第24話 ゆっくり喋る将軍の町
ノクスの宿場が見えたのは、 昼過ぎだった。
街道沿いの、 小さな町だ。
石造りの家が、 道の両側に、 ぎっしりと並んでいる。
けれど。
「……静かすぎるな」
ドルガンが、 低く言った。
人通りが、 ない。 煙も、 上がっていない。 鳥の声も、 しない。
町の入口に、 一本の、 白い線が引かれていた。
地面に、 淡い光で描かれた、 巨大な円の縁。
「……魔法陣、 ですね」
リエナさんが、 呟いた。
「町全体を、 囲んでいます」
「入ったら、 どうなるっすか」
「……分かりません。 でも」
ヒカルくんが、 一歩、 線の内側に、 足を踏み入れた。
「あれ」
「ヒカルくん?」
「なんか、 身体が……重いっす」
彼の動きが、 ゆっくりに、 なっていく。
一歩を踏み出すのに、 いつもの三倍の時間がかかっている。
「うお、 これ、 動画の、 スロー再生みたいっす」
声まで、 間延びして聞こえた。
「……遅延の、 魔法陣」
ドルガンが、 大剣を握った。
「……全員、 気を抜くな。 ここが、 第一楽章の、 舞台だ」
僕たちは、 恐る恐る、 円の内側へ、 入っていった。
世界が、 ゆっくりになった。
空気が、 水飴のように、 重い。
自分の足音が、 ずっと遅れて、 響いてくる。
町の中に、 人は、 いた。
道端に、 男が一人、 歩いている。
けれど、 その足は、 一歩を出すのに、 十秒近くかかっていた。
窓辺の女性が、 洗濯物を干している。 その腕が、 ゆうるりと、 空気の中を泳ぐ。
赤ん坊の泣き声が、 低く、 引き伸ばされて聞こえた。
「うあぁぁぁ……あぁぁ……」
「……みんな、 遅くなってるし」
ミーネの声が、 間延びしていた。
「この町の、 全員が」
「……行こう」
僕たちは、 町の中心へ向かった。
中央広場に着いたとき、 僕は、 息を呑んだ。
広場の真ん中に、 巨大な、 メトロノームが立っていた。
高さ、 六メートル。 ガラスと真鍮でできた、 古い時計のような、 美しい装置。
その、 長い振り子が、 ゆっくり、 ゆっくりと、 左右に、 揺れている。
カチ。 ……カチ。 ……カチ。
一拍ごとに、 地面の魔法陣が、 淡く、 脈打つ。
そして、 そのメトロノームの上。
広場に面した時計塔の、 バルコニーに、 一人の老紳士が、 立っていた。
燕尾服。 白い手袋。 手に、 細い指揮棒。
「……ようこそ、 おいでくださいました」
その声は、 いつもより、 さらに、 ゆっくりで、 優雅だった。
「夜想楽団、 指揮者の、 ラレンタでございます。 ……ご到着を、 お待ち申し上げておりました」
「ラレンタ!」
ヒカルくんが、 剣を構えようとした。
けれど、 その動作は、 まるで、 水中のように、 鈍い。
「……お急ぎには、 なりませんよう」
ラレンタは、 のんびりと、 微笑んだ。
「この町では、 すべてが、 三分の一の速さで、 流れておりますゆえ。 ……わたくしも、 例外では、 ございません」
「何のために、 こんなことを」
「ええ。 ……この町の方々に、 少しだけ、 休んで、 いただきたかったのでございます」
「休んで……?」
「人は、 慌ただしすぎます。 ……ゆっくり歩き、 ゆっくり食べ、 ゆっくり眠る。 そうして、 ゆっくり、 老いていく。 ……それが、 一番、 幸せでございましょう」
ラレンタは、 指揮棒を、 静かに、 持ち上げた。
「さて、 一曲、 お聴きください。 ……『遅延』を」
指揮棒が、 ゆっくりと、 振り下ろされた。
カチ。
メトロノームの振り子が、 大きく、 揺れた。
魔法陣が、 眩く脈打つ。
次の瞬間。
僕たちの周囲の空気が、 さらに、 重くなった。
世界が、 さらに、 ゆっくりに。
「うあああ……」
ヒカルくんの声が、 低く、 引き伸ばされた。
彼の動きが、 ほとんど、 止まりかけている。
「……ヒカル、 下がれ」
