素直な人
「あ、あのね、ミナトくん……洋子おばさんは.…」
洋子おばさんを『妖怪鬼ばば』と思い込んでいるミナトくんに私が声をかけると、月子ちゃんは私の手を引っ張り、ミナトくんから離れる。
「どうしたの? 月子ちゃん」
「いいんじゃない? このまま青倉くんに妖怪と思わせておけば」
「ええ!? 洋子おばさんは人間なのに……」
「洋子の力、どうやら青倉くんには通用しないみたいだし、それに――青倉くんの世界観に飲まれるのも面白そうじゃない?」
面白そうって……ああ、ミナトくんは洋子おばさんを妖怪と勘違いし続けるのね……
「ねえ、青倉くん。その絵本、私たちにも見せてちょうだい」
月子ちゃんは笑顔でミナトくんに声をかけた。
「見せてって言われてもなぁ……あの絵本、怖すぎるからとっくの昔に捨てちゃったぞ」
「大丈夫よ。ここは現世と黄泉の国との境目よ。記憶を掘り起こしてごらん」
「へぇ。ちょっと待ってて。うーんと……確か……」
ミナトくんはしばらく考え込んでいると、彼の足元に絵本がドサっと音をたてて落ちる。
ミナトくんはその絵本を拾い上げ、絵本をパラパラと眺める。
「えーと……あった! ほら見て! これが『妖怪鬼ばば』だよ! あのおばさんそっくりだよ! やっぱり『妖怪鬼ばば』だったんだ……」
真っ青な顔をしたミナトくんは私たちに『妖怪鬼ばば』の絵が載せられているページを見せた。
そこには、年老いた洋子おばさんそっくりの『妖怪鬼ばば』の絵があった。
「あ! 本当にそっくり……」
私は思わず声を漏らした。これは偶然なの?
「だろ!? あの世には妖怪までいるんだな! どうしよう先生! 俺、ひったくり犯なら何回か捕まえた事はあるけど、妖怪退治なんてした事ないからわかんないよ!」
洋子おばさんは人間なのに……教えてあげたい……
私がそう思い悩んでいる間、我に返った洋子おばさんが、鬼の形相でミナトくんの背後に立っていた。
いつの間に!? ミナトくんが危ないわ!
「このクソガキャああ! いい加減にしろよ! 誰が『妖怪鬼ばば』だあぁ!!」
「うひぃ! 鬼ばばが本気出した! 食われるぅぅ! 悪霊退散、悪霊退散んんん!!」
ミナトくんは手に持っているバットを『ブゥン』と音を切りつつ振り回すと、洋子おばさんの脇腹にクリーンヒットした。
「うぎゃあああ!」
脇腹にバットが決まった洋子おばさんは悲痛な悲鳴をあげながら、倒れた。
「あ! ごめんよ! 鬼ばば! バットで妖怪を殴ってしまうなんて……バットはボールを打つためにあるんだって監督から散々言われてきたのに……俺は……――って、うわぁ!」
私たちは洋子おばさんの姿に仰天した。
洋子おばさんの体は消えており、生首の状態となっていた。
ミナトくんはおばさんの頭を拾い、目線を合わせる。
「なんか、ごめん……俺のバットが鬼ばばの体ごと吹き飛ばすとは思わなくて……」
「このクソガキが! ふざけんなよ!! それに、私は鬼ばばじゃない!! 人間だ! 洋子って名前があるんだからな! このバカが!」
洋子おばさんの言葉を聞いたミナトくんは目を丸くする。ようやく洋子おばさんが人間だって気づいたのかしら?
「もしかして、鬼ばばは人間になりたかったのか? それで『自分は人間』と思い込むなんて……そんなの空しいだけだぞ」
あう。やっぱり気づかない。
「ちぃーがぁーうぅー!! 私は人間だぁー!!」
「ねえ、月子ちゃん。どうして、ミナトくんのバットで洋子おばさんの体がなくなったのかしら?」
「洋子の強力な怨念『負の心』と、青倉くんの真っ直ぐで純粋な鋼メンタル『正の心』――きっと、この二つは反発する性質を持っているのかもしれないわね。それに、ここは黄泉の国と現世の境目。心の強い者が強いのよ。よって心の弱い者が打ち消されてしまった――そんなところかしら」
そういえば、さっき洋子おばさんの手をあっさり引き離せたのも、ミナトくんの心の力の方が強かったという事なのね。
「強力な怨念まみれの洋子の体をアッサリと打ち消したのを見ると……青倉くんの鋼メンタルは洋子の怨念の何倍も強い、という事。青倉くん、恐るべしだわ。――何にせよ、頭だけになった洋子は今後、好き勝手できなくなってしまったわね。打ち消されたものはもう戻らないのだから」
月子ちゃんは自分の母親を名前で呼び捨てにしている上に、頭だけになった母親を見て淡々としている。私はそんな月子ちゃんを見て、胸が締め付けられた。
「香澄、そんな顔しないで。私のお母さんは優一のお母さんだけよ。お母さんの自己紹介でも言ってくれたでしょ? 『月子と優一の母』って。私、すごく嬉しかったんだから」
月子ちゃんは嬉しそうに笑う。久しぶりに見た月子ちゃんの笑顔。私もつられて笑顔になった。
「先生。早く現世に戻った方が……いつまでもここにいたら本当に戻れなくなるかしれないですよ」
ミナトくんの言葉で、私はハッと思い出した。そうだ! 私、死にかけているんだ……早く戻らないと、本当に死んでしまうわ!
