第4話 人生で初めて道を聞いてみた
はじめまして。
数ある作品の中から、 この物語を開いてくださって、 ありがとうございます。
こちらはゆっくり投稿していくので、読者の皆さまも肩の力を抜いて、
ゆっくりででもついてきていただけたら嬉しいです。
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翌朝。
僕は、 日の出とともに目を覚ました。
目覚ましは、 ない。
それなのに、 自然と目が開いた。
人間、 切羽詰まると、 意外と早起きができるらしい。
今日の目標は、 ただ一つ。
遅刻しないこと。
手帳に、 大きく書いた。
【最優先】遅刻しない
……約束の時間は、 特にないのだけれど。
それでも、 だ。
ハンスに頼んで、 王立図書院までの道を教えてもらう。
「城の正門を出て、 まっすぐ下り、 大きな噴水を右。
時計塔の見える広場を左。 あとは、 白い大きな建物でございます」
「噴水を右、 広場を左、 ですね。 ……すみません、 もう一度」
三回、 復唱した。
手帳にも書いた。
紙の端には、 ハンスが簡単な地図を描いてくれた。
ありがたい。
ただ、 僕は地図の読み方が、 昔から壊滅的に下手なのだ。
北が上のはずが、 気づくと、 自分の向いている方向が上に見えてくる。
そして、 二十分後。
僕は、 城下町の真ん中で、 案の定、 迷っていた。
噴水は、 右に曲がった。
時計塔の広場も、 見つけた。
ここまでは、 よかった。
問題は、 そこから先で、 道が三本に分かれていたことだ。
どれが「左」なのか、 分からない。
「……聞け、 か」
昨日の賢者の声が、 耳によみがえる。
迷ったら、 聞け。
聞くのは、 恥ではない。
分かっている。
分かっているけれど。
広場の端に、 荷車を引いた恰幅のいい男性が、 野菜を並べていた。
日に焼けた、 気のよさそうな顔。
一番、 話しかけやすそうな人だ。
僕は、 深呼吸をした。
ゆっくりと、 荷車に近づく。
喉が、 カラカラに渇く。
手に、 汗がにじむ。
心臓がうるさい。
たかが、 道を聞くだけなのに。
「あ、 あの」
「ん? いらっしゃい。 トマトはどうだい」
「いえ、 あの、 野菜ではなく……すみません、 道を、 聞いても、 いいでしょうか」
言った。
言って、 しまった。
「おう、 道かい。 どこに行きたいんだい」
「王立図書院に、 行きたいのですが」
「ああ、 図書院なら、 そこの三本道の、 真ん中だ」
「真ん中……左では、 なく」
「左はパン屋だな。 右は鍛冶屋。 真ん中を、 まっすぐ行きな。 白くてでかい建物が見えてくる」
男性は、 あっさりと教えてくれた。
それだけだった。
笑われもしない。
不審がられもしない。
めんどうくさそうな顔すら、 しない。
「あ、 ありがとうございます!」
「いいってことよ。 兄ちゃん、 外から来たのかい」
「はい、 昨日」
「そりゃあ迷うわな。 ほれ、 トマト、 持っていきな。 道案内のお礼に、 食って行け」
「えっ、 それは僕が払うべきでは」
「ははっ、 変わった兄ちゃんだ」
僕は、 赤いトマトを一つ握って、 三本道の真ん中を歩き出した。
不思議だった。
聞けた。
聞いたら、 教えてくれた。
ただ、 それだけのことだった。
二十年以上、 僕が避け続けてきた、 たった、 それだけのことだった。
胸の奥が、 じんわりと温かくなる。
歩きながら、 手帳に書き足した。
【所感】人に道を聞けた。 トマトをもらった。 おいしい。
図書院の前に着いたとき、 僕は思わず立ち止まった。
時計塔の鐘が、 ちょうど朝の八時を告げている。
約束の時間は、 ない。
けれど、 この世界に来て初めて、 僕は余裕を持って、 目的地に着いていた。
◇
王立図書院は、 想像以上に大きかった。
白い石造りの、 巨大な建物。
正面の扉は、 人の背丈の三倍もある。
中に入ると、 吹き抜けの空間が、 天井まで続いていた。
壁という壁が、 本棚で埋め尽くされている。
梯子が何本も掛けられ、 古い紙とインクの匂いが、 空気に溶けていた。
塔の書斎に似た、 けれどもっとずっと大きな匂い。
受付には、 眼鏡をかけた中年の司書が座っていた。
