第九十四話:私のお兄ちゃん 俺の妹<紅と薫>
遅れました……。生活リズムを変えないと、19時更新には戻れなさそうです。すいません
少女の形をした赤い獣が、狂った咆哮を上げる。
駆けてくる少年と、その背後に並んだ銃器構える白コート達へと向けられた、威嚇の声だ。
強化された喉から放たれた大音量の音波が建物の床や壁をビリビリと激しく揺らし、その肉厚の波動を浴びた者達は、まるで空間が音で歪んでいるかのような錯覚を覚えた。
平衡感覚を司る三半規管を打ち抜かれ、体勢を崩して地べたに転がる者もいた。
その音波を正面から受け止めた少年はしかし、一切の動揺を見せていない。
いや、その表現は適切ではなかったか。
威嚇咆哮の衝撃を聴覚遮断で受け流した彼の口元は緊張と恐怖に引き攣っており、額からは滝のような汗を流している。その表情だけを見るのであれば、いつ足を縺れさせ、転んだとしても不思議ではないように思えた。
けれども少年は、足を止めない。
愚直なまでにまっすぐに、ただ懸命に足を動かし、彼の大事な妹の下を目指し、破壊された白い廊下を駆け抜ける。
四足で地を這う紅の正面まであと少しといったところで、緊張に唇を引き結んだ薫の眼前に、廊下の床が急激な速度で跳ねあがってきた。
紅が廊下に空いた穴に前足をかけ、それを跳ね上げたのだと数万分の一秒に圧縮された視界の中で気づいた薫は走行ルートをわずか右寄りに微調整。同時に、床面の打撃を受け流すべく左手を前に突き出した。
薫の左手に装着された白手袋から紫電の閃光が迸り、爆弾を金属バットで打ち抜いたかのような爆裂音と共に床面から剥落したコンクリートが彼方へと吹き飛ばされる。
実質的に殆ど初めての実戦にあって、訓練通りの理想的な体捌きを見せつけた薫であったが、その表情に喜びや安堵が浮かぶことは無いままに、見開いた両目を自身の頭上に向けた。
床面の一撃を退けた彼を目がけ、獣の笑みを浮かべた紅が先に立っていた場所から跳躍し、空中から赤光に包まれた右手を伸ばして追撃を仕掛けてきたのである。
ASP謹製の試作戦闘用手袋を装着した両手で構えを取り、その片手を受け流そうとしたところで、薫の本能が警鐘を鳴らす。
その手に触れてはいけない――!
理性と計算を捨てて直感を信じ、身を不格好に屈ませることで紅の魔手を躱す。
縦に大きく薙いだ手を空振らせ、そのままの勢いで右腕から床に着地する紅。
そしてその右腕が――豆腐に木櫛でも刺したかのように抵抗なく、鉄筋コンクリート製の床面にサクリと突き刺さった。
「紅! 目を覚ませ!」
右手を突き刺したままの格好で突然ピタリと動きを止めた紅の背に向け、薫が叫ぶ。
妹の意識を――本来の優しい彼女を取り戻してやろうと、必死に訴えかける。
その声が聞こえたのか否か。
背を向ける紅の頭上に生えた二本の「耳」がピクンと跳ねた。
「お前なら、自力でそこから戻ってこれるはずだ! 俺が傍にいる! その『力』に飲み込まれるな!!」
「下がれ、薫! 今から拘束球を撃つ! お前の力はまた後で借りる。今は我々に任せて退避するんだ!」
無茶な回避で床を転がった後、慌てて立ち上がって紅の元まで駆け寄ろうとした薫の肩を、同僚の白コートが掴んで止めた。
指揮官の女性が即座に部下達に指示を出し、数十発の銃声が崩壊寸前の廊下に響き渡る。
たちまち、動きを止めた紅の全身を、幾十本ものリボンのような拘束具が絡めとる。
「よし。これで――っ! 何!?」
数トン単位の力さえゴムのような弾力性で吸収し、拘束対象を決して逃さないはずの拘束具が、ゆっくりと身を起こした紅の体から弾き飛ばされ、あるものはバラバラと地を転がり、またあるものは床に空いた穴の底へと落ちていった。
歓喜の感情を宿す赤く染まった二つの目が、ゆっくりと彼らASPの部隊の方を向く。
天敵の猛禽に目をつけられた鼠のような恐怖を覚え、かつてない危機感に、全身を震わせる隊員達。
けれど彼らの予想に反し、狂獣が彼らに飛びかかってくることはなかった。
次の瞬間、実に楽しげに唇を歪めた紅が、大きく振りかぶった拳で床面を打ち砕き、そこに生じた大穴に身を投げ出したのである。
「何!? 逃げた!? まずいぞ、今すぐこの建物の周囲を固めて塞げ! あいつをあの状態で野放しにしたら、一般人にも被害が及びかねん! ――おい薫! どこに行く!?」
「紅の向かったところまで! ついて来て下さい!」
「どうやってその位置を知るつもりだ! 今のあいつに天井や壁と言った概念は意味を成していない――おい、薫! ええい……そこの五人、あいつについていけ!」
紅の空けた大穴に飛び込み、階下に着地した薫は、焦る心の一方で冷静に頭を働かせ、紅が今、何をしようとしているかを考えていた。
「力」に目覚めた者が闘争を求め、それに酔いしれる存在となることは珍しいことではない。今回の場合、その原動力となっているのは恐らく――破壊や殺戮の衝動。
通常、そのパターンでこれほどまでに強大な力を目覚めさせるのは稀ではあるが、今回は「力の成り立ち」が異常だったため、そのイレギュラーによるものとも考えられる。
今、紅を駆り立てているものは何か。
純粋な殺戮衝動と破壊衝動であることは間違いない。
しかも、先ほど「取り逃がした指揮官」を再度狙う様子からして、獲物への執着もある程度存在するはず。
先ほど己たちに向けられた「笑み」も、”逃走前の嘲笑”でなく、”これからお前達を殺してやるぞ”という思いが込められたものだとしたら?
