第7話 迷宮で本気で迷ったら、 足元に道が開けた?
はじめまして。
数ある作品の中から、 この物語を開いてくださって、 ありがとうございます。
こちらはゆっくり投稿していくので、読者の皆さまも肩の力を抜いて、
ゆっくりででもついてきていただけたら嬉しいです。
ブックマークや評価、 感想が、 何よりの励みになります。
翌朝、 僕たちは王都に戻った。
今日も、 早く着いた。
……いや、 着いたのではない。
馬車が時間通りに着いただけだ。
けれど、 この世界に来て三日目にして、 僕はようやく、 「遅刻しない」感覚を覚えつつあった。
訓練迷宮は、 王城の地下にあった。
重い石の扉の前で、 王宮魔術師長のオズワルドが、 腕を組んで待っていた。
「来たか。 荷物持ち」
「おはようございます」
「今日の訓練は、 新人冒険者が最初に受ける『迷路の試し』だ。
壁が動く。 通路が変わる。 三十分以内に、 出口まで辿り着けばよい」
「壁が、 動く……」
「理論上、 地図は役に立たん設計だ」
オズワルドは、 ちらりと僕を見た。
「そなたの描く地図が、 どこまで通用するか。 見せてもらおう」
……試されている。
三日間の試験の、 最終日だ。
僕は、 手帳を握りしめた。
迷宮の内部は、 ひんやりとして、 湿っていた。
石の壁。
床には、 魔法の光が、 淡く道を示している。
僕は先頭に立った。
手帳に、 絵を描き込みながら歩く。
松明の位置。 壁の苔の形。 床の傷。
最初の十分は、 順調だった。
「おじさん、 意外とやるじゃない」
「ありがとうございます」
「べ、 別に、 褒めてないし」
「……荷物持ち。 その調子だ」
ドルガンの低い声が、 背中を押す。
ヒカルくんが、 後ろから明るく言った。
「アサノさん、 マジで頼りになるっす!」
……嬉しい。
背筋が、 伸びる。
けれど、 その瞬間だった。
ゴゴゴゴ、 と、 地鳴りのような音が響いた。
「……壁が」
ドルガンが、 低く言った。
目の前の石壁が、 ゆっくりと、 横にスライドしていく。
背後の通路が、 塞がれる。
床が、 小さく震えた。
「うわっ! みんな、 離れないで!」
ヒカルくんが叫んだ、 次の瞬間。
足元の床が、 二つに割れた。
僕と、 他の三人の間に、 石の壁が、 ずんと落ちてきた。
「アサノさん!」
「おじさん!」
「……荷物持ち!」
声が、 壁の向こうに遠ざかっていく。
そして、 静寂。
僕は一人、 暗い通路に取り残された。
……分断された。
深呼吸をして、 手帳を開く。
地図を、 見る。
けれど。
描いたはずの通路は、 もう、 そこにはなかった。
壁が動いたのだ。
来た道が、 消えている。
絵の目印が、 全て、 意味を失っていた。
「……ヒカルくん! ドルガンさん! ミーネさん!」
叫んだ。
返事は、 ない。
声が、 石の壁に吸い込まれていく。
歩き出す。
右。 左。 行き止まり。 戻る。 また別の道。
石の壁が、 音もなく動くたびに、 通路の形が変わる。
三回目の行き止まりで、 僕は立ち止まった。
息が荒い。
心臓が、 うるさい。
……ああ、 これだ。
この感覚を、 僕は知っている。
誰も、 僕がここにいることを知らない。
誰も、 迎えに来ない。
迷子になったら、 その場を動くな。
誰かが迎えに来る。
……来なかった。
今まで、 一度も。
僕は石の壁に背を預けて、 ずるずると座り込んだ。
「……また、 迷った」
声が、 震えていた。
そのときだった。
首元で、 さらり、 と音がした。
見下ろすと、 砂時計の上のガラスから、 砂が、 静かに流れ落ち始めていた。
さらさら。
さらさら。
足元の石畳に、 淡い青白い光が走る。
線が円を描き、 円の中に、 見たこともない文字が一つ、 また一つ、 浮かび上がっていく。
あの夜と、 同じだった。
召喚された、 あの夜と。