「何かご用ですか」
「あの、 古い文書を読んでいる女性を、 探しているのですが」
「古い文書?」
司書は、 眉をひそめた。
「……ああ。 リエナのことですか」
その声に、 ほんの少しだけ、 温度の低いものが混じった。
「奥の、 写本室です。 ですが、 あまり期待なさらない方がいい。
あの子は、 その、 人と話すのが得意ではありませんから」
奥へ向かう途中、 書架の陰から、 別の司書たちの小声が聞こえた。
「また、 あの子に客?」
「珍しいわね。 解読官なのに、 誰とも話さないで」
「でも、 仕事は速いのよ。 話さないだけで」
「それが、 かえって気味が悪いって」
僕は足を止めかけて、 それから、 何も聞こえなかったふりをして歩いた。
評価されない側の人間の気配には、 敏感だ。
写本室は、 図書院の一番奥にあった。
天窓から、 朝の光が降り注ぐ、 小さな部屋。
壁際に積み上がった本の山。
机の上に散らばる、 羊皮紙とペン。
インクの染みだらけの、 古い作業台。
その中央に、 一人の女性が、 背を丸めて座っていた。
肩までの栗色の髪。
大きな眼鏡。
袖口には、 インクの汚れ。
ぶつぶつと何かを呟きながら、 羊皮紙の端に、 小さな文字を書き連ねている。
「……ミラ、 ラミ、 ミア……ううん、 これだと、 意味にならない……」
「あの」
「ひゃっ!」
彼女は、 椅子ごと跳ね上がった。
インク壺が倒れかけて、 慌てて両手で押さえる。
「あ、 あ、 あの、 すみませんっ、 すみません、 気づかなくて……」
「いえ、 こちらこそ、 突然。 驚かせてしまって」
二人で、 頭を下げ合った。
……この感じ、 知っている。
自分とは違う種類の人だけど、 同じ種類の「居場所のなさ」が、 ふわりと匂った。
「僕は、 浅野巡といいます。 迷いの塔の賢者さんに、 こちらを訪ねるように言われて」
「け、 賢者様に……?」
彼女の顔から、 すうっと血の気が引いた。
「な、 なんで、 わたしなんかに。 わ、 わたし、 ただの、 見習いに毛が生えた程度の、 解読官で……」
「古い文書を読む娘がいる、 と。 それだけ、 言われました」
「…………」
彼女は、 しばらく黙っていた。
それから、 とても小さな声で、 名乗った。
「リエナ・ファーレン、 と、 申します。 ……二十四、 です」
「リエナさん。 よろしくお願いします」
「は、 はい……」
顔を上げた彼女の目は、 まだ少し怯えていた。
けれど、 逃げては、 いなかった。
ここで、 僕は一つ、 失敗をした。
鞄から手帳を取り出した拍子に、 ページが開いてしまったのだ。
日本語の、 びっしりと書き込まれた一頁。
リエナさんの目が、 ぴたりと止まった。
「…………」
「あ、 すみません、 こんなものを」
「そ、 その、 文字は」
「え?」
「その文字は、 何ですかっ!」
さっきまでの怯えた声が、 嘘のようだった。
リエナさんは、 身を乗り出していた。
大きな目が、 きらきらと輝いている。
「見たことが、 ありません。 世界のどの国の文字とも違います。
画が、 丸い。 流れるような曲線と、 角張った記号が、 混ざっていて……
あっ、 これは文字ごとに用途が違うんでしょうか、
いえ、 それとも一つの文字が、 複数の音を持って、 あ、 あ、 すみません、 つい」
「い、 いえ。 これは、 日本語、 です。 僕の国の言葉で」
「にほん、 ご」
リエナさんは、 その言葉を、 大事そうに口の中で転がした。
「読んでも、 いいですか。 あ、 いえ、 読めないんですが、 見るだけ。 見るだけでも」
「どうぞ」
手帳を差し出すと、 リエナさんは、 両手で、 宝物でも受け取るように、 そっと持った。
指先が、 文字の上をなぞる。
「丸い文字は、 線が優しい。 こちらの角張ったものは、 意味を持っていそう……この、 四角い記号は、 なんて読むんですか」
「それは、 【持ち物】と読みます。 荷物、 持っているもの、 という意味で」
「【持ち物】……」
リエナさんは、 羊皮紙の端に、 その音を世界の文字で書き取った。
それから、 顔を上げて、 ふにゃりと笑った。
「……文字は、 嘘をつきません」