月子ちゃんは、とある方向へ指さすと――
「ほら、香澄。あの方向へ真っ直ぐ進むのよ。決して後ろを振り返らないで。そうすれば現世に戻れるわ」
「わかった。ありがとう、月子ちゃん。ミナトくん……またね」
これは別れではない。私はさよならではなく、『またね』と言った。
「先生、次に会うときは60年後くらいで頼みますよ」
「ふん、戻ったところで、バカ香澄はいずれ優一に捨てられるのさ。目が不自由になった香澄のお守りに嫌気が差して、他の女のところへ行くに決まってる! 修一さんのようにな。なんたって優一は修一さんの子供なんだからな!」
ミナトくんの両手に収まっている洋子おばさんの声が響く。
「洋子! この期に及んでなんてことを……言ったじゃない。優一はそんな子じゃないって」
「は! どうだか! 看護師さんやら患者さんやら女医さんやら――出会いの数は大学の比じゃないんだよ。修一さんだって、可憐でか弱い、理想の女性の私に一目惚れしたらしいからな。クッフッフッフ! だったら、今ここで死んだ方がマシなんじゃないかぁ?」
洋子おばさんの言葉は、私の中の不安を大きくさせていく。
私がどんなに決意を固めても、ゆうちゃんを信じていても、将来どうなるかわからない。
「先生の心配をしてくれているなんて……鬼ばばって優しいんだな。そうだよなぁ。柳木って昔っからモテたもんなぁ。そりゃあ、心配になるよなぁ」
「ちがうわぁあ! 誰がバカ香澄の心配なんかするもんかぁぁ!」
「照れるなよ。俺は今、モーレツに感動してるんだぜ! 妖怪は実は優しいんだって」
「もおヤダ! 離せぇぇ! お前といるとバカになるわ!」
ミナトくんと洋子おばさんのやり取りのお陰で、私の中の不安は一瞬にしてかき消された。
「香澄。ここから先は香澄が決めてちょうだい。優一は目が不自由になった香澄を簡単に見捨てるような人だと思う? そう思ったならここにいればいいし、違うなら何も言わずに現世に戻って」
月子ちゃんは私に選択肢を与えた。死を受け入れるか、現世に戻って生きるか……
私は今までのゆうちゃんを思い出した。
……
ゆうちゃんは、私の作ったまずい料理を――文句を言いながらも、いつも食べてくれていた。
金田くんがミナトくんの足を折ったとき、ゆうちゃんはミナトくんの治療費を出してあげると言った。これはあとで金田くんから聞いた話だけど、ゆうちゃんは自分が医者になったら、治療費を全額返すと誓約書まで書いて約束していたらしい。親のコネを使っていた訳ではない。
精神病を患っている桂木さん。ゆうちゃんは桂木さんに病院に行くように何度も説得した。諦めずに。そのお陰で、桂木さんは両親と一緒に今も病気と向かい合っている。
ゆうちゃんは佐々本くんの束縛に苦しんでいる私を必死になって助けてくれた。自分にも危険が及ぶかもしれないとわかっていたのに……
ゆうちゃんは悟くんを助けるために、危険を冒したこともある。過去の過ちへの償いのためなのかもしれないけれど……
他にもたくさんあるけど、キリがない。
もちろん、いい事だけではない。ゆうちゃんはやってはいけない事もした。
私に近づいたから、という理由で悟くんにいじめの指示を出していたことがあった。私はやめるように訴えたけど、ゆうちゃんはやめなかった。そのせいで悟くんは精神を病み、自殺未遂を起こした。
それと、悟くんを助けようとしたミナトくんは足を折られ、野球を辞める事になった。
私が佐々本くんと一緒にいた時、私への嫌がらせのために、万引きしていた過去を持つ桃園さんを利用した事もあった。桃園さんはさぞ怖かっただろう。
しかし、これは全て臆病な私が招いた事だ。私がゆうちゃんから逃げたのがいけない。
最後に、5年前の――月子ちゃんをいじめていた子たちが行方不明になった事件。
ゆうちゃんは今まで何も語らなかったけど、佐々本くんからゆうちゃんが犯人ではないか、と問い詰められた時、ゆうちゃんは素直な目で『やっていない』と言った。
ゆうちゃんは素直な人だ。ゆうちゃんは罪を犯していないのだと悟った。私は嬉しくて心が踊った。
