第094話:東城の異変と、神宮寺への圧力
五月下旬、定期視察の日。
「――失礼いたします」
いつも通り丁寧な物腰で部室を訪れた東城冴子だったが、その所作には、以前にはなかった僅かな硬さが滲んでいた。
「本日も、よろしくお願いいたします」
「うむ。好きに見ていくといい」
トールが素っ気なく応じると、東城は小さく頭を下げ、いつも通りファイルを開いた。だが、その視線が資料の上を滑る速度は、明らかにいつもより遅かった。
「――東城様、何か、お疲れのご様子ですけれど」
白石さんが控えめに気遣うと、東城は一瞬だけ言葉に詰まり、それから小さく微笑んだ。
「……いえ。少し、上の意向が読みにくい時期でして」
「上の意向、ですか」
「ええ。……いえ、こちらの話です。お気になさらず」
東城はそれ以上語ることなく、視察をいつも通りに終えて帰っていった。だが、部室を出る間際、彼女はほんの一瞬だけ足を止め、誰にともなく呟いた。
「――皆さんの平穏を、なるべく長く守れるといいのですが」
その一言の意味を、その場の誰も正確には理解できなかった。だが、その声にあった僅かな翳りだけは、確かに部室の空気に残っていた。
* * *
彼女を乗せた車の中。
「――どうでした、視察は」
運転手の問いに、東城は窓の外を見つめたまま、静かに答えた。
「……いつも通りよ。でも」
「でも?」
「最近、対策室に降りてくる指示の質が、変わってきている気がするの。常盤顧問が絡み始めてから、特に」
東城はそう呟くと、それ以上は何も言わず、静かに目を閉じた。彼女自身、まだそれが何を意味するのか、明確な答えを持ち合わせてはいなかった。窓の外を流れる景色を眺めながら、東城の脳裏には、これまで見てきた渋谷代々木学園の生徒たちの、あまりにも普通で、あまりにも眩しい日常の光景が、繰り返し浮かんでは消えていった。
(――あの子たちの日常を、上の思惑なんかで壊させはしない)
その決意だけは、まだこの時、彼女自身の胸のうちだけに留められていた。
* * *
同じ頃、神宮寺本邸、当主の執務室でも、静かな異変が起きていた。
「――内閣府特別顧問、常盤様から、正式な要請書が届いております」
秘書が差し出した書類に、氷華の父は眉をひそめた。
「国家プロジェクトへの技術協力、か……」
書類には、神宮寺グループが保有する魔道エネルギー技術を、『国家の安全保障に資する研究』へ提供するようにとの、丁寧だが有無を言わさぬ文面が並んでいた。
「断れるものなのか、これは」
「表向きは任意です。ですが、これを拒めば、今後の事業許認可に何かしらの影響が出る可能性は、否定できません」
氷華の父は、深く息を吐いた。
「……分かった。当面は、最低限の資料提出だけに留めておけ。深入りはするな」
「畏まりました」
秘書が退室した後、氷華の父はしばらくの間、一人、窓の外を見つめていた。
(――氷華には、まだ気づかせたくない。あの子には、あの子らしい日常を送ってほしいのだから)
その胸のうちには、娘を思う父親としての、確かな葛藤が渦巻いていた。
* * *
その夜、本邸の食卓で。
「――お父さん、最近、少し顔色が悪くありません?」
氷華が心配そうに尋ねると、父は慌てて笑顔を作った。
「な、なんでもないよ。少し、仕事が立て込んでいるだけだ」
「本当に、それだけですの?」
「もちろんだとも。それより氷華、最近、花嫁修業の方はどうだ。彼のために、まだまだ精進できることがあるだろう」
強引に話を逸らす父の様子に、氷華は違和感を覚えながらも、それ以上は追及しなかった。
「もう、お父さんったら。話を逸らすの、下手すぎますわよ」
氷華は苦笑しながらそう言うと、それでも父の様子を気遣うように、その日はいつもより優しい声で夕食の礼を告げた。だが、自室に戻った後も、その胸のうちには、小さな不安の種が静かに残り続けていた。
(――何か、良くないことが起きているのかもしれませんわ)
窓の外に広がる夜景を見つめながら、氷華はしばらくの間、一人静かに考え込んでいた。
* * *
翌日の部室で、氷華は珍しく歯切れの悪い様子だった。
「――氷華ちゃん、何かあったんですの?」
盾花が心配そうに尋ねると、氷華は一瞬迷った末に、小さく首を振った。
「いえ……。なんでもありませんわ。ただ、少し、お父さんの様子が気になっただけで」
「お父様の様子?」
「ええ。最近、妙に難しい顔をしていることが多くて。……まあ、経営者ですもの、色々あるのでしょうけれど」
氷華はそう言って笑ってみせたが、その笑顔にはいつもの勢いがなかった。トールは、その様子を横目に、静かに木刀の手入れを続けながら呟いた。
「――何かあれば、いつでも言え。氷華」
「……ありがとうございます、佐藤さん」
氷華は、その素っ気ない一言に、ほんの少しだけ安堵の表情を浮かべた。部室の穏やかな空気は、いつも通りそこにあったが、その水面下では、幾つもの小さな異変が、静かに重なり始めていた。