ドルガンが、 ゆっくりと、 大剣を地面に突き立てた。
「……動かん」
彼だけは、 変わらなかった。
もともと、 動かない力だ。
けれど、 その額には、 脂汗が浮かんでいる。
ラレンタの指揮棒が、 もう一度、 振られた。
一拍、 遅れて。
ずうううん、 と、 重い衝撃が、 ドルガンを襲った。
見えない、 巨大な拳に、 殴られたような。
「……っ!」
石畳が、 割れる。
ドルガンの足が、 地面に、 めり込んだ。
「……一拍、 遅れて、 来る」
彼が、 低く、 呻いた。
「……重いな」
「ほほ。 ゆっくり、 ゆっくりと、 圧し潰しますゆえ。 ……ご安心を。 痛みも、 ゆるやかに、 ございます」
……安心できるか。
ミーネが、 杖を掲げようとした。
けれど、 詠唱が、 間延びして、 一つ一つの言葉が、 ゆっくりと、 空に溶けていく。
「ほ、し、よ……ふ、れ……」
詠唱が、 終わらない。
リエナさんが、 羊皮紙に、 文字を書こうとする。
けれど、 ペンが、 紙の上を、 ゆうるりと、 這っている。
一画、 書くのに、 十秒。
「……間に合わない」
全員が、 動けなかった。
僕も、 同じだった。
手を動かそうとしても、 空気が、 重い。
足を踏み出そうとしても、 水の中のようだ。
声を出しても、 自分の声が、 遠く、 低く、 響く。
僕は、 焦って、 周囲を見回した。
町の人々は、 遅い時間の中で、 ぼんやりと、 暮らしている。
窓から、 こちらを見ている人がいる。
……助けを、 求めたいのだろうか。
けれど、 その口は、 開くのに、 十秒かかる。
僕は、 広場の隅の、 一軒の宿屋の方へ、 走り出した。
走っている、 つもりだった。
けれど、 足が、 全然、 進まない。
景色が、 ゆっくりと、 流れる。
音が、 ずれる。
右から、 聞こえたはずの声が、 左から、 遅れて、 響いてくる。
時間の感覚が、 溶けていく。
どちらが前で、 どちらが後ろか。
どの道を通って、 ここに来たのか。
……分からない。
……迷った。
その瞬間、 首元で、 さらり、 と音がした。
「……来た」
足元に、 青白い円が、 開いた。
◇
落ちる。
歯車。 砂。 光。
足の裏が、 床を踏んだ。
目を開ける。
……暗い。
そこは、 小さな、 台所だった。
竈の火が、 ちろちろと燃えている。
天井から、 吊るされた鍋。 壁に並ぶ、 古い食器。
木のテーブルの上に、 一人の女性が、 突っ伏していた。
二十代後半くらいだろうか。 腕に、 小麦粉が、 べったりとついている。
……眠っている。
首元の砂時計が、 さらさらと、 砂を落とし始める。
そのとき、 僕は、 気づいた。
鍋が、 吹きこぼれている。
泡立った湯が、 竈の火に、 ぼたぼたと、 落ちている。
竈の脇に、 乾燥した薪の束。
火の粉が、 その薪に、 ぱちりと、 飛び移った。
「……あ!」
炎が、 薪を、 舐め始めた。
まずい。
このままでは、 台所が、 燃える。 この家ごと。
砂は、 もう、 半分近く落ちていた。
一度だけ。
僕は、 テーブルに、 駆け寄った。
女性の肩を、 思い切り、 揺さぶる。
「起きてください! 火が!」
「……う、 ん……?」
女性が、 ぼんやりと、 顔を上げた。
目の下に、 濃い隈。
「……あれ、 あたし」
「火です! 薪に、 燃え移ってます!」
「えっ」
女性の目が、 はっと見開かれた。
彼女は、 椅子を蹴って、 竈に飛びついた。
鍋を引き離し、 近くの水瓶の水を、 薪にぶちまける。
じゅうううう。
白い湯気が、 部屋中に、 立ちこめた。
……消えた。
女性は、 その場に、 へたり込んだ。
「……はぁ、 はぁ。 危なかった」
「大丈夫、 ですか」
「ありがとう。 ……あんた、 誰」
「旅の者です。 たまたま」
「たまたま、 台所に」
女性は、 僕の顔を、 まじまじと見て、 それから、 ふっと、 苦笑した。