「え?」
「知らない文字ほど、 正直なんです。 読めないって、 はっきり言ってくれるから。 読めないものは、 読まれるのを、 待っているんです」
その言葉は、 不思議と、 心に残った。
読まれるのを、 待っている。
昨日の賢者の声が、 重なる。
——手記というものは、 書いたら、 誰かに読まれるものじゃ。
「あの、 リエナさんは、 どんな文書を読んでいるんですか」
僕が聞くと、 リエナさんは、 急に我に返ったように、 頬を赤らめた。
「あっ、 すみません、 わたし、 自分のことばかり……」
「いえ、 聞きたいです。 面白そうだったので」
「…………」
リエナさんは、 眼鏡を押し上げて、 少しだけ声を落とした。
「千年前の、 初代勇者様の、 旅の手記です」
「手記」
その単語に、 僕は小さく反応した。
「正確には、 初代勇者様のパーティが、 旅の途中で書き残した記録、 です。
王立図書院の禁書庫に、 原本が眠っています」
「禁書庫……」
「はい。 閲覧できるのは大司書長様だけで……わたしは、 目録を見たことがあるだけなんです」
リエナさんは、 羊皮紙の山の中から、 古い紙を一枚、 引き抜いた。
目録の写しらしい。
この世界の文字で、 びっしりと書かれている。
「ここに、 一行だけ、 変な注記があって。 『名もなき旅人が、 手記の続きを残した』」
「名もなき旅人」
「はい。 ……その続きの頁が、 誰にも読めないんです」
リエナさんの声が、 ほんの少しだけ、 熱を帯びた。
「世界のどの文字でもない。
何百人もの学者が、 何十年もかけて挑んで、 誰も、 一文字も解読できなかったそうです。
それで大司書長様は、 その頁を、 禁書庫の奥に封印してしまわれて」
「封印……どうして、 そこまで」
「分かりません。 ……ただ、 隠されると、 余計に読みたくなりますよね」
リエナさんは、 照れたように、 小さく笑った。
「だから、 わたしは、 毎日、 文字を並べ替えているんです。
知らない言葉に出会ったとき、 手が動くように。 ……これ、 癖で」
机の上の羊皮紙を見ると、 余白に、 いろんな音の連なりが、 びっしりと書き込まれていた。
ミラ、 ラミ。
ノア、 アノ、 ノーア。
どれも、 人の名前らしい。
「名前ですか」
「はい。 この世界では、 固有名詞は、 翻訳されずに音のまま残りますから。
並べ替えて遊ぶのに、 ちょうどいいんです。 ……あ、 あの、 失礼でなければ」
リエナさんは、 そっと上目遣いで僕を見た。
「アサノさんのお名前も、 並べ替えてみても、 いいですか」
「どうぞ」
「あ、 ありがとうございます。 アサノ、 メグル……ア、 サ、 ノ、 メ、 グ、 ル……」
リエナさんの指が、 羊皮紙の上で、 くるくると動く。
数十秒。
やがて彼女は、 しゅんと肩を落とした。
「……ならない、 ですね。 六音ですと、 意味のある言葉に、 なかなか」
「そうですか」
「あ、 でも、 賢者様のお名前も、 昔、 並べ替えてみたことがあって。
マグナス・アウレオ様。 あれも、 何にもなりませんでした」
リエナさんは、 そこで、 ふふ、 と笑った。
「賢者様のお名前は、 とっても綺麗な音なのに。 意味がないなんて。 ……ちょっと、 悔しかったです」
僕は、 曖昧に頷いた。
どうしてだろう。
胸の奥が、 かすかにざわついた。
……気のせいか。
きっと、 トマトの食べすぎだ。
「あの」
リエナさんが、 もじもじと、 指を絡めた。
「アサノさんは、 地図が、 苦手だと、 賢者様から……」
「え? 賢者さんから聞いたんですか」
「いえ、 その、 さっきここに来る途中で、 廊下の司書さんたちが、
『あの人、 図書院の前を二回通り過ぎてた』って」
見られていた。
「……お恥ずかしい」
「あ、 いえ! あの! わたし、 地図を描くのは、 得意なんです!」
リエナさんは、 真っ赤になりながら、 新しい羊皮紙を、 机の上に広げた。
「読めない地図は、 悪い地図、 ですから。 アサノさんに、 読める地図を、 描かせてください」
それから、 羽根ペンが、 紙の上を走った。
速かった。
城。
城下町。
噴水。
時計塔の広場。
三本道。
