香澄だ。覚えてるか? 姉さんの友達だった人だ」

「香澄ちゃん……覚えてるぞ。気が弱くて頭が弱そうな娘だろ。まったく月子には友達はちゃんと選べって何回も注意したのにな。そのおかげで優一に悪い影響を与えてしまったな」

「はあ、さすがの香澄も父さんにだけは言われたくないだろうな」

「何だと!」


 俺のことを悪く言うなら、いざ知らず。父さんは香澄をそんな風に見てたんだな。親から香澄の事を悪く言われると――落ち込む。長年、俺が色々な葛藤の中でずっと想い続けていたのに……

 こりゃ、父さんからの祝福はないな。もう父さんの息子をやめたい。


「お、俺は香澄ちゃんとの結婚は認めないからな! 絶対にな!」

「じゃあ、誰と結婚すれば認めるんだ?」

「昔、父さんの知り合いの医師の娘さんとか、他にも社長令嬢とか……そうだ! なんなら、またお前に紹介してやってもいいぞ!」

「いらん。誰と結婚しようと俺の勝手だろうが」

「そんなに香澄ちゃんと一緒になりたかったら、愛人にすればいいじゃないか。そして優一は俺の認めた相手と結婚すれば、全て解決だな。な?」


 愛人。香澄を愛人だと……こんのクソ野郎が!!

 ――と言ってやりたいが、俺はニッコリ笑顔になった。


 父さんはどうして俺の結婚相手にこだわるのか。それは何となく想像がつく。父さんは病院を運用できないからだ。

 俺が父さんの決めた相手と結婚すれば、相手の両親から支援してもらえる。この人には人徳がなければ、支援してもらえるような交渉術も持ち合わせていない。

 俺は父さんの欲望を満たす道具に過ぎないのだ。


「父さんは院長室で看護師さんをつまみ食いしてたんだろ? 勤務時間中によくそんな事ができるな。真面目に働いている医師と看護師さんが可哀想だ」

「何でそんな事知ってるんだ!?」

「大学1、2年の時、俺も看護師さんをつまみ食いした。そん時話してくれたよ」

「お、俺が院長なんだから、院長室で何しようと俺の勝手だろうが!」


 はぁ。やっぱり、俺と父さんは院長向いてない。

 2人揃ってどうしようもないゲスな会話を繰り広げるなんて……やっぱり親子なんだな。



――夕方5時――


「ただいま……って。ゆうちゃん!? どうしたの? 具合悪いの?」


 仕事から帰ってきた香澄は俺の姿を見て仰天した。

 無理もない。俺はリビングのソファに仰向けで寝込んでいるからな。

 俺は香澄に視線を合わせる。


「おかえり。俺なら心配するな。疲れただけだ」

「ゆうちゃん。今日、おじさんの面会に行ってきたんでしょ? 何かあったの?」


 今の俺は落ち込みオーラが隠しきれないくらいに、ひどく落ち込んでいるんだろうな。香澄は今日のことを俺に尋ねた。


「……今日の面会で、病院を継がないのと香澄の事を伝えてきた。父さんはどちらも認めないって言った」

「そう……」

「今日の面会でわかったよ。父さんはやっぱり俺の事、自分の欲望を満たすための道具くらいにしか思ってなかったんだ。頭ではわかってたのに……ショックだったよ」


 香澄は心配そうに、俺を見つめる。


「ね、ゆうちゃん。膝枕してあげようか?」

「はあ!? 香澄の膝枕なんかいらん!」


 いきなり俺を子供扱いかよ!? 俺は香澄の膝枕を拒否した。

 俺の反応を見た香澄は無邪気な笑顔を浮かべる。


「ゆうちゃん、小さい頃――たまに私の膝枕で熟睡してたのよ。忘れたの?」


 よーく覚えてる。今思うと恥ずかしい。本当に恥ずかしい。母さんも姉さんも洋子さんも膝枕なんぞしなかった。


◆◆◆


――18年前、夏休み――


「……ゴクっ」


 幼稚園は夏休み真っ最中。この日のお勉強を全て終わらせた俺は、家のキッチンに隠されている地下室への階段をただ、眺めていた。

 この時、姉さんと洋子さんと父さんの3人――地下にこもっていた。


 父さんから『絶対に地下に入るな』とキツく注意されていた。しかし、好奇心に負けた俺は、この日――地下に入ろうと心に決めた。


 階段をしばらく降りると、人の声が聞こえてきた。

 吐き気がするような変な臭いと重い空気が、幼い俺の恐怖心を増大させた。


 俺の前に現れたのは、硬い鉄製の扉だ。扉は硬く閉ざされており、中は見えなかった。


 気になったのは、声だ。男と女と……女の子の声。しかも、俺のよく知っている声。悲鳴のようにも聞こえるし、吐息のようにも聞こえる生々しい声。それらはハーモニーとなり、リズムを刻んでいた。


