第20話 僕は唄を一言だけ口にした
はじめまして。
数ある作品の中から、 この物語を開いてくださって、 ありがとうございます。
こちらはゆっくり投稿していくので、読者の皆さまも肩の力を抜いて、
ゆっくりででもついてきていただけたら嬉しいです。
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落ちる。
歯車。 砂。 光。
息が、 できる。
それだけで、 涙が出そうになった。
足の裏が、 床を踏んだ。
目を開ける。
……光の、 街だった。
見上げると、 天井が、 なかった。
代わりに、 巨大な、 半球形のガラスの屋根が、 夜空を覆っている。
ガラス越しに、 満天の星。
街には、 無数の青白い灯りが浮かんでいた。
運河には、 光る小舟。 橋の上には、 ランプを提げた人々。
ガラスの塔。 水晶の家々。
……これが。
湖底の、 街。
沈む前の。
いや、 沈む前、 なんて。
そんなことが、 あるわけが。
首元の砂時計を見る。
砂が、 さらさらと流れ始めている。
三分。
ふと、 足元が、 小さく揺れた。
ごうん、 と、 遠くから鈍い音が響く。
街の人々が、 足を止めた。
「……今の、 地鳴りか?」
「また、 か。 ここ数日、 続いておるな」
「大したことは、 あるまい」
人々は、 すぐに歩き出した。
……大したことが、 ない。
違う。
これは、 大したことだ。
僕の勘が、 そう告げていた。
遠くで、 地面が軋んでいる。
ガラスの屋根に、 細い、 細い、 ひびが走り始めていた。
……沈む。
この街は、 今夜、 沈む。
どうして、 そう思ったのかは、 分からなかった。
けれど、 確信だった。
街の中央に、 高い塔がそびえている。
水晶の鐘楼。
その一番上に、 巨大な青銅の鐘が、 吊るされていた。
鐘楼の窓辺に、 小さな人影が、 座り込んでいる。
白髪の、 小柄な老婆だった。
膝の上に、 鐘を鳴らすための長い綱を、 抱えている。
けれど、 その手は、 動いていない。
綱を握ったまま、 じっと、 窓の外を見つめている。
僕は、 走った。
鐘楼の階段を、 駆け上がる。
息を切らして、 最上階に辿り着いた。
「……あの!」
老婆が、 びくりと振り向いた。
「誰だい、 あんた」
「旅の者です。 すみません、 突然」
砂が、 もう、 半分近く落ちていた。
「鐘を、 鳴らしてください」
「…………」
老婆は、 じっと僕を見た。
そして、 小さく首を振った。
「……鳴らせないよ」
「どうして」
「鐘は、 議会の許しがなけりゃ、 鳴らせん決まりだ。 ……去年、 偽の警報で、 みんなが慌てて逃げて、 何人も怪我をしたのさ。 それ以来、 鳴らすには、 確かな証拠が要る」
老婆の声は、 沈んでいた。
「今夜の地鳴りは、 確かに、 おかしい。 でも、 まだ、 証拠がない。 ……鳴らして、 また間違いだったら。 あたしは、 責任を取れない」
……ああ。
この人も、 そうなのだ。
迷っている。
鳴らすべきか、 鳴らさざるべきか。
間違えるのが、 怖くて。
僕には、 分かった。
その気持ちが。
痛いほど、 分かった。
僕は、 何度も、 「間違えるのが怖くて」、 何も言えなかった。
何も、 しなかった。
その結果。
……誰も、 救えなかった。
僕は、 一歩、 前に出た。
砂が、 残り少なかった。
一度だけ。
言えるのは、 一言だけ。
……何を言えばいい。
鳴らしてください、 だけじゃ、 足りない。
鳴らしたあと、 みんなが、 どう動くか。
それが、 決まっていなければ。
混乱が起きる。
押し合いになって、 弱い者が倒れる。
……ああ、 そうだ。
総務の仕事は、 こういうところにある。
鳴らす前に、 動きを決める。
誰が先に行くのか。
誰が最後なのか。
僕は、 老婆の目を、 まっすぐに見た。
「鐘が鳴ったら、 北の丘へ」
「……え」
