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転移したのに遅刻⁉ 獲得したスキルは《迷子》 〜方向音痴、異世界でも迷います〜  作者: 有馬 茶


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第3話 迷いの塔の賢者は、 僕に「手記を書け」と言ったが。

はじめまして。

数ある作品の中から、 この物語を開いてくださって、 ありがとうございます。


こちらはゆっくり投稿していくので、読者の皆さまも肩の力を抜いて、

ゆっくりででもついてきていただけたら嬉しいです。

ブックマークや評価、 感想が、 何よりの励みになります。

 老婆の足は、 驚くほど速かった。

 小柄な背中が、 薄暗い回廊を、 迷いなく進んでいく。

 僕は、 その後ろを必死で追いかけた。

 何度も角を曲がった。

 階段を降り、 渡り廊下を抜け、 使用人用らしい狭い通路を通って、 いつの間にか、 城の裏口に出ていた。

 地図を描いておけばよかった。

 いや、 描いたところで、 どうせ迷子になるのだが。

「あの」

 僕は、 前を行く背中に声をかけた。

「お名前を、 うかがってもいいでしょうか」

「ばあや、 と」

 老婆は、 振り返らずに答えた。

「それだけで、 ございます」

「……ばあやさん。 あの、 旦那さまというのは」

「着けば、 お分かりになります」

 それきり、 老婆は口を閉ざした。

 無口な人だ。

 けれど、 不思議と、 居心地は悪くなかった。

 気づいたことが、 一つある。

 老婆は、 一度も振り返らない。

 それなのに、 僕が遅れると、 ほんの少しだけ歩みが緩む。

 僕が追いつくと、 また元の速さに戻る。


 ……合わせてくれているのだろうか。


 裏口を出ると、 夕暮れの風が吹きつけた。

 石畳の細い道が、 崖に沿ってゆるやかに登っていく。

 その先に、 あの塔がそびえていた。

 近くで見ると、 思っていたよりずっと高い。

 灰色の石を積み上げた、 細長い円柱。

 窓はところどころに小さく開いているだけで、 入口の扉は、 驚くほど質素な木製だった。

 扉の上に、 古びた板が掛かっている。

 この世界の文字で何か書いてあるが、 僕には読めない。

 話し言葉は通じても、 文字までは、 都合よくいかないらしい。

 天啓石のスキル名だけは、 なぜか読めたのに。

「迷いの塔、 でございます」

 老婆が、 僕の視線に気づいて言った。

「どうして、 そんな名前を」

「旦那さまが、 お付けになりました。 迷った者が、 辿り着けるように、 と」

 迷った者が、 辿り着けるように。

 僕は、 その言葉を、 胸の中で繰り返した。

 扉を開けると、 螺旋階段が、 上へ上へと延びていた。

 数えるのは、 百段で諦めた。

 二百段を超えたあたりで、 僕の膝は悲鳴を上げた。

「はぁ、 はぁ……ばあやさん、 いつも、 これを……」

「毎日、 三往復ほど」

 老婆は、 息一つ乱していなかった。

 ……強い。

 そして総務としての雑感が、 ふと浮かぶ。

 この塔、 搬入搬出の動線が最悪だ。

 重い荷物は、 どうやって運んでいるんだろう。

 最上階の扉の前で、 老婆は足を止めた。

 ノックを、 一つ。

「旦那さま。 お連れしました」

「……入れ」

 扉の向こうから、 低い声が返ってきた。

 年配の男の声だった。

 ひどく疲れていて、 けれど、 不思議とあたたかい。

 どこかで聞いたことがあるような気がした。

 ……また、 だ。

 昨日から、 この感覚は何度目だろう。

 疲れているのだ。

 きっと。


◇


 扉が開くと、 古い紙とインクの匂いが、 ふわりと鼻をくすぐった。

 円形の部屋だった。

 壁の三分の二が本棚で、 残りは窓。

 床にまで本が積み上がっていて、 足の踏み場を探すのに苦労する。