そして、先ほどの床面の一撃による”フェイント”は、今の紅に、獲物を追い詰めるための確かな知性がある証だ。
チマチマとした戦いで鬱憤が溜まった彼女が、その鬱憤を晴らすための”大破壊”でケリをつけようと考えたとすれば?
……この程度の想像から導き出した予想というだけであれば、それは根拠の薄いただの妄想だ。
けれどその相手が、例え今我を失っているとしても、薫の良く知る紅であるならば。
そしてその彼女が、たとえわずかでも薫のことを求める感情を残してくれているのだとすれば。
薫の想定した「紅の目的」は、100%以上の確率で、的中する。
「……見つけたぞ、紅」
「ギ……ギギィ……」
果たして、紅は”そこ”にいた。
動物的な”勘”――即ち、鋭敏な五感の情報から導き出した確度の高い推論を元に、その位置を割り出したのだろう。
紅は、自身とその獲物がいるビルの支柱を壊して回っている所だった。
あと数か所、彼女の手によって壁ごと支柱が粉砕されれば、このビルは大倒壊を引き起こし、多くの破壊と死が巻き起こされるだろう。そんな、危機一歩手前の状況だった。
薫は心臓をばくばくと鳴らしながらも、相手を安心させる笑顔を浮かべ、こつん、こつんと足音を鳴らし、近づいていく。
「6階か……。まあ、25階建てのこのビルを支柱から崩すには悪くない選択だが、この数字は紅、お前が選んだのか?」
6という数字は、彼ら兄妹二人にとって、とても意味のある、大切な数字だった。
昔、まだ二人が生まれた小村にいたころは、カレンダーで毎月、その数字のついた日を赤丸で囲っていたものだ。
「6という数字……6日。俺とお前、10カ月違いの、誕生日の日だな。……朝も言ったけど、誕生日おめでとう、紅。今日で10歳か。今夜のケーキに10本の蝋燭を立てる用意はできてるぞ? さすがにお城のようなケーキは用意してやれなかったけどな。母さんも今日は早く帰って来ると言っていた。……だから帰ろう、紅。もしお前が今、目が見えないのなら、俺が手を引いていってやる。耳が聞こえないなら、俺が傍にずっとついていてやる。歩けないなら、俺がおぶってやる。お前がもし、どれも一人でできるというのなら――、俺と一緒に並んで、家に帰ろう」
薫は確信していた。
今の紅が薫を薫としてその目に映していなくとも、体が破壊を求めて勝手に動くがままに任せる獣以下の化け物のような存在となっていても、
その中にはきっと、彼の知る紅がいるはずだと。
今は意思を表に出すことができずに、真っ暗な暗闇の中に囚われているのだとしても、手を差し伸べれば届くところに、いつもの優しい紅が存在するはずだと。
そう、確信していた。
立ち止まってこちらを振り返った紅の傍へと、薫が距離を詰めていく。
安全線はとうに過ぎた。
今、紅から攻撃を仕掛けられたら、回避は不可能。
それでも薫は笑みを崩さず、そっと右手を紅の頭に向けて伸ばした。怯える童のような仕草で紅が顎を引き、頭を垂れた。
死線を歩み越える。
心臓、頭、重要臓器。薫の「力」をもってしてもそこを貫かれれば一撃死を免れえない箇所を、無防備に晒す。
やがて、宙をさまよっていた薫の右手が、ようやく紅の頭に触れた。
そのままゆっくりと紅の背に手をやり、抱き寄せようとした薫。
しかし、今の紅の様態が慣性の法則を無視し、抱き寄せることが敵わない状態であることに気づき、苦笑をこぼす。
そのまま自身が屈み、下から抱え上げてやろと顔を上にあげたところで、真下を向きながらも爛々と目を輝かせる紅と目があった。
鮮血が散った。薫の口から、痛みを訴える小さな悲鳴がもれる。
兄の肩口に歯を喰いこませた紅はしかし――、そこで動きを止めた。
その体から赤い光が失われていき、やがて空気に溶け込むようにして完全に消えさった。前髪に隠れた紅の両目から、涙がこぼれる。
「お兄ちゃん、痛い?」
「ああ、痛いよ」
「そっか。……私、今ね。凄く嬉しいの。これ以上ないってくらい、凄く気分が良くて、高揚してて……ねえ、お兄ちゃん。何で私はこんな体になっちゃったのかなあ? 何で、ものを壊して、人を傷つけて、それを喜ぶような体に、そんな嫌な子に、なっちゃったのかなあ?」