「あんたも、 寝不足の顔だね」
「……よく、 言われます」
「あたしもさ。 ここ半月、 全然、 眠れなくて。 夜通し、 宿の仕事をして、 昼も、 ぼんやりして。 ……ついに、 火まで、 付けっぱなしにするところだった」
彼女は、 目元を、 手で押さえた。
「どうして、 眠れないんです」
「分からない。 ……夜になると、 頭が冴えて。 朝になると、 頭が、 ぼうっとして」
……永夜の、 影響だろうか。
僕は、 胸が、 痛くなった。
この人も、 眠れないのだ。
「……一つ、 いいですか」
「ん?」
「今夜は、 もう、 休んでください。 鍋も火も、 そのままで、 いいから」
「そうは、 いかないよ。 明日の仕込みが」
「明日の分は、 明日。 ……定時、 です」
「ていじ?」
「時間が来たら、 その日の仕事は、 終わり。 ……それが、 一番、 大事です」
女性は、 ぽかんと、 僕を見た。
それから、 小さく、 笑った。
「……あんた、 変な人だね」
「よく、 言われます」
足元から、 光の砂が、 渦を巻いて、 立ちのぼった。
「ありがとうよ。 ……今夜は、 寝てみるよ」
女性の、 疲れた笑顔が、 光の中に、 溶けていった。
◇
気がつくと、 僕は、 広場の隅に、 立っていた。
……戻ってきた。
目の前に、 巨大なメトロノームが、 揺れている。
カチ。 ……カチ。 ……カチ。
世界は、 まだ、 ゆっくりのままだった。
けれど。
僕の身体は、 軽かった。
空気が、 水飴のようでは、 ない。
手が、 自由に動く。 足が、 普通に、 前に出る。
「……あれ」
僕は、 自分の手を見た。
……遅く、 ない。
遅延の魔法が、 僕にだけ、 効いていない。
ヒカルくんたちは、 ゆっくりと、 ゆっくりと、 動いている。
ドルガンの足が、 地面に、 めり込んだまま、 震えている。
ミーネの詠唱は、 まだ、 「ほ」から、 進んでいない。
僕が、 消えて、 戻ってくるまでの、 たった五分。 世界は、 彼らにとって、 ほんの、 十数秒だった。
「……アサノ、 さ、 ん……?」
ヒカルくんの口が、 ゆっくりと、 僕の名前を、 呼んだ。
「お、 ど、 ろ、 い、 た……」
彼の目が、 驚きで、 見開かれている。
僕だけが、 普通の速さで、 動いているのが、 見えたのだろう。
「……ほう」
時計塔の上から、 ラレンタの、 ゆるやかな声が、 響いた。
「これは、 興味深い。 ……『迷子』殿は、 遅延の外に、 一度、 出られて、 お戻りに」
彼は、 目を細めた。
「わたくしの拍の、 外から。 ……お見事でございます」
僕は、 ラレンタを、 見上げた。
今、 動けるのは、 僕だけだ。
どうすれば、 いい。
僕に、 戦う力はない。 剣も、 魔法も。
けれど。
僕は、 メトロノームを、 見上げた。
この魔法陣の、 中心。
あれを、 何とかすれば。
長い振り子が、 ゆっくり、 左右に、 揺れている。
その、 振り子の、 途中に。
小さな、 金色の、 重りが、 付いていた。
……あれ。
見覚えが、 ある。
音楽の授業で。 小学校の。
「……あ」
僕は、 思い出した。
メトロノームの、 仕組みを。
振り子の、 重りを、 上に動かすと、 ゆっくりになる。
下に動かすと、 速くなる。
……つまり。
僕は、 走った。
広場を、 駆け抜けて、 巨大なメトロノームの、 土台に、 飛びついた。
真鍮の、 脚。 ガラスの、 筐体。
それを、 よじ登る。
高さ、 六メートル。
手が、 汗で、 滑る。
「お、 や、 め、 な、 さ、 い」
ラレンタの声が、 慌てて、 ゆっくりと、 響いた。
「そ、 こ、 は、 わ、 た、 く、 し、 の、 拍の、 要で」
指揮棒が、 僕を、 指し示す。
けれど、 彼の動きも、 三分の一だ。
僕の方が、 ずっと、 速い。
登り切った。
振り子の、 すぐ脇。