 部屋の中央、 夕陽の差し込む窓辺に、 大きな机があった。

 そこに、 一人の老人が、 背を向けて座っている。

 白髪のくせ毛が、 あちこちに跳ねていた。

 少し猫背で、 灰色のローブの肩が落ちている。

「失礼します。 あの、 浅野巡と申します」

「……ああ。 知っておる」

 老人は、 こちらを向かなかった。

 机の上の羊皮紙に、 羽根ペンで何かを書きつけている。

「少し、 待て。 署名だけ、 済ませてしまう」

 ペンの先が、 紙の上をさらさらと走る。

 僕は手持ち無沙汰で、 机の上をなんとなく眺めた。

 そして、 目を見張った。

 その文字は、 この世界のものではなかった。

 MAGNUS AUREO

 アルファベットだった。

 ローマ字の、 大文字。

 僕が毎日、 仕事で見慣れた、 あの文字。

「……え」

 思わず、 声が漏れた。

 老人の手が、 ぴたりと止まる。

「読めるのか」

「はい。 マグナス、 アウレオ。

 ……それ、 日本語じゃないですけど、 英語、 というか、 ラテン語、 でしょうか。

 あなたは、 もしかして」

「召喚された者か、 と聞きたいのだろう」

 老人は、 ゆっくりと振り返った。

 深い皺の刻まれた顔。

 白い髭。

 小さな丸眼鏡の奥で、 灰色がかった目が、 まっすぐに僕を見ている。

 ……どこか、 見覚えが。

 いや。 気のせいか。

「似たようなものでは、 ある」

 老人は、 そう言った。

「お前より、 ずっと前に、 この世界へ来た。 ……この文字は、 その名残じゃ。

 この国の者は、 誰も読めん。 賢者文字、 などと呼んで、 ありがたがっておるがな」

「……じゃあ、 僕と同じ、 召喚された方なんですね」

「さて」

 老人は、 曖昧に微笑んだ。

「まあそれより、 座れ。 立ち話をするには、 わしの足がもう持たん」

 促されて、 僕は積み上がった本の間に空いた椅子に腰を下ろした。

 老人が、 机の向こうから立ち上がる。

 その拍子に、 ローブの胸元から、 何かがこぼれ出た。

 ガラスの、 小さな砂時計。

 鎖で首から提げられて、 夕陽の中で、 淡く光っている。

 僕は、 息を呑んだ。

 首元に手をやる。

 僕の砂時計も、 そこにある。

 並べてみれば、 双子のように、 よく似ていた。

「あの、 それは」

「ああ、 これか」

 老人は、 砂時計を指でつまんで、 ローブの中に押し戻した。

「天啓の顕現物、 というやつじゃ。 お前のものと、 同じ種類のな」

「じゃあ、 あなたのスキルも」

「それは、 いずれの。 ……ばあや、 茶を」

「はい、 旦那さま」

 老婆が、 部屋の隅の小さな卓に向かった。

 話を逸らされた。

 けれど、 追及する気には、 なぜかなれなかった。

 ……この人は、 悪い人じゃない。

 根拠はない。

 ただ、 そう思った。

 湯気の立つ茶碗が、 僕の前に置かれた。

 緑がかった、 淡い色のお茶だった。

「ありがとうございます」

 一口すすって、 僕は目を瞬いた。

 ぬるめで、 少し渋い。

 しかし……僕が一番好きな、 温度と濃さだった。

 熱いお茶が苦手で、 いつも冷ましてから飲んでいる。

 渋めの方が好きだ。

 でも、 そんなことをこの世界の誰かに話した覚えはない。

「……おいしい、 です」

「それは、 よろしゅうございました」

 老婆の声が、 いつもより少しだけ、 柔らかかった。

 茶碗を置いたとき、 老婆の手が一瞬だけ止まったのが見えた。

 気のせいだろうか。

 偶然だ。

 そうに違いない。

 僕は、 そう自分に言い聞かせた。

「さて」

 老人が、 向かいの椅子に腰を下ろした。

「お前を呼んだのは、 他でもない。 ……いくつか、 言っておくことがある」

「はい」

 僕は反射的に、 手帳を取り出した。

 老人の目が、 その手元に、 ふっと止まる。

「……毎日、 書いておるのか」

