第090話:部室への招待と、消えない戸籍の謎
「――というわけで、鴉羽くんも、良かったら部室に来ませんこと?」
放課後、教室を出ようとする蓮司を、氷華が気さくに呼び止めた。転入生に対する部室メンバーの人当たりの良さは、この学園ではむしろ異質なものだったが、氷華にはそんな自覚もない。
「部室、ねえ」
「魔道具研究会っていう、ゆるーい部活っス! お茶とお菓子が美味いのが取り柄っスよ!」
鯖江が横から気安く肩を組もうとすると、蓮司は苦笑しながらそれをかわした。
「誘いは嬉しいが……そういうの、あんまり慣れてなくてな」
「あら、遠慮は無用ですわよ。ここ、佐藤さんも入り浸ってますし」
氷華がトールを指差すと、蓮司は僅かに片眉を上げた。
「――ふうん」
その短い相槌に、どこか含みがあることに気づいたのは、この場ではトールだけだった。
* * *
結局、蓮司はその日のうちに部室を訪れることになった。
「お邪魔します」
「うむ、好きにしろ」
トールがソファーの端を空けると、蓮司は特に遠慮する様子もなく腰を下ろした。白石さんが差し出した紅茶を「どうも」と受け取り、盾花の淹れたお茶請けの焼き菓子を「うまいな、これ」と素直に評する様子は、案外すぐに部室の空気に馴染んでいった。
「鴉羽くん、意外と物怖じしませんのね」
「まあ、色んな場所に流れてきたからな。慣れてるっちゃ慣れてる」
その一言に、氷華や盾花は「へえ、そうなんですね」と軽く受け流したが、その言葉の裏にある重みには、まだ誰も気づいていなかった。
「鯖江、その召喚獣自慢、俺にも聞かせてくれ」
「え、いいんスか!?」
蓮司が水を向けると、鯖江は途端に目を輝かせ、神話級モンスターの武勇伝を身振り手振りで語り始めた。トールはその様子を横目に、木刀の手入れを続けながら、僅かに口の端を緩めていた。
「鴉羽さん、召喚術には興味あります?」
「いや、俺は専門外だ。剣一本でどうにかしてきたタチでな」
「意外ですわね。もっとこう、色々な術を使いこなしそうな雰囲気ですのに」
氷華の言葉に、蓮司は苦笑した。
「買いかぶりすぎだ。俺にできるのは、目の前の敵を、真っ直ぐ斬ることくらいさ」
その言い回しの端々に滲む何かに、部室の面々はまだ気づかない。だが、トールだけは、その言葉の奥にある、幾つもの戦場の記憶を確かに聞き取っていた。
「――剣一本、っスか。カッコいいっスね。今度、稽古つけてもらってもいいっスか?」
鯖江が目を輝かせて尋ねると、蓮司は面倒くさそうに、しかしどこか楽しげに肩をすくめた。
「別に構わんが、俺の稽古はそれなりに厳しいぞ」
「望むところっス!」
そんなやり取りを、白石さんは微笑ましそうに見守りながら、新しいお茶請けの皿を卓に並べていった。部室に新しい風が吹き込んでから、まだ数時間しか経っていないというのに、その空気はすでに、以前からそこにいたかのような自然さを帯び始めていた。
「――佐藤様は、鴉羽さんのこと、お気に召したようですね」
白石さんが紅茶のお代わりを注ぎながら、そっと囁く。
「さあな。悪くない相手だとは思うが」
トールは素っ気なくそう答えるだけだったが、その口元には、確かな安堵が浮かんでいた。
* * *
その夜、ペントハウスの自室で。
「――トール様。少し、よろしいですか」
木刀の手入れをしていたトールの膝の上で、イシュラーナの声が、いつになく硬い響きを帯びた。
「なんだ」
『鴉羽蓮司という人物、独自に身元を照会してみましたの。……戸籍が、五年前に忽然と出現していますわ』
「――」
『それ以前の記録が、一切存在しませんの。まるで、五年前のある日、いきなりこの世に生まれ落ちたかのように。住民票の発行元、通っていたはずの中学の記録、すべてが不自然に整合性を欠いておりますの』
トールは手入れの手を止めることなく、短く答えた。
「知っている」
『……知っている、とは』
「今はまだ、言えん。だが、案ずるな。あれは、危険な男ではない」
「本当に、大丈夫なんですの?」イシュラーナの声には、珍しく食い下がるような響きがあった。『トール様がそう仰るのなら信じますけれど……わたくし、トール様のことも、この部室の平穏のことも、誰よりも大切に思っておりますの。だからこそ』
「分かっている。お前の気持ちはありがたい」
トールは、静かに、しかし確かな重みを込めて続けた。
「もう少しだけ、待ってくれ。近いうちに、必ずすべてを話す」
その言葉には、迷いも動揺もなかった。イシュラーナは僅かな沈黙の後、それ以上は追及せず、ただ短く答えた。
『……かしこまりましたわ。トール様がそう仰るなら。……ですが、少しだけ、妬けますわね』
「なに?」
『いいえ、何でもございません。おやすみなさいませ、トール様』
行灯の灯りの下、トールは木刀を鞘に収めると、窓の外に広がる夜の渋谷を、静かに見つめた。
(――まさか、本当に生きていたとはな)
誰にも聞こえない呟きが、静かな部屋に溶けていった。窓の外を流れる車のライトの帯を眺めながら、トールはしばらくの間、身じろぎもせずにそこに座り続けていた。




