第089話:転入生、鴉羽蓮司
転校初日の朝。
「――今日から、この学園で学ぶことになった鴉羽蓮司です。よろしく」
教壇の上で短くそう言い放った男子生徒は、およそ「転入生の初日」らしい緊張とは無縁の、飄々とした空気を纏っていた。癖のある黒髪に、少し眠たげな目つき。制服の着こなしにはどこか粗野なものが残っており、育ちの良さそうな渋谷代々木学園の生徒たちの中では、逆に妙な浮き方をしている。
「へえ、なんか強そうな人っスね……」
鯖江がぼそりと呟く。教室のあちこちからも、遠巻きに興味津々の視線が集まっていた。
「席は――そうだな、あそこの窓際が空いているな」
担任に促され、蓮司は教室の後方、トールの席の一つ後ろへと歩いていく。
すれ違いざま。
「――」
「――」
二人の視線が、ほんの一瞬だけ交差した。教室のざわめきが、その一瞬だけ、二人の間から切り取られたように遠くなる。
トールの手が、机の下で僅かに、木刀の柄を確かめるように動いた。蓮司の口の端も、誰にも気づかれない程度に、微かに持ち上がっていた。(――やはり、ここにいたか)と、蓮司は胸の内だけで呟いた。人伝に聞いた噂と、僅かに残った気配の記憶。それらを頼りに、この学園にたどり着くまでの遠回りを思えば、この一瞬の再会は、あまりにもあっけないものだった。
だが、それも刹那のことだった。
「よろしく」
蓮司はそれだけ言うと、興味なさそうに窓の外へ視線を移し、トールもまた「ふむ」と一言だけ返して、いつも通り机に突っ伏す体勢に入った。
「なんスかね、今の変な間」
隣の席の鯖江が首を傾げたが、誰もそれ以上は気に留めなかった。
* * *
昼休み。購買のパン争奪戦は、この学園における数少ない「実力が物を言う」戦場の一つである。
「――こいつを、いただくとしよう」
トールが最後の焼きそばパンに手を伸ばしたその瞬間、横合いから伸びてきたもう一本の手が、寸分違わぬ速さで同じパンに触れた。
「――」
「――」
トールと蓮司は、パンを挟んだまま、無言で睨み合った。
「……お前、なかなかいい手の速さをしているな」
「そりゃどうも。お前もな」
会話の内容だけを聞けば、ただの購買での小競り合いである。だが、その手の動き、体重の乗せ方、呼吸の読み合いは、素人のそれではまるでなかった。周囲の生徒たちは、購買の名物「争奪戦」がまた始まったとしか思っていなかったが、当の二人は、互いの間合いと呼吸だけで、幾つもの言葉にならない確認をやり取りしていた。
「あら、意外と気が合いますのね、お二人とも」
通りかかった氷華が、微笑ましそうにその光景を眺める。
「そうみたいだな」
トールが素っ気なく答えると、蓮司もまた「まあな」とだけ短く返し、結局、焼きそばパンは二人でちぎって分け合う形に落ち着いた。
「――転入生くん、初日からトールさんと張り合うなんて、なかなか肝が据わってますわね」
氷華が感心したように言うと、蓮司はふっと笑みをこぼした。
「肝が据わってるっつーか……何となく、こいつとはこういう距離感が合う気がしてな」
「はあ、よく分かりませんけど、仲良くなれそうで良かったです」
盾花がのんびりとそう言うと、蓮司は珍しく虚を突かれたような顔をした後、小さく頷いた。
「――ああ、そうだな。悪くない」
* * *
その日から数日、二人は毎日のように購買で小さな小競り合いを繰り広げた。カレーパン、メンチカツパン、焼きそばパン――争う対象は日替わりだったが、結末はいつも同じ、二人で分け合うという形に収まっていく。それは端から見れば、ただの食いしん坊同士の微笑ましい小競り合いだったが、当の二人にとっては、互いの実力と呼吸を確かめ合う、密やかな再会の儀式でもあった。
「お前、剣の腕は落ちてないみてえだな」
三日目、カレーパンを半分に割きながら、蓮司がぼそりと呟いた。
「そちらこそ、隙のない身のこなしだ。異世界の戦場を離れて五年、それでも些かも鈍っていないとはな」
「そりゃどうも。……お互い、生き延びるための癖ってやつは、そう簡単には抜けねえもんだ」
「――お前、この程度のパン一つで、昔ほど本気を出さなくなったな」
数日目のある日、蓮司が、誰にも聞こえない声量でぼそりと呟いた。
「お前こそ、まだそんな軽口が叩けるとはな」
トールも、同じ音量で短く返した。
「積もる話は、山ほどある。だが、ここではまだだ」
「分かってる。……夜、時間くれるか」
「ああ」
それだけのやり取りだったが、二人の間には、確かな約束が交わされていた。
「なんスかこの二人、めちゃくちゃ息合ってません……?」
いつも通り不思議そうに首を傾げる鯖江の横で、氷華と盾花も顔を見合わせて笑った。
「まるで、古い付き合いの友人みたいですわね」
その氷華の何気ない一言に、トールと蓮司は同時に、ほんの僅かだけ動きを止めた。
「――さあな。会ったばかりだが」
蓮司がわざとらしく肩をすくめると、トールも「奇遇に息が合うだけだ」と素っ気なく返す。二人だけに通じる符丁のようなやり取りに、部室の面々は特に疑いを持つこともなく、いつも通りの笑いに紛れさせていった。
窓の外では、四月の柔らかな陽光が、いつも通りの渋谷の街並みを穏やかに照らしていた。だが、その光の下で、二人の男だけが知る何かが、静かに動き始めていた。