オズワルドの声が、 頭の中でよみがえる。
——『迷いし者の足元に、 道は開く』
「……発動、 した」
僕は立ち上がることもできず、 ただ、 その光を見つめていた。
光の円が、 一気に広がる。
足元の床が、 消える。
身体が、 ふわりと浮いた。
そして、 僕は、 落ちていった。
◇
光の中を、 落ちる。
いや、 光ではなかった。
歯車だった。
無数の巨大な歯車が、 ゆっくりと噛み合いながら、 闇の中で回っている。
その間を、 砂が、 滝のように流れ落ちていく。
金色の、 細かい砂。
僕の身体は、 その砂の流れに乗って、 ゆっくりと、 ゆっくりと、 下へ下へと降りていた。
怖くは、 なかった。
むしろ、 不思議なほど静かだった。
巨大な砂時計の中を、 落ちていくみたいだった。
やがて、 足の裏に、 柔らかい土の感触が触れた。
光が、 ふっと消える。
顔を上げると、 夕焼けの空が広がっていた。
橙色に染まった、 広い空。
足元には、 麦畑。
風に揺れる穂の海。
遠くに、 藁葺き屋根の家々が見える。
小さな、 ありふれた村だった。
……ここは、 どこだろう。
地図にも、 絵にも、 描いたことのない場所。
首元の砂時計を見る。
上のガラスに、 砂が、 たっぷりと満ちていた。
それが、 さらさらと、 流れ落ちている。
三分。
ここ数日、 何度も聞いた数字。
カップ麺ができる時間。
お茶を一杯、 飲む時間。
僕に与えられた、 この世界での、 唯一の時間かもしれない。
「……誰か、 いませんか」
声を出してみる。
風の音だけが、 返ってくる。
そのとき。
麦畑の向こうから、 小さな泣き声が聞こえた。
しゃくり上げるような、 細い声。
僕は、 走った。
畑の畝の間を抜けて、 声のする方へ。
石造りの井戸のそばに、 小さな女の子が座り込んでいた。
五、 六歳くらいだろうか。
髪を二つに結んで、 擦り切れた赤い頭巾をかぶっている。
膝を抱えて、 顔を伏せて、 肩を震わせていた。
「……どうしたの」
僕は、 しゃがんで、 声をかけた。
聞く。
迷ったら、 聞く。
それは、 道を聞くときだけじゃなく。
人の話を聞くときも、 同じなのだと思った。
女の子が、 顔を上げた。
涙で濡れた、 大きな目。
鼻の頭が、 真っ赤になっている。
「……お母さんが、 いないの」
「お母さんが」
「みんな、 どこかに行っちゃった。 あたし、 お家が分かんなくなっちゃった」
……この子も迷子だ。
僕は、 少しだけ、 笑ってしまった。
「そっか。 ……僕もね、 迷子なんだ」
「おじさんも?」
「うん。 しかも、 大人なのに」
女の子は、 きょとんとして、 それから、 ほんの少しだけ笑った。
その笑顔を見て、 胸が、 じんわりと温かくなった。
けれど、 すぐに。
空気が、 変わった。
遠くから、 低い、 獣の遠吠えが聞こえた。
オオオオオン、 と。
地を這うような、 長い声。
夕焼けの空の下、 麦畑の向こうで、 黒い影が、 いくつも蠢いていた。
狼のような、 でも、 もっと大きな。
風に乗って、 焦げた匂いが漂ってくる。
村の方から、 誰かの叫び声が聞こえた。
「魔物が来たぞ! 子供たちを集めろ! 守れ!」
……襲撃だ。
この村は、 今、 魔物に襲われようとしている。
女の子が、 ひっと息を呑んだ。
「お母さん、 あっちに行っちゃったの!」
女の子が、 立ち上がった。
小さな指が、 麦畑の奥を指している。
影が蠢いている、 暗い方向を。
「あっち! お母さん、 あっちに!」
女の子が、 走り出そうとする。
「待って!」
僕は、 その細い腕を掴んだ。
首元の砂時計が、 目の端に映る。
上のガラスの砂が、 もう半分を切っていた。
……足りない。
三分は、 カップ麺の時間だ。
けれど、 一人の子供の運命を変えるには。
僕に、 何ができる?