金色の重りが、 目の前にある。
両手で、 掴む。
重い。
けれど、 動く。
「……下へ」
僕は、 力いっぱい、 重りを、 振り子の、 下の方へ、 引き下ろした。
がしゃん、 と、 音がした。
その瞬間。
カチ、 カチ、 カチ、 カチ。
メトロノームの音が、 一気に、 速くなった。
振り子が、 ぶんぶんと、 激しく揺れ始める。
魔法陣が、 眩しく点滅した。
世界が、 ぐるりと、 回った。
ゆっくりだった時間が、 一気に、 加速していく。
「うあ!?」
ヒカルくんの声が、 突然、 普通の速さに、 戻った。
「あれ!? 動けるっす!」
「……」
ドルガンが、 大剣を、 地面から、 引き抜いた。
「……軽い」
「星よ、 降れ——!」
ミーネの詠唱が、 一気に、 完成した。
夜空から、 流星が、 降り注ぐ。
狙いは、 時計塔のバルコニー。
「な、 な、 な」
ラレンタが、 目を丸くした。
「わ、 わたくしの、 テンポを、 ……逆に、 速く」
彼は、 慌てて、 指揮棒を、 振った。
けれど、 もう、 遅い。
流星が、 バルコニーを、 直撃した。
轟音。 煙。
ヒカルくんが、 金色の光を、 噴き上げて、 跳躍した。
「うおおおおお!」
《聖剣・暁》が、 煙の中を、 一閃する。
……静寂。
煙が、 晴れていく。
時計塔の上に、 ラレンタが、 膝をついていた。
燕尾服が、 煤けている。 指揮棒が、 折れている。
「……お見事で、 ございます」
老紳士は、 穏やかに、 笑った。
「まさか、 メトロノームの重りを、 動かされるとは」
「……」
「ご存じ、 でしたか。 その仕組みを」
「……僕の国の、 小学校で、 習います」
「ほう。 ……それは、 失礼を」
ラレンタは、 くつくつと、 笑った。
その笑いは、 どこか、 懐かしそうだった。
それから、 彼は、 ふっと、 肩の力を抜いた。
「……疲れ、 ましたな」
ぽつりと、 呟いた。
「……え」
「いえ。 ……ゆっくり、 眠りたかった。 それだけでございます」
老紳士は、 空を見上げた。
「千年。 ……遅らせて、 遅らせて、 それでも、 朝は、 来るのですな」
その目が、 少しだけ、 潤んでいた。
「……勇者殿」
「は、 はい」
「第二楽章は、 フェルマータ嬢でございます。 ……静かな、 曲を、 お聴かせするでしょう。 ……どうか、 心して」
「……」
「それから」
ラレンタは、 僕を見た。
「迷子殿。 ……あなたは、 変わりませんな」
「……え」
「いえ。 ……失礼を」
老紳士は、 微笑んで、 一礼した。
そして、 夜の闇の中に、 溶けるように、 消えていった。
時計塔の上に、 折れた指揮棒だけが、 残った。
広場の、 メトロノームの音が、 ゆっくりと、 止まった。
魔法陣が、 光を失っていく。
町に、 本当の時間が、 戻ってきた。
鳥の声が、 聞こえた。
人々が、 窓から、 顔を出した。
風が、 吹いた。
……ああ。
僕は、 メトロノームの上に、 へたり込んだ。
涙が、 出そうだった。
けれど、 それよりも、 先に。
ラレンタの、 言葉が、 頭に、 残っていた。
……あなたは、 変わりませんな。
どういう、 意味だ。
そのとき、 広場の端の宿屋から、 一人の女性が、 飛び出してきた。
二十代後半くらいの、 髪を一つに結んだ、 宿屋の女将だった。
「ありがとう! ありがとうございます、 勇者様!」
彼女は、 ヒカルくんの手を取って、 ぶんぶんと、 振った。
「久しぶりに、 ぐっすり眠れそうです……!」
その目の下の隈は、 濃かった。
けれど、 笑顔は、 明るかった。
……どこかで、 見た顔だ。
いや。
気のせいだ。
僕は、 手記帳に、 一行、 書き足した。
【所感】
メトロノームの重りは、 下げると、 速くなる。
小学校の音楽の授業が、 異世界で役に立った。
……人生に、 無駄なことは、 たぶん、 ない。