私は決めたんだもの。
ゆうちゃんから逃げないって。
ゆうちゃんを守るって。
ゆうちゃんを愛するって。
……
私は現世に向かって真っ直ぐ走り始めた。
「またね、香澄。優一に『いつまでもカッコつけるな』って伝えてね」
背後から月子ちゃんの声が響き渡った。
……
――
香澄の病室から出た優一は、病室近くのロビーの椅子に座っている。
香澄は心肺停止になり、母さんが蘇生処置を施している。
参ったな。
俺が今まで守ってきた大切なもの。こんな簡単に……しかも、俺の目の前で壊れてしまうなんて。
星空の下で血の涙を流しながら、醜く泣き叫んでいる愛しの女性の凄惨な姿が頭に焼き付いて離れない。
桂木さんの病気や、脚を失った桜田の姿――一瞬、驚いたものの、すぐに慣れた。しかし、香澄の場合はどうだ。今もあの光景が目に浮かんでは、胸が張り裂ける。心が壊れてしまいそうだ。
……
「ゆうちゃん」
うなだれている俺に、母さんが声をかけてきた。俺は顔を上げると、青白い顔をしていた母さんが、鋭い目つきで俺を見つめている。
「香澄ちゃんの病室に来てくれる?」
香澄は助かったのか? それとも……
俺は怖くて聞けなかった。でも、病室に入ればすぐにわかる事だ。どんな結果だろうと受け入れなくてはいけない。俺は不安な気持ちを胸に、香澄の病室に向かう。
……
香澄の病室に入った俺は目を見開いた。
香澄に繋がっていた生命維持装置の心拍数が、安定したリズムを刻んでいる。
俺はベッドの上の香澄の姿を見ると、香澄の胸がわずかに動いている。
俺の心臓の締め付けがなくなった。
目頭が熱くなり、視界がぼやける。
「……だれ?」
香澄がかすれた声で話しかけた。目に包帯を巻きつけられているから、俺の姿は見えない。
俺は香澄の近くの椅子に座ると、背後にいる母さんが香澄に声をかける。
「香澄ちゃん。ゆうちゃん連れてきたわよ。少しの間だけ、お話してもいいわよ」
母さんはそう言うと、病室から出て行った。
――
「――香澄。もうだめかと思ったよ」
「クスっ。前に言ったでしょ?『何があってもゆうちゃんのそばにいる』て」
俺は香澄の小さな手を取り、自分の頬に引き寄せる。香澄の手は冷たかったが、生命の温もりが伝わってくる。
「ゆうちゃん、泣いてるの?」
「何言ってんだ。俺が泣くワケないだろ……」
「あのね、夢の中で月子ちゃんに会ったの。月子ちゃんがね、ゆうちゃんに『いつまでもカッコつけるな』て言ってたわ」
「何だよ、香澄のくせに。香澄のくせに……ぐすっ」
俺はそこから先の言葉が出てこなかった。
――数日後――
「香澄。大地が香澄の目を傷つける前、香澄はなんて言ったんだ?」
香澄の病室を訪れた俺は、リンゴの皮を剥きながら、香澄に質問をした。
目に包帯を巻きつけれた香澄は、ベッドから体を起こしている。
俺の質問を受けた香澄は、声の方向に顔を向けるとクス、と笑う。
◆◆◆
「何だよ、香澄。昔に言ってたじゃんか。『ゆうちゃんがやったんじゃないか』ってな。あれか? 優一を信じてるとか――そういうヤツか?」
「違う。私は警察の前でゆうちゃんを庇った。これが私の答えよ。もし、ゆうちゃんが罪を犯してシラを切るなら、私もシラを切る」
もし、ゆうちゃんが罪を犯していたら、私も半分背負う。
◆◆◆
香澄がそんな事を言うなんて……大地はあの時、ひどくショックを受けたのだろう。香澄は、俺のために汚い事を考える人になった。
「余計な事を。そのおかげで香澄は命の危険に晒されることになったんだぞ」
俺は剥いたリンゴを香澄の口元へ運ぶ。香澄はリンゴをシャク、と音を立てて食べる。
「私が何も言わなかったら、ゆうちゃん、無実の罪を背負うつもりだったんでしょ?」
「……」
香澄のくせに。香澄は俺がやろうとしていた事を見抜いていた。
「ゆうちゃん。私の事、見損なった?」
「まさか。汚さなら、俺の方が上だからな。俺が像なら、香澄のそれはアリ程度だ」
俺はそう言うと、リンゴをシャク、と音を立てて食べた。