不思議と、 分かった。
できるのは、 たった一度だけだと。
僕の力は、 戦えない。
魔物を倒すことも、 この子を抱えて走り切ることも、 できない。
僕にできるのは。
たった一つ。
僕が、 今まで、 一度もできなかったこと。
「いいかい」
僕は、 女の子の目を、 まっすぐに見た。
「迷子になったら、 動いちゃいけない。 その場に、 立ち止まる」
「でも、 お母さんが」
「お母さんを、 探しに行くんじゃない。 呼ぶんだ。 大きな声で、 力いっぱい。
君が、 ここにいるよって」
「…………」
「迷ったら、 呼べばいい。 呼べば、 必ず、 誰かが迎えに来てくれる。 僕は、 呼べなかったけど」
……僕は、 呼べなかった。
二十八年間、 一度も。
だから、 せめて。
「君は、 呼んで」
女の子は、 唇を、 ぎゅっと噛んだ。
涙が、 ぽろりとこぼれた。
それから、 大きく息を吸い込んで。
「おかあさーーーーんっ!!」
声が、 夕焼けの空に響き渡った。
小さな身体の、 全部を使った叫び。
「おかあさん! ルル、 ここだよ! ルル、 ここにいるよーっ!」
数秒の、 沈黙。
そして。
「——ルル!!」
遠く、 村の家並みの向こうから、 女の人の声が返ってきた。
必死に張り上げた声。
「ルル! ルルなの!? そこにいなさい、 動いちゃだめ!」
家の角から、 一人の女性が、 髪を振り乱して走り出てきた。
ルルと呼ばれた女の子は、 その胸に、 一直線に飛び込んだ。
「お母さん!」
「ルル! ああ、 よかった、 どこに行ってたの!」
母親は、 娘を強く抱きしめて、 それから、 僕を見た。
「あなたは……」
「早く、 逃げてください。 魔物が来ます」
母親は、 一瞬、 僕と、 麦畑の影を見比べた。
それから、 頷いた。
「ありがとう。 ……ありがとうございます!」
母親は、 娘を抱き上げて、 家並みの方へ走り出した。
その腕の中で、 女の子が、 僕の方を振り返った。
「おじさん! ありがとう!」
涙で濡れた顔で、 大きく手を振っている。
「ありがとう、 おじさーん!」
僕も、 手を振り返した。
その手が、 少しだけ、 震えていた。
そのとき、 足元で、 砂の落ちる音が止んだ。
砂時計の上のガラスが、 空っぽになっていた。
視界が、 ぐらりと揺れる。
足元から、 光の砂が、 渦を巻いて立ちのぼる。
あの子は、 無事に逃げられただろうか。
あの村は、 どうなるのだろうか。
それを知る前に。
僕の身体は、 光の中へ、 引き戻されていった。
◇
気がつくと、 僕は、 石の床に仰向けに倒れていた。
冷たい。
硬い。
……戻ってきた。
迷宮の、 薄暗い通路。
さっきまでの夕焼けも、 麦畑も、 風の匂いも、 なくなっていた。
身体を起こそうとして、 僕は、 ふと動きを止めた。
……何かを、 見ていた。
とても、 大切な、 何かを。
小さな女の子が、 泣いていて。
それから、 僕は、 何かを言って。
それで、 その子が、 大きな声で——
「アサノさん!!」
壁の向こうから、 ヒカルくんの声がした。
ガコン、 と石の壁が横にスライドして、 三人が転がり込んできた。
「いた! アサノさん、 いた!」
「……荷物持ち!」
「おじさん!!」
ミーネが、 僕に飛びついてきた。
……飛びついて、 きた?
「バッカじゃないの! いなくなって、 どこ行ってたのよ! 十分近くも、 いなかったし! あたし、 あたし……!」
ミーネの目は、 真っ赤だった。
大きな翠色の目に、 涙がたまっている。
「べ、 別に、 心配して泣いてたわけじゃ、 ないし! 目に、 ゴミが入っただけだし!」
「ご、 ごめんなさい。 ご心配を」
「だから、 心配してないって言ってるし!」
ミーネは、 ぐしぐしと腕で目をこすった。
「……五分五十秒だ」
ドルガンが、 低く言った。
「……消えて、 五分五十秒。 ……何があった」
僕は、 口を開いた。
「僕、 たぶん、 転移したんです。 どこかの村に『迷子』に」
「村?」
「麦畑があって、 夕焼けで。 小さな女の子が、 迷子で、 泣いていて」
言いながら、 僕は戸惑っていた。
景色が。
さっきまで、 あれほど鮮やかだったはずの景色が、 口にした端から、 色褪せていく。
「女の子は、 髪を、 二つに結んでいて。
……色は、 何色だったかな。 頭巾は、 赤い、 いや、 茶色い、 あれ」
「アサノさん?」
「名前を、 呼んでいたんです。 お母さんが。 ル、 ル……何だっけ。 ルから始まる、 短い名前で」
思い出そうとするたびに、 輪郭が、 溶けていく。
まるで、 目覚めたあとの、 夢のように。
賢者の声が、 頭の中で響いた。
——跳んだ先で見たことは、 戻ると薄れていく。
夢の中身が、 目覚めると溶けていくようにな。
僕は、 慌てて手帳を開いた。
万年筆を走らせる。
【どこへ行ったか】どこかの村。 麦畑。 夕焼け。
【誰がいたか】小さな女の子。 迷子。 母親が来た。
【何をしたか】
……手が、 止まる。
何を、 した?