パン屋、 鍛冶屋、 図書院。
地図というより、 絵だった。
ただ、 地形も、 距離も、 目印も、 全部正しいことが、 素人の僕にも分かった。
しかも、 一つ一つの建物に、 小さな絵が添えてある。
パンの絵。
金槌の絵。
トマトの絵まで。
「トマト……」
「あ、 その、 荷車のおじさん、 いつもあの広場にいるので。 目印に」
「…………」
「へ、 変、 でしたか」
「いえ。 ……すごく、 分かりやすいです」
本心だった。
僕が今まで、 どんな地図を見ても迷ってきた理由が、 初めて分かった気がした。
地図が悪いのではなく、 僕が読めるように描かれていなかったのだ。
……いや、 それは言い訳かもしれないけれど。
「この地図、 いただいても」
「は、 はい。 どうぞ。 ……あの」
「はい」
「また、 来て、 くださいますか。 手記というものを見せていただいたり、 その、 日本語を教えていただいたり……」
リエナさんは、 そこまで言って、 慌てて手を振った。
「あ、 いえ、 お忙しいですよね、 勇者様のお連れの方ですもの!」
「荷物持ちですけどね」
「にもつもち……でも、 賢者様が、 わざわざ」
彼女は、 少しだけ言葉を探してから、 小さく言った。
「……賢者様が、 アサノさんを、 わたしに引き合わせてくださったのなら。 きっと、 意味があるんだと思います」
意味。
そうかもしれない。
あるいは、 ないかもしれない。
けれど。
「また、 来ます。 ……ええと、 連絡、 してから」
「れんらく」
「報連相です。 賢者さんに、 教わりました」
「ほう、 れん、 そう……」
リエナさんは、 またその言葉を、 大事そうに口の中で転がした。
それから、 ふにゃりと笑った。
「また、 新しい言葉を、 覚えました」
◇
夕方、 客室に戻ると、 隣の部屋の扉が、 勢いよく開いた。
「アサノさん! どこ行ってたんすか!」
ヒカルくんが、 目をきらきらさせて飛び出してくる。
鎧の下に着る練習用の革の胴着を身につけて、 少し汗の匂いがした。
「図書院に。 賢者さんに、 勧められて」
「へえ、 図書院! ……あ、 そうだ! アサノさん、 明日、 パーティの顔合わせっすよ!」
「パーティ?」
「宰相さんが、 俺の仲間を決めるって。 それで、 俺、 お願いしたんすよ。 アサノさんも、 一緒のパーティで、 って」
「え」
「荷物持ちでも、 パーティの一員、 っしょ?」
ヒカルくんは、 当たり前のことのように言った。
「だって、 アサノさん、 昨日、 俺に、 一人じゃないって思わせてくれたじゃないっすか。 だから」
僕は、 言葉に詰まった。
荷物持ちとして、 後ろに立たされていた昨日の自分が、 ふっと遠くなる。
「……ありがとう、 ございます」
「やめてくださいよ、 お礼とか! それより、 顔合わせの人たち、 ちょっと怖そうっす。 一人は、 すっげえ無口な、 ごついおっさんで、 もう一人は、 俺より年下の、 口の悪い女の子」
「口の悪い、 女の子」
「はい。 『勇者って、 想像よりずっと頼りなさそう』って言われました」
ヒカルくんは、 しょんぼりと肩を落とした。
「……正直、 ちょっと、 刺さったっす」
「それは、 刺さりますね」
「ですよね!?」
二人で顔を見合わせて、 笑った。
部屋に戻って、 一人になる。
机の上に、 リエナさんの地図を広げた。
トマトの絵が、 小さく添えられている。
それから、 革表紙の手記帳を開いた。
【所感】
人生で初めて、 人に道を聞けた。
聞いたら、 教えてくれた。 トマトまでもらった。
……二十八年かけて、 これだけのことに気づいた。
【所感】
リエナさんという人に会った。
人と話すのが苦手で、 でも、 文字の話になると、 すごく楽しそうに話す人。
僕の日本語を、 「読まれるのを待っている文字」と呼んでくれた。
……この手記も、 誰かに読まれるのだろうか。
そこまで書いて、 少し照れくさくなって、 手が止まった。
窓の外では、 夜の帳が降りていく。
北の空は、 今夜もやけに黒い。
首元の砂時計が、 かすかに光った気がした。
一粒だけ落ちた砂が、 下のガラスの底で、 小さくきらめいていた。