「はい。 癖で。 総務の仕事柄、 記録を残さないと不安で」

「それは、 いい癖じゃ」

 老人は、 静かに言った。

 その声が、 ほんの少しだけ、 震えたように聞こえた。

「一つ目。 手記を書け」

「手記、 ですか」

「その手帳では足りん。 いずれ、 足りなくなる。 これを使え」

 老人は机の引き出しから、 革表紙の分厚い帳面を取り出して、 僕に差し出した。

 白紙の、 ずっしりと重い手記帳だった。

「毎晩、 書け。 どこへ行ったか、 何を見たか、 誰がいたか。 一つ残らず、 書け」

「……どうして、 ですか」

「お前の力は、 見たものを、 持ち帰らせてくれん」

 老人は、 僕の砂時計に目をやった。

「跳んだ先で見たことは、 戻ると薄れていく。 夢の中身が、 目覚めると溶けていくようにな。

 だから、 書け。 記録だけが、 お前の代わりに覚えていてくれる」

「……どうして、 そんなことを知っているんですか。 まだ、 一度も発動していないのに」

「年寄りは、 知っておるものじゃ」

 はぐらかされた。

 けれど、 その目は、 嘘をついているようには見えなかった。

 ただ、 何かを必死に飲み込んでいるように見えた。

「二つ目。 迷ったら、 聞け」

「……え」

「道に迷ったら、 人に聞け。 分からんことは、 分かる者に聞け。 聞くのは、 恥ではない」

「それが、 一番苦手で」

「知っておる」

「え?」

「顔に、 書いてある」

 老人は、 ふっと笑った。

 皺だらけの顔が、 少しだけ、 若く見えた。

「三つ目。 報連相は、 大事だぞ」

 僕は、 固まった。

 報連相。

 報告、 連絡、 相談。

 日本の会社で、 新人が最初に叩き込まれる、 あの言葉だ。

「どうして、 その言葉を」

「昔、 よく聞いたでな」

 老人は、 さらりと言った。

「お前の世界の言葉は、 わしにも馴染みがある。 ……そして、 四つ目」

 老人は、 少しだけ身を乗り出した。

「定時で、 帰れ」

「…………」

「仕事が終わったら、 帰れ。 誰が何と言おうと、 帰れ。

 お前は、 帰れる場所を、 持っておらねばならん」

 どうしてだろう。

 その言葉を聞いた瞬間、 胸の奥の、 一番古い場所が、 きゅっと痛んだ。

 帰れ。 定時で。

 そんなことを僕に言ってくれた人は、 今まで一人もいなかった。

「……努力、 します」

「うむ」

 老人は、 満足げに頷いた。

 それから、 ふと、 何かを言いかけた。

「それから、 わしは、 お前の——」

 唇が、 動いていた。

 けれど、 声が、 出ていなかった。

 老人の喉が、 ひくりと動く。

 口を開け、 閉じ、 もう一度、 開く。

 ……何も、 出ない。

 老人はしばらく黙って、 それから、 ゆっくりと首を振った。

「ふむ……あいにく年寄りは、 時々、 口が回らんでな」

「あの、 大丈夫ですか」

「大事ない。 ……気にするな」

 その声は、 どこか、 寂しげだった。

「そうじゃ。 一冊、 見せたい本があった」

 老人は立ち上がって、 部屋の奥の扉に向かった。

 扉の向こうに消えて、 一分。

 二分。

 三分ぐらい経ったころだろうか。

 今度は、 部屋の反対側の扉が、 ガタリと開いた。

「……おかしいのう。 書庫は、 こちらだったはずじゃが」

 老人が、 埃まみれで立っていた。

 手には、 箒を持っている。

「旦那さま」

 老婆が、 静かに言った。

「そちらは、 物置です」

「……そうだったか」

 老人は箒を持ったまま、 しばらく立ち尽くしていた。

 僕は、 笑いを堪えるのに必死だった。

「……方向音痴、 なんですか」

「うむ。 ……筋金入りでな」

「この塔で?」

「五十年は、 住んでおるが」

「五十年」

「毎日、 迷う」

「…………」

 堪えきれず、 僕は吹き出した。

 老人も、 髭の奥で、 くつくつと笑った。

 気づけば、 二人で笑っていた。