何かを、 言った。
とても大切な、 何かを。
目を閉じる。
暗闇の中で、 かすかに、 声が残っていた。
「迷ったら、 動かないで。 大きな声で、 呼ぶんだ」
……そうだ。
それだけは、 覚えている。
僕が、 二十八年間、 一度もできなかったこと。
【何をしたか】迷ったら、 その場にいて、 大きな声で呼ぶように言った。
書き終えて、 顔を上げる。
三人が、 じっと僕を見ていた。
その中で、 ミーネだけが。
ほんの一瞬、 息を止めたように見えた。
目が合うと、 ぷいっと顔を背ける。
……気のせい、 だろうか。
「……転移、 か」
ドルガンが、 低く呟いた。
「……記録の通りだ。 三分で戻され、 行き先は選べない」
「……はい」
「……戻りが、 遅れた」
「それは、 たぶん『遅刻』です」
僕は、 苦笑した。
「転移しても、 遅刻するみたいで」
ヒカルくんが、 ぶはっと吹き出した。
「アサノさん、 異世界の、しかもスキルででも遅刻って!」
「笑い事じゃないんですが」
「でも、 めっちゃ、 アサノさんらしいっす!」
ヒカルくんは、 涙を浮かべて笑っている。
ミーネも、 ふん、 と鼻を鳴らした。
けれど、 その口の端が、 少しだけ震えていた。
「……荷物持ち」
ドルガンが、 僕の前にしゃがんだ。
大きな手が、 僕の肩に、 ぽん、 と置かれた。
「……生きていた。 それでいい」
「……はい」
「試験は、 合格だ」
「え?」
「……荷物持ち兼、 地図係。 異論は」
「ないっす!」
ヒカルくんが、 即答した。
「……ないし」
ミーネが、 小さく言った。
「……別に、 いてもいいし」
……いてもいい。
その言葉が、 胸の奥に、 静かに落ちた。
二十八年間、 一度も、 言われたことのない言葉だった。
◇
その夜。
客室で、 僕は手記帳を開いた。
今日の記録を、 最初から、 丁寧に書いていく。
訓練迷宮。 壁が動いたこと。 分断されたこと。 一人になったこと。
そして、 初めての《迷子》。
歯車の回廊。 砂の滝。 夕焼けの村。
……そこまでは、 書ける。
けれど、 その先は、 すでに霞がかかっていた。
小さな女の子がいたこと。 泣いていたこと。
母親が来たこと。
手帳に書いた数行だけが、 僕の記憶の、 全てだった。
それでも、 賢者の言葉は本当だった。
書かなければ、 僕は今日のことを、 きっと何も思い出せなかった。
記録だけが、 僕の代わりに覚えていてくれる。
「……賢者さんに、 連絡しないと」
報連相。
明日、 報告に行こう。
それから、 一つだけ、 書き足した。
【所感】
あの子が、 どうか、 無事でいますように。
名前も、 顔も、 もうはっきりとは思い出せない、 あの子が。
けれど、 あの大きな声だけは、 耳の奥に残っている。
僕の声じゃない。
あの子の、 精一杯の声。
迷ったら、 呼ぶ。
それを、 僕は、 あの子から教わった気がした。
首元の砂時計に、 目をやる。
上のガラスは、 空っぽだった。
砂は、 全部、 下に落ちている。
明日の朝まで、 もう動かない。
不思議と、 それが分かった。
窓の外では、 北の空だけが、 今夜も黒い。
けれど、 その黒の中に、 小さな星が、 一つだけ瞬いていた。




