優しいとは人を憂うと書く
俺と母さんはリビングで向かい合って座っていた。俺は母さんに聞きたい事が山ほどあった。
「母さん。父さんと離婚して大学病院の医師と再婚する、て話は本当か?」
「ふふふ。嘘よ、嘘。離婚もしないわ。お父さんの面倒を見る人がいなくなったら、ゆうちゃんに迷惑がかかるからね。私が最後まで面倒見るつもりよ」
「じゃあ、俺の朝ごはんに毒を入れたのは……」
「毒なんか入れないわよ。私は最低の母親だもの。ゆうちゃんなら毒を仕込んだと思い込んでくれるんじゃないかと思ってた」
「なんで嘘をついた?」
「ゆうちゃんには忌々しい家庭から早く自立してもらいたいと思ってたわ。ゆうちゃんが物心ついた時には、既に私は最低の母親で、月子と洋子が信頼できる身近な人物だったもの。今更私が母親面してもね……」
俺は母さんの話を聞いて、戸惑っている。
「ゆうちゃんは、私がいつも遊び回っていると聞かされていたのよね?」
「ああ、父さんと洋子さんからよく聞かされていた」
「はあ。私は大学病院と遠方の診療所の医師として長年勤めて、あの2人に何不自由ない、好き勝手な生活を送れたっていうのに……少しでもいいから私に感謝して欲しいくらいだわよ。人を馬鹿にするのもたいがいにしてほしいわ」
母さんはテーブルにカードと通帳をそっと置くと、俺はそれらを手に取る。
「そのカードは母さんの医師免許証。そんで、その通帳は母さん名義の通帳よ。母さんの給料はお父さんの通帳にほとんど振り込まれてたの。お父さんが逮捕されてからは母さんの通帳に振り込んでもらうようにしたんだけどね。その通帳、ゆうちゃんに預けるわ。母さんは仕事ばかりでほとんどお金使わないのよ」
「……本当に医師だったんだな。でも、大学病院に勤めていたのなら、大学で母さんの話が耳に入ってもおかしくないはずだが……」
「長年、お父さんの圧力が強かったからね。当時、私は大学病院で腫れ物扱いされてたのよ。だから私はほとんど遠方の診療所で医師してたの。大学病院でまともに働けるようになったのだって、お父さんが逮捕されてからからなの」
母さんは溜息まじりに昔の事を語る。
◆◆◆
――18年前――
「……今何て言ったの?」
「だから、洋子さんに月子と優一の面倒を見させる」
「嫌よ! 何で!?」
「君は優一を可愛がってばかりで月子に冷たくしてるじゃないか」
「何でそんなに洋子とか言う女と月子の肩ばかり持つのよ! 私が愛情持って月子を育てるなんて無理よ!」
「洋子さんは僕の理想の女性なんだ。洋子さんに比べて君は家事も育児も料理も中途半端。君が洋子さんより優れてるといえば……頑固で石頭なところだけ」
だったら、私と離婚して洋子とかいう女と再婚すればいいのに……
「アナタがそう言うのであれば……離婚します! 私は優一を連れてこの家を出て行きます! アナタは洋子とか言う女と月子と三人で暮らせばいいじゃない!」
「それは困る。君は医師として優秀だからね。生活費や子供の教育費は稼いでもらわないと。だから僕の妻は君だけだよ。でも、愛してるのは洋子さんと月子だ」
「何言ってるの? アナタ、頭おかしいんじゃないの!?」
「僕は正常だよ。優一を連れて離婚したところで……君、どうやって生きていくつもりなんだい?」
そう……私はつい最近、両親を亡くしたばかり。頼れる人はほとんどいない。
「それに僕に逆らって――君が医師として復帰できると思うなよ。僕は君を陥れる事くらい容易い事だからね」
この時、父さんは知名度と権力をある程度持っていた。以前発表した論文が海外で認められたからだ。職を選ばなければ、仕事はいくらでもあるのはわかっていたが、今更医師以外の仕事ができるか……不安だった。私は何もできない自分が悔しくて仕方がなかった。
――15年前――
「ただいま」
2週間ぶりに家に戻った私は、家の玄関を開けた。
家にいるのが耐えられないから、遠方の診療所で寝泊まりをしていた。
「お帰りなさい。お母さん」
家に戻ると、月子と優一が私を出迎えた。優一は無言で私を睨んでいる。家に戻らない母親の私を疎ましく思ってるのかもしれない。子供たちの後ろには、洋子が穏やかな笑顔で立っていた。
「……」
居心地の悪さに私は耐えられず、すぐに家を出た。
◆◆◆
「ゆうちゃん。洋子さんの事をどう思ってた?」
「俺たちの面倒をよく見てくれるし、家事も料理も完璧で優しい、理想的な母親だと……」
「私は洋子さんと違って家事も料理も苦手よ。洋子さんは家の事、完璧にしてくれていたわ。子供たちの面倒もよく見てくれて……子供たちにとっては優しい人なのかもね。でもね、家庭を壊したのは……お父さんと洋子さんよ」
母さんの目は冷たく、悲しさに満ち溢れていた。母さんの言葉は俺の心を深くえぐった。
俺は洋子さんの事、優しい人だと思っていた。
本当に優しい人であれば、母さんをこんなに悲しませるような事をするのだろうか。
「月子には申し訳なく思ってるわ。あのね、実は月子が亡くなる直前……あの子と2人で約束した事があるのよ」
母さんはまた過去の事を語った。
◆◆◆
――12年前――
月子が亡くなる数日前。家に戻った私は自分の部屋のベッドで仮眠を取っていた。
「お母さん」
私の部屋に入ってきたのは月子だった。
「何か用? 毎晩遊びまわるなって説教でもしにきた? 娼婦の娘からそんな事言われるのは心外だけど」
月子の呼びかけに目覚めた私は、棘の言葉を月子にぶつけた。