「小さい子から、 先に行く。 お年寄りも、 先に行く。 最後の人は、 最後でいい。 みんなが渡るまで、 待っている」
一息に言った。
口が、 勝手に動いていた。
「……それを、 唄にしてください。 子供でも、 覚えられるように。 鐘が鳴ったときに、 みんなが、 迷わずに動けるように」
老婆の目が、 見開かれた。
長い、 長い沈黙。
やがて。
「…………唄、 かい」
老婆が、 呟いた。
「そうか。 ……動き方を、 先に決めておく」
「はい」
「それなら、 間違えても、 みんなが、 慌てずに済むねえ」
老婆の顔に、 小さな笑みが浮かんだ。
「あたしゃ、 昔から、 唄が好きでね」
老婆は、 綱を、 ぎゅっと握りしめた。
「小さい子から。 年寄りも。 最後の人は、 最後でいい。 ……いい唄だ」
足元から、 光の砂が、 渦を巻いて立ちのぼった。
「旅の人。 ……名は」
「名乗るほどの者では、 ありません。 ……ただの、 迷子です」
「迷子の旅人、 かい」
老婆は、 にっこりと微笑んだ。
「ありがとうよ。 この唄、 孫の孫の孫まで、 歌わせるよ」
彼女は、 綱を引いた。
ゴオオオン。
水晶の鐘楼に、 巨大な鐘の音が、 響き渡った。
街中が、 ざわめく。
人々が、 足を止めて、 塔を見上げる。
老婆が、 窓から身を乗り出した。
そして、 澄んだ声で、 歌い始めた。
かねが なったら きたのおか
ちいさい こから さきにいく
人々が、 顔を見合わせる。
子供たちが、 母親の手を引く。
誰かが、 続きを口ずさんだ。
おとしよりも さきにいく
……歌が、 広がっていく。
街中に。
視界が、 光に呑まれていく。
最後に見えたのは。
小さな子供たちの手を引いて、 北へ向かう、 人々の長い列と。
その一番最後に、 手を振りながら微笑む、 老婆の姿だった。
◇
気がつくと、 僕は、 水の中にいた。
冷たい。
……いや。
冷たいけれど、 息ができる。
身体が、 浮いている。
水面に顔を出して、 咳き込んだ。
周囲は、 夜。 濁った水。
けれど、 流れは弱い。
街灯の灯りが、 水面に揺れていた。
……戻ってきたんだ。
僕は、 手を伸ばして、 近くの橋の欄干に掴まった。
赤い、 手すり。
子供たちの橋。
ぐいと身体を引き上げて、 橋の上に這い上がった。
……遅刻した。
きっと、 また。
何分、 経ったのだろう。
何があったのだろう。
答えを探す前に。
耳に、 歌声が届いた。
かねが なったら きたのおか
ちいさい こから さきにいく
橋の向こう。
高台へ続く、 長い、 長い、 避難の列。
子供たちが、 手を繋いで歌っている。
それに合わせて、 大人たちも歌っている。
おとしよりも さきにいく
さいごの ひとは さいごでいい
みんなが わたるまで まっている
……ああ。
僕は、 その場に座り込んだ。
涙が、 止まらなかった。
どうしてだろう。
どこで聞いたのかも、 思い出せないのに。
この唄を聞くと、 胸がいっぱいになる。
そのとき、 手記帳が、 懐で、 ぐっしょりと濡れているのに気づいた。
慌てて開く。
インクが、 滲んでいる。
けれど、 一頁だけ、 読めた。
昨夜書いた、 唄の歌詞。
【所感】
鐘の唄。 ……聞いたことがある。
……僕は、 目を閉じた。
断片が、 浮かんでは消える。
水晶の塔。 老婆の綱。 青い灯り。
その老婆に、 僕は。
……唄の続きを。
……動き方を、 先に決めておくことを。
【何をしたか】
……鳴らす前に、 動きを決めておくように、 言った。
そこまで書いて、 ペンが止まった。
……鳴らす前に。
どこかで、 同じことを言った気がする。
「始める前に、 終わり方を決めてください」。
石守の工房で。
……同じだ。
僕は、 いつも、 同じことを言っている。
それが、 何を意味するのか。
まだ、 分からなかった。
けれど、 今は。
ヒカルくんたちが、 どうなったのか。
僕は、 立ち上がった。
びしょ濡れの身体で、 北へ向かって走った。