 この扉の向こうで何が起こっていたのか――幼い俺には全く想像できなかった。


「優一」


 扉の穴から、男の顔が見えた。そいつは、父さんだ。

 父さんは赤い顔で、ニッコリと笑顔を浮かべていた。

 俺は父さんの言いつけを破った。一体何をされるのか……俺の心は一瞬にして恐怖に満たされた。

 異様な雰囲気と父さんの不気味な笑顔。この時の俺にとって、父さんの姿は恐ろしい魔物のようだった。


 すると……


 ――ピンポーン


「こんにちは。香澄です。月子ちゃんいますかぁ?」


 香澄だ! 良かった……

 俺は香澄が来て、命拾いをした思いだった。

 父さんは笑顔を崩さず、俺を見つめた。


「優一。月子は今日、お出かけしていると言いなさい。ついでに香澄ちゃんと遊んできなさい。そしたら、今日の事は許してやる」


 俺は黙ってうなずいた。ただただ……怖くて仕方なかった。


「優一。この事は僕と優一の秘密だよ。他の人に言ったらどうなるか……わかるね?」


 俺は涙目でうなずいた。


――


「あ、ゆうちゃん。こんにちは。月子ちゃんは?」

「こんにちは。姉ちゃんならお出かけしてるよ」

「そうなんだ。残念」


 麦わら帽子に水色のワンピース姿の香澄が俺の目の前に現れた。さっきまで恐怖のドン底にいた俺にとって、香澄は女神のように見えた。


「ブス香澄。今日は俺が一緒に遊んでやる」

「お家の人は遊んでいいと言ったの?」

「言った」

「そっか。何して遊ぶ? 鬼ごっこ? ぶらんこ?」

「……香澄の家に行く」

「ええ!? ゆうちゃんがいいなら、いいけど……じゃあ、行こ」


――


「ただいまー」

「……お邪魔します」


 香澄の家に着いた俺と香澄は、玄関で靴を脱ぐ。

 家には静寂が広がる。

 でも、俺の家とは違い、穏やかで温かい空気だった。


「香澄の親はどこ行った?」

「パパとママはお仕事なの」

「寂しくないの?」

「寂しいけど、パパとママは私たち家族が仲良く暮らすためにお仕事をしてるのよ。だから平気なの」

「ふーん」


 自分の家と幼稚園、習い事以外の場所に行ったことのない俺にとって、香澄の家はとても新鮮だった。

 香澄の家は静かであったが、とても居心地が良かった。


――


「ふぁー」


 遊び疲れた俺に眠気が襲ってきた。人生で初めてかもしれない。昼寝がしたい気持ちになったのは。

 俺と姉さんは自分の家に帰ると、習い事とお勉強があるから遊ぶ時間が限られている。遊び盛りの俺にとって、昼寝するくらいなら遊びたい気持ちで一杯だったのだ。


「ゆうちゃん、おネム?」

「ちがう! ねむくない……ふぁー」

「ふふ。大きなあくびしちゃって。わたしも疲れたから少しお休みしたい」


 香澄は俺の近くに座ると、膝をペチペチと叩く。


「ゆうちゃん。膝枕してあげる。ほらほら横になって」

「はあ!? ブス香澄の膝枕なんかいらないよ!」

「あ、もしかして……月子ちゃんにやってもらってるの? ふふふ」

「うううるさい! 姉ちゃんも誰も膝枕なんかやらないよ! そんな子供じみた事……おれ、イヤだよ!」

「えー、ゆうちゃん、子供なのに……」


 香澄はションボリした。そんな顔するなよ……と俺は子供心に思った。

 気まずい思いをした俺は香澄の膝にゴロンと転がった。


「ゆうちゃん」


 香澄の顔がパァ、と明るくなった。


「香澄がどうしても膝枕やりたそうだったから、寝ただけだよ! 次はやらないからね!」

「いいのいいの。わたし、弟か妹ができたら、こうして膝枕したかったの」

「なんで?」

「わたしも小さい頃、ママに膝枕してもらってたの。だから、私が弟か妹を膝枕するとママと同じになれるかもって思ったの」

「何言ってんの。香澄は母さんじゃないよ。バカじゃないの」

「ふふふ。いいの」


 香澄の膝枕はふかふかして体温が心地よくて、俺の眠気を誘う。俺は睡魔に耐えられず、すぐ寝てしまった。


「あ、ゆうちゃんの寝顔かわいい」



 この日を境に、父さんたちが地下にこもる間、俺は香澄の家に遊びに行くようになった。


◆◆◆


 ――パシャリ。


「やった! ゆうちゃんの寝顔激写!」


 スマホカメラの音と香澄の声で俺は目が覚めた。

 しまった。香澄の膝枕が心地よくて思わず寝てしまった。


 香澄は俺の寝顔の画像に夢中になっているせいか、俺が起きた事に気づいていない。

 香澄め。俺の寝顔の写真を撮るなんて……写真なんか消してやるわ。

 俺は香澄からスマホを奪い取り、起き上がる。


「あ! ゆうちゃん! いつの間に起きたの?」

「ふん、香澄のくせに俺の寝顔を隠し撮りか?」

「ゆうちゃんの寝顔、かわいかったから、つい……」


 どこがかわいいんだ? アホみたいなツラしてるじゃないか! 俺はすぐさま画像を消した。


「あ、消えちゃった……」


 香澄はションボリした。そんな顔するなよ……と俺は思った。

 気まずい思いをした俺は香澄の膝にゴロンと転がった。


「俺の寝顔なんて、香澄の記憶に残っていれば十分だろ。香澄がうっかりスマホを落として、他のヤツらに見られたら恥ずかしい」

「ま。ゆうちゃんったら」


 俺は香澄の頭に手をあてると、香澄の顔を俺の顔に寄せる。香澄は流れるように目を瞑ると、俺たちはそのまま唇を重ねた。


 それにしても、香澄の膝枕には不思議な力がある。さっきまでひどく落ち込んでいたのに、今は気分が良い。

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