 老婆だけが、 すました顔で、 お茶を注ぎ足している。

「……笑ったのは、 久しぶりじゃ」

 老人は、 目尻を指でぬぐった。

 笑いすぎて、 涙が出たのだろう。

 たぶん、 それだけではなかったけれど。


◇


 日が、 完全に落ちた。

 塔の窓の外は、 群青色の夜空だった。

 北の空だけは、 星が見えない。

 墨を流したように、 黒い。

「そろそろ、 帰れ。 夜道は、 迷う」

「はい。 ……あの」

「うん」

「一つだけ、 聞いてもいいですか」

 聞くのは、 恥ではない。

 さっきの言葉が、 背中を押した。

「僕が来ることを、 予言していたと聞きました。 『光は二つ』と。 どうして、 分かったんですか」

 老人は、 少し考えてから、 答えた。

「予言、 などという大層なものではない。

 ……ただ、 二つ目の光は、 遅れて来る。 そういう光じゃった」

「遅れて……三分、 ですよね。 昨日、 そう言われました」

「うむ。 遅れて来る光じゃ」

 老人は、 窓の外を見た。

「遅れて悪いことは、 ない。 間に合えば、 よいのじゃ。

 ……間に合わせてやるのが、 わしの役目での」

 最後の一言は、 小さすぎて、 よく聞き取れなかった。

「え?」

「何でもない。 ……ばあや、 送ってやれ」

「はい」

 老婆が、 扉を開けた。

 僕は革表紙の手記帳を抱えて、 立ち上がる。

「あの、 また、 来てもいいですか」

「好きにせい。 ……ただし、 来るなら、 連絡はせよ」

「報連相、 ですね」

「うむ」

 老人は、 笑った。

 扉の前で、 振り返る。

「それから、 もう一つ」

「はい」

「明日、 王立図書院に行け。 古い文書を読む娘が、 おる」

「古い文書を、 読む娘?」

「お前の手記の、 最初の読者になる。 ……手記というものは、 書いたら、 誰かに読まれるものじゃ」

「……僕の、 手記を、 読む人」

 誰かに読んでもらうために、 何かを書いたことなんて、 なかった。

 僕の記録は、 いつも誰にも読まれず、 引き出しの奥に仕舞われるだけだった。

「それと」

 老人は、 最後に、 静かに言った。

「迷子になったら、 その場を動くな。 迎えが来る。 ……だが」

 皺だらけの目が、 まっすぐに僕を見た。

「動いてしまう者も、 おる。 そういう者には、 そういう者の、 道がある」

「…………」

「行け。 若いの」

 扉が、 閉じた。


◇


 客室に戻ったのは、 夜も更けた頃だった。

 老婆は、 客室の前まで、 一度も迷うことなく僕を導いてくれた。

 別れ際、 ほんの一瞬だけ、 僕の袖を、 そっと握った。

「……お気をつけて」

 それだけ言って、 老婆は闇の中に消えた。

 僕は、 机に向かった。

 重しにしていた暦書をどけると、 専務の原本は、 すっかり平らになっていた。

 ……よかった。

 それから、 革表紙の手記帳を、 机の上に置く。

 最初の頁を、 開く。

 真っ白な紙。

 万年筆の先を、 そっと置いた。

 何を書こう。

 少し考えて、 いつもの癖で、 見出しから書き始めた。

 【持ち物】

 そこまで書いて、 手が止まる。

 ……ああ、 そうだ。

 これは、 誰かに読んでもらうことになるのかもしれない。

 そう思うと、 不思議と、 書く手が軽くなった。


 【持ち物】手帳、 万年筆、 砂時計、 手記帳

 【集合時間】明朝、 王立図書院

 【所感】

 迷いの塔の賢者は、 変な人だった。

 方向音痴で、 お茶の好みが僕と同じで、 報連相を知っていて、 僕に「定時で帰れ」と言ってくれた。

 ……また、 来よう。


 首元の砂時計が、 ランプの光で、 小さく光っていた。

 一粒、 落ちたまま。

 まだスキルのことはよくわからない。

 しかし誰にも気づかれないまま、 静かに、その時は近づいていた。

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