◇
分水堰の突端に、 僕が戻ってきたとき。
水の壁は、 すでに迫っていた。
僕が消える前と、 同じ光景だった。
ヒカルくんが、 剣を持って立ち尽くしている。
ドルガンが、 歯を食いしばって動かない。
ミーネが、 杖を握って、 青い顔で、 詠唱を続けている。
リエナさんは、 石の表面に、 かじりついて、 刻印を読んでいる。
……変わっていない。
いや。
違う。
一つだけ。
街の方から、 兵士が走ってきた。
「勇者様! 東の学舎の子供たちは、 全員、 避難済みです!」
「……え」
「『鐘の唄』に従って、 子供は一番に、 先生と一緒に、 北の丘へ! もう、 誰も残っていません!」
ヒカルくんが、 目を見開いた。
「……さっきは、 まだ残ってるって」
「勘違いです! 取り残されたと思っていた子供は、 唄を聞いて、 自分から、 列に加わっていました!」
「…………」
「それと、 西の養老院も! 動けない方は、 若者たちが背負って、 先に避難させています! 年寄りが先、 という唄の通りに!」
兵士は、 涙ぐんでいた。
「みんな、 唄に従って動いています! 勇者様! どちらも、 無事です!」
ヒカルくんの手から、 剣が滑り落ちそうになった。
「……俺が、 選ばなくても」
彼は、 呟いた。
「……みんなが、 もう、 選んでた」
背後から、 歌声が響いてくる。
さいごの ひとは さいごでいい
みんなが わたるまで まっている
「……最後の人は、 最後でいい」
ヒカルくんが、 顔を上げた。
その目に、 光が戻っていた。
「俺が、 最後に、 なればいいんすね」
「ヒカルくん!」
僕は、 叫んだ。
「東も西も、 もう空です! でも、 北の丘への道を、 まだ渡っている人が、 います! 最後の人たちが渡り終わるまで、 水を止めてください!」
「……了解っす!」
ヒカルくんが、 剣を握り直した。
「俺は、 最後の人っす! みんなが渡るまで、 待っててやるっす!」
《聖剣・暁》が、 轟音とともに、 金色の光を噴き上げた。
光の壁が、 一気に、 巨大に広がる。
東運河と西運河を、 同時に覆い尽くすほど、 巨大に。
「うおおおおお!」
ズオオオオオオ。
水の壁が、 光の壁に激突した。
轟音。 閃光。
けれど、 光は、 崩れなかった。
「……行ける」
ドルガンが、 低く呟いた。
「……動かん」
彼の足元の石畳が、 再び、 しっかりと、 彼を支えた。
「星よ、 降れ——!」
ミーネの声が響いた。
夜空から、 いくつもの流星が、 水の壁に降り注いだ。
水の壁が、 大きく弾け飛ぶ。
「読めました!!」
リエナさんが叫んだ。
「分水堰の、 閉門の言葉です! 『われら、 ここに、 水を分かつ。 分かつをやめ、 一つに、 還れ』!」
「それを、 唱えてください!」
「は、 はいっ!」
リエナさんが、 両手を石に当てて、 声を張り上げた。
「われら、 ここに、 水を分かつ! 分かつをやめ、 一つに、 還れ!」
古い石組みの内側から、 ごごごご、 と重い音が響いた。
突端の巨大な石の門が、 ゆっくりと閉じていく。
東運河と西運河の入口が、 同時に塞がっていく。
迫る水が、 行き場を失って、 北東の巨大な遊水池へ、 流れ込んでいく。
やがて。
轟音が、 止んだ。
水の壁が、 崩れて、 静かな波になって、 消えた。
夜の湖が、 再び、 穏やかな鏡に戻った。
……終わった。
誰もが、 動けなかった。
やがて。
「……やった」
ヒカルくんが、 呟いた。
「やったっす! やったっすよ、 皆さん!」
彼は、 剣を天に突き上げた。
金色の光が、 夜空に迸る。
北の丘から、 歓声が湧き起こった。
無数の人々が、 灯りを掲げている。
橙色の、 海のような光。
僕は、 その場にへたり込んだ。
涙が、 また、 こぼれた。
◇
夜明け。
湖の都は、 ほとんど無傷だった。
街の外れの、 いくつかの家と橋が、 壊れただけ。
怪我人は、 数人。 死者は、 一人も出なかった。