「……少なくとも、お前の責任じゃない。全て、その力が悪いんだ」
「違うよ。私には分かるもん。この喜びはきっと私の本当の気持ち。壊したいって願ったのも、たぶん私がそんな力を望んだから。だからこれは全部……この結果は全部、私がそう望んだから、こうなったの」
紅は、”自分”が先ほどまで何をやってきたか――どれだけ人を殺し、ものを破壊し、それを楽しんでいたかを、全て鮮明に覚えていた。
その内容を反芻し、自分の内側から沸き上がってきたのは、紛れもない歓喜の気持ち。
兄の体に縋りつき、体を震えさせている今も、体の奥底から沸き上がる破壊と殺戮への欲求と、そこから感じられるであろう麻薬のような快楽を思い、頬を火照らせ、息を荒くしていた。
その事実に対する悲しみの涙を流しつつも、決して否定しようのない、歪んだ快楽を求める衝動が自身の中に根づいていることを感じていたのだ。
薫は、そんな妹の頭を、せめて今だけは安心の気持ちだけで満たされて欲しいという願いと共に優しく撫で、言葉を返す。
「それでもお前はきっと、『力』を持たなければそうはならなかった。この『力』は呪いだ。得た者の衝動を、感情を、増幅することで、行動原理を書き換える。本当のお前なら、絶対にそんなことはしようとしなかったはずだ」
「本当の私って何? 今の私は私じゃないの? この――屍の山の上で笑って、悦んでいる私は、一体何なの?」
叫ぶように、嘆くように。
紅が薫に訴えかける。
ぶんぶんと大きく首を振りながら疑問の言葉を上げる。
泣き笑いと共に放たれたその声はすっかり掠れきっており、紅の現在の精神の不安定さを雄弁に物語っていた。
「本当のお前は、俺が良く知っているお前のことだ。ちょっぴりいい加減で、ガサツなところがあって、でも、自分のことより先に俺や友達のために行動できる、そんな優しい紅だ」
「私、分からないよ。自分ってものがなんなのか、全然分からない!」
昨日までは想像もしなかった世界――死体と瓦礫の山の傍に自分がいるという状況。
その光景を作り上げたのが自分だという事実。
そして、その景色を楽しみ、誰よりもこの場に居たいと考えているのが自分だということ。
今日10歳を迎えたばかりの紅という少女にとって、それらは一人で抱え込むには、あまりに大きすぎ、重すぎるものだった。
だから薫は、そんな紅に手を差し伸べる。その重荷を、全て預かってやれずとも、せめて一部だけでも、自分が背負ってやれれば良いと、そう考えて。
「お前が分からなくなったら、俺が何度でも教えてやる。俺は、お前の一番の味方だ。ずっと傍にいることはできないかもしれないけれど、俺の居る場所が例え、地球の反対側だったしても、月だったとしても、全く別の世界だったとしても、俺はお前の兄であり続ける。兄妹の絆は誰にも切ることはできない。だから……俺は永遠にずっと、お前の味方だ」
「お兄ちゃんは、私の味方……?」
「そうだ。お前の一番の味方が、ずっと本当のお前を覚え続けているんだ。俺がお前を、お前の生きるべき道から踏み外させやしない。お前を、絶対に一人にさせたりはしない。信じてくれ、俺のことを」
「……うん。信じる。信じるよぉ……ぐすっ。うぁぁぁぁぁん!」
紅は、この世界で一番安心できる相手の胸に顔を埋め、声の限りに泣いた。
背を撫で、あやし続けてくれる兄の体温に包まれ、先ほどまでの歪んだ悦楽とは違った種類の満足感と安堵の気持ちが胸に湧き上がってくるのを感じながら。
泣き疲れた紅が意識を失い、寝息を漏らし始めるまで、幼い少女の鳴き声の独奏は続いた。
やがて、気を失った紅を抱きしめる薫の肩に、そっと手が置かれた。
体力を使い果たし、憔悴した紅を抱え、薫とその同輩達は、非合法能力者組織のビルを出る。
完全に救いきることができなかった紅に対し、謝罪の言葉をかけながら涙を流す薫の姿を、仲間の白コートたちは黙って見守っていた。
結局、紅が薫や母親と一緒に自身の誕生日を祝う事は、出来なかった