「お母さん。優一と話し合ってくれませんか?」
「ゆうちゃんと? 今更何を話すのよ。誰のせいでゆうちゃんが私から離れたと思ってんの?」
私は月子に八つ当たりしてしまった。だけど、月子はめげずに私に向かって土下座をした。
「何よ、何のつもり?」
「優一が一番必要としてるのは、私の母でも私でもありません。お母さんです。お願いです。優一と話してくれませんか?」
私は月子のお願いに心が揺らいだ。この子、私をお母さんと……自分の母をあの人と……
「私、知ってます。お母さんは優一のために必死で働いている事を……このままお母さんが誤解されたままなのは、優一にとっていい訳がないです」
「なら……アナタが優一に言えばいいじゃない」
「私からも何度か言いました。でもその後に私の母がお母さんの悪態優一に吹き込んでしまいます。そんな事が何回も続いて、今は私の話すら信じてくれません。だから、お母さんから直接言うのが一番いいんです」
私は月子の話を聞いて、心が締め付けられた。
「でも……一番懐いている月子の話も聞かないんじゃね。私の話なんて聞くかしら?」
「お母さん。これを受け取ってほしいです」
私は月子から一冊の本を受け取った。黒い表紙の本だった。私は中をめくるとそれは月子の日記だとわかった。それは、月子がいじめを受けている日々が綴られていた。そして、香澄ちゃんの事も書かれていた。ちなみに香澄ちゃんの事は洋子から話を聞いた程度だ。
「お母さん、私は今、罰を受けてます。お母さんの大切な家族を壊してしまった罰を」
……罰。罰を受けるべきなのはあの男と洋子よ。月子はただ、2人から生まれただけ。世の中って本当に理不尽。
「わかったわ。今度の休みの日にゆうちゃんと話してみるわ。今日は疲れてそんな気力がないわ……」
「良かった! ありがとうございます! お母さん!」
月子は明るく笑った。変な子。私は月子の本当の母じゃないのに……
「でも、本当にいいのかしら。洋子の方が面倒見いいし、家事も料理も完璧だし。私よりもよほど母らしいわよ」
「私の母は母としてダメです。いくつになっても女のままです。私はお母さんの方がよほどお母さんだと思います。この家から逃げずに優一のために奮闘している。私の本当のお母さんが優一のお母さんだったら……て思ってます」
月子は両親の容姿を受け継いでいるけれど、中身はあの2人と全然違う。一体誰に似たのかしら……
「私はお母さんのようになりたいです。強くてカッコいいお母さんに」
私のように? 母らしい事をせず、ほとんど家に帰らないのに……
……
それから数日後……月子は帰らぬ人になった。
……
「うわー! 姉ちゃーん!」
月子の葬儀の日。
優一は私ではなく、洋子の胸の中で泣き叫んでいた。洋子は忌々しい手で優一を抱きしめる。
「ううう。月子……優一くん、いつまでも泣いてはいけませんよ。お姉ちゃんの分まで強く生きるのですよ」
私はこんな時でも自分の息子を抱きしめる事もできない。あまりの虚しさに胸が押し潰された。
「まったく。下品な娼婦の娘がようやく死んでくれたわ。汚らわしい」
私は月子への追悼を心に秘めたまま、口では真逆の事を言ってしまった。
――
月子の葬儀が終わったあと、私は父さんと洋子と3人で話し合った。
「洋子さん。月子が亡くなった今、貴女はこの家には不要です。さっさと出て行ってください」
私は洋子を睨みながら、強く訴えた。
「そんな……それでは優一くんが可哀想です……」
洋子は泣き出した。泣きたいのはこっちなのに。
「こら! 洋子さんになんて言う事を言うんだ! 今まで月子と優一の面倒を見たり、家の事全てやってきたのは洋子さんだろう!」
この男……脳の手術してもらった方がいいんじゃないかしら。
揉めに揉めて、洋子はお父さん名義で借りたアパートで一人暮らしを始めた。お父さんは洋子が亡くなるまでそのアパートに入り浸るようになった。
……
お父さんと洋子との話し合いが終わったあと、私は香澄ちゃんの家を訪ねた。
香澄ちゃんは、月子の唯一無二の友人だ。月子へのいじめに加担して、香澄ちゃんは心を痛めているだろう。私は香澄ちゃんの家のポストに月子の日記を入れると、香澄ちゃんに会うことなく、そのまま立ち去った。
私は、香澄ちゃんと面識がなかった。今更私が優一の母親と言ったところで話がややこしくなると思った――いえ、それは言い訳だ。私は……ただのいくじなしだった。
――
しばらくした後、優一は完全に心を閉ざしてしまった。
たまに帰って話そうとしても、優一は私を拒否するようになった。
◆◆◆
「ゆうちゃんがお父さんの面倒を見てくれてたのね。ありがとう。母さん、今までどうしても外せない仕事があって、家になかなか戻れなかったの。でも、今は仕事が落ち着いて長期休暇をもらったわ。だから、これからは母さんが引き受けるわ」
「母さんは少し休んだ方が……」
「ゆうちゃんは学業に専念なさい。医師になりたいのでしょう? こんな事でゆうちゃんの人生を潰したくないわ。ゆうちゃんが自立するまで、母さんまだ頑張れるから」
「ゆうちゃん。今まで寂しい思いばかりさせてごめんなさい。でも、これだけは言わせて。母として、優一と月子を愛してるわ」
俺は姉さんが遺した言葉を思い出した。
『優一を愛する人がいつか現れるって。それまで生きることを諦めないでって』
姉さんは、母さんの気持ちを知っていた。俺の心に潜む闇が晴れていくようだった。