「ありがとうよ、 勇者様。 ……そして、 みんな」
ティーナさんが、 僕たちの前で、 深々と頭を下げた。
「千年前の夜と、 同じさ。 あの唄が、 この街を、 もう一度、 救ってくれた」
「……俺は、 何も」
ヒカルくんが、 首を振った。
「俺、 最初、 選べなくて、 剣が、 ゼロになっちゃって。 ……みんなが、 唄の通りに動いてくれたから」
「それで、 いいんだよ」
ティーナさんは、 笑った。
「勇者様一人に、 全部背負わせるのは、 間違いさね。 この街は、 あたしたちの街だ。 みんなで、 守るのさ」
ヒカルくんの目が、 少し潤んだ。
「……みんなで」
「そう。 みんなで」
ヒカルくんは、 しばらく黙っていた。
それから、 ぼそりと呟いた。
「……なんか、 分かった気がするっす」
「何がです」
「迷っても、 いいんすね。 ……一人で、 決めなくて、 いいんすね」
「……はい」
僕は、 頷いた。
「迷っても、 いいんです。 迷ったら、 呼べばいい。 誰かが、 来ます」
「……っす」
ヒカルくんは、 にかっと笑った。
そのとき、 リエナさんが、 僕の袖を、 そっと引いた。
「アサノさん。 ……ちょっと、 いいですか」
「はい」
彼女は、 僕を、 広場の掲示板の前に連れて行った。
昨日、 僕たちが貼り出した避難経路図の隣に。
もう一枚、 古い羊皮紙が、 貼られていた。
「ティーナさんが、 出してくださった、 都の古い記録です。 ……千年前の、 湖底の街の、 最後の頁」
「……最後の」
リエナさんが、 指で、 一行を指した。
この世界の文字だ。
僕には、 読めない。
「……読みます」
リエナさんの声は、 少し震えていた。
「『鐘の唄は、 迷子の旅人より授かった』」
僕は、 息を止めた。
「……迷子の旅人」
「はい。 ……石守の台座にあったのと、 同じ言葉です」
リエナさんは、 僕の目を、 まっすぐに見つめた。
「アサノさん。 ……『迷子の旅人』は、 二度、 現れています」
「…………」
「石守の工房では、 『線を引く言葉』を。 湖底の街では、 『鐘の唄』を。 ……どちらも、 『終わり方を、 先に決める』という、 同じ考え方で」
リエナさんは、 眼鏡を押し上げた。
「それは、 アサノさんが、 いつもおっしゃっていることと、 同じなんです」
「……」
「《迷子》の、 前の持ち主が、 いたとして。 ……その人は、 アサノさんと、 そっくりな、 考え方をする人だったんでしょうか」
「……分かりません」
僕は、 正直に答えた。
「でも。 ……そう、 かもしれません」
「…………」
リエナさんは、 少しの間、 黙っていた。
それから、 ゆっくりと、 微笑んだ。
「……やっぱり」
「え?」
「いえ。 ……何でもありません」
彼女は、 首を振った。
けれど、 その目は、 何かを確信していた。
僕は、 それ以上、 聞けなかった。
広場では、 子供たちが、 また、 輪になって歌っていた。
かねが なったら きたのおか
ちいさい こから さきにいく
朝日が、 湖面に、 きらきらと反射していた。
湖底の古代都市は、 静かに、 水の底で眠っている。
その街の、 最後の夜。
鐘を鳴らした、 白髪の老婆の、 笑顔。
僕は、 それを、 もう、 はっきりとは思い出せなかった。
けれど、 胸の奥に、 確かな温かさが残っていた。
手記帳を開く。
濡れて、 滲んだ頁の余白に。
新しい行を、 書き足した。
【所感】
迷った者が、 迷わずに帰れる道。
弱い者から先に、 動ける唄。
……僕は、 たぶん。
そういうものを、 作りたかったのだと思う。
ずっと。
首元の砂時計が、 朝日を受けて、 金色に輝いていた。
第二部の旅は、 ここで、 一つの区切りを迎えた。
けれど、 僕たちは、 まだ知らなかった。
湖の彼方。 北の空の、 さらに向こうで。
夜想の楽団が、 静かに、 指揮棒を構え始めていることを。




