第098話:東城、決断す
新技術対策室、資料保管フロア。
深夜、誰もいないはずのフロアで、東城冴子は一人、アクセス権限を使い、常盤専用の機密フォルダを開いていた。
(――こんなことをすれば、私の立場もただでは済まない。それでも)
彼女の脳裏には、あの部室で見た、あまりにも普通で、あまりにも眩しい日常の光景が、消えることなく焼き付いていた。
フォルダの中身を確認した瞬間、東城は思わず息を呑んだ。
そこにあったのは、ダンジョン最深部――第91層から第100層にかけての未踏破領域に眠るとされる、異世界への"ゲート"に関する研究計画書だった。表向きは学術研究という名目だが、末尾に添えられた予算配分の欄には、明確に「防衛装備調達」の文字が記されている。
(――ゲートを利用して、異世界そのものを、国家の資源として利用する気だわ)
その計画の恐ろしさに、東城の指先が微かに震えた。資料をさらに読み進めるうちに、東城の顔から徐々に血の気が引いていった。そこには、盾花の実家の工房、神宮寺グループのエネルギー技術、そして結衣ちゃんの通う保育園に至るまで、部室の面々に関わる情報が、克明に、そして冷徹に列挙されていたのだ。
(――この人たちは、本当に、何もかもを道具として見ているのね)
その事実に、東城の中で、これまで抑え込んでいた何かが、静かに、しかし確かに音を立てて崩れていった。
* * *
翌朝。
「――失礼します」
東城は、誰の目にも留まらないよう細心の注意を払いながら、部室を訪れた。定期視察の予定日ではない、異例の訪問だった。
「今日は、視察日ではなかったはずだが」
トールが怪訝そうに尋ねると、東城は静かに、しかし確かな決意を込めて答えた。
「今日は、視察ではありません。……個人としての、ご報告です」
その言葉に、部室の空気が一瞬にして張り詰めた。
「常盤修造という人物が、ダンジョン最深部のゲートを利用し、異世界への軍事的な再接触を計画しています。詳細な資料も、こちらに」
東城は震える手で、一枚のUSBメモリを差し出した。
「これは、国家機関の人間としては、あってはならない行為です。ですが……」
東城は、まっすぐにトールを見つめた。
「皆さんの日常を、これ以上、彼のような人間の道具にはさせたくありません。それだけが、今の私の、偽らざる気持ちです」
トールは、静かにそのUSBメモリを受け取った。
「――恩に着る」
「いいえ」
東城は小さく首を振った。
「これは、恩着せがましく言うようなことではありません。ただ、私が、私自身の意志で選んだことです」
その日を境に、東城冴子は、国家機関の監視者という立場を保ちながらも、静かに、確かに、部室の側へと一歩を踏み出したのだった。
「――東城殿」
トールが、珍しく丁寧にその名を呼んだ。
「これから先、お前の立場は、これまで以上に危ういものになるだろう。それでも構わないのか」
「ええ。構いません」
東城は、迷いのない声で答えた。
「私は、私が守りたいと思ったものを守るために、この選択をしました。それだけのことです」
その毅然とした横顔に、部室の全員が、確かな敬意を抱いていた。
「東城様……」
白石さんが、そっと東城の手を取った。
「これからは、わたしたちも、東城様のこと、お守りしますからね」
「――白石さん」
東城は、その温かな言葉に、思わず目を潤ませた。仕事一筋で、これまで誰かにこんな風に気遣われることなど、久しくなかったからだ。
「……ありがとうございます。皆さんに、そう言っていただけるだけで、私は十分です」
「いいえ、十分ではありませんわ」
氷華が、きっぱりとそう言い切った。
「東城様は、わたくしたちのために、大切なものを危険に晒してくださった。ならば、わたくしたちも、東城様のために、できることをするのが筋というものですわ」
その言葉に、部室の全員が頷いた。
「――というわけで、東城様。これからは、視察という建前抜きで、いつでも遊びにいらしてくださいまし」
「遊びに、ですか……」
東城は戸惑いながらも、これまで見せたことのない、柔らかな笑みを浮かべた。
「――ふふ、それも、悪くありませんね」
その一言に、部室にはいつも通りの、温かな空気が満ちていった。
「――ときに、東城殿」
トールが、ふと思い出したように口を開いた。
「五年前、蓮司が身元不明のまま保護された際、貴殿の当時の上司が、副担当として関わっていたという記録が見つかった。何か、心当たりはあるか」
その言葉に、東城の表情が、僅かに強張った。
「……その件については、私も詳しくは知りません。ですが、対策室が発足した当初から、常盤様が何らかの形で関与していたという噂は、耳にしたことがあります」
「そうか」
「調べてみます。……これも、私が果たすべき役目の一つでしょうから」
東城は、静かに、しかし確かな決意を込めてそう答えた。組織の奥深くに潜む、まだ見ぬ真実に向き合う覚悟を、その横顔は確かに物語っていた。




