第087話:氷の女王への、不器用な返礼
白石さんと結衣ちゃんが夕餉の約束を胸に、鯖江と盾花もそれぞれの土産を抱えて部室を後にした後。
薄暗くなり始めた部室には、トールと氷華、二人だけが残されていた。
「――それで、佐藤さん」
氷華は努めて平静を装いながらも、その声は僅かに上ずっていた。
「わたくしへの返礼というのは、どちらに?」
「ここにある」
トールは、最後まで手元に残していた小さな紙袋を、静かに差し出した。装飾は控えめで、他の三人に渡した品よりも、明らかに小さな包みだった。
「……開けても?」
「好きにしろ」
氷華は震える指先でリボンをほどき、蓋を開けた。中に収められていたのは、控えめな輝きを放つ、小さな髪飾りだった。宝石は使われていない。だが、その細やかな細工には、確かな丁寧さが宿っていた。
「これは……」
「街の職人に、頼んで作らせた。お前の髪の色に合う物を、という注文だけはつけたが」
トールは、いつも通りの淡々とした口調で、しかし僅かに視線を逸らしながら続けた。
「バレンタインの夜、お前が渡してくれた、あの不格好な粒チョコを思い出してな。飾り気のない物にこそ、意味があるということを、お前は俺に教えてくれた」
「――」
氷華は言葉を失ったまま、髪飾りを両手で包み込むように持った。
「派手な物を贈るのは、俺には向かん。お前も、それは望んでいないだろうと思った」
「……はい。その通りですわ」
氷華の声が、微かに震える。
「他の皆には、それぞれの日頃の礼を返した。だが、これは違う」
トールは、真っ直ぐに氷華を見据えた。
「お前が、皆に隠れて、一人でこれを俺に渡した。その気持ちに対する返礼だ。同じように、俺も、これは他の誰にも見せる物ではないと思っている」
「――佐藤さん」
氷華の瞳に、みるみる涙が浮かんでいく。
「わたくし、てっきり、あの夜のことは、佐藤さんの中で流されてしまったのだと……」
「そんなはずがあるか」
トールは、珍しくきっぱりと言い切った。
「お前が懐にしまっておいてほしいと願った物を、俺が忘れるはずがない。あれから毎日、俺の懐には、あの粒チョコの包み紙が入っている」
「――え?」
「捨てるにも捨てがたくてな。だから、そのまま持ち歩いている」
その、あまりにも不器用で、そして誠実すぎる告白に、氷華はついに堪えきれず、小さく嗚咽を漏らした。
「……本当に、佐藤さんは、いつもそうですわ。回りくどくて、鈍感で。それでいて、いざという時には、こうして真っ直ぐに……」
「悪いか」
「いいえ」
氷華は涙を拭いながら、それでも精一杯の笑顔を見せた。
「悪くありませんわ。むしろ――そういうところに、わたくしは……」
その先を、氷華は言葉にしなかった。だが、その頬に浮かぶ赤みと、瞳に宿る光だけで、言葉にならない想いは、十分すぎるほど伝わっていた。
* * *
「つけてみるか」
「――は、はい」
トールに促され、氷華は鏡台の前に立つと、震える手で丁寧に髪飾りをつけた。淡い色の髪に、控えめな輝きがそっと添えられる。
「……よく似合っている」
「……ありがとう、ございますわ」
鏡越しに視線が絡み合い、部室に、しばしの静かな時間が流れた。
鏡に映る自分の姿を、氷華はしばらくの間、じっと見つめていた。神宮寺家の令嬢として、常に隙のない振る舞いを求められて育った自分。誰よりも気高く、誰よりも凛としていなければならないと、そう思い込んで生きてきた自分。
(――でも、今のわたくしは。着飾った完璧な自分ではなく、不格好な粒チョコを差し出した、あの不器用なわたくしを、佐藤さんは選んでくださいましたのね)
その事実が、これまでのどんな高価な装飾品よりも、氷華の胸を温かく満たしていった。
「どうした。難しい顔をして」
「いいえ。……何でもありませんわ。ただ、少しだけ、自分が誇らしく思えただけです」
氷華はそう言うと、鏡の中の自分に向かって、そして隣に立つトールに向かって、これまでで一番自然な笑みを浮かべた。窓の外では、三月の夜風が、まだ僅かに冬の名残を含みながら、それでも確かに春の気配を運んでいた。
* * *
その夜、トールのスマホの画面に、誰にも見えない小さな一文が、静かに浮かんでは消えた。
『――バレンタインに続いて、また一つ、ハーレムの天秤に重みが加わりましたわね』
『でも、ご安心くださいまし。わたくし、決して不公平だとは思っておりませんの。氷華様の想いも、白石様の想いも、盾花様の想いも――皆様それぞれの形で、トール様にちゃんと届いていますもの』
「……そうか」
トールは短く答えると、懐にしまった小さな包み紙に、そっと手を添えた。
* * *
三月も下旬に差し掛かったある日。
「――佐藤様。少しよろしいでしょうか」
部室を訪れた凪教官が、珍しく改まった調子で切り出した。
「新学期の話だ。来月から、Eクラスに転入生が加わる」
「転入生、か」
「ああ。それと――」
凪教官は、手元の書類に視線を落としながら、僅かに声を落とした。
「新技術対策室から、正式な連絡が入った。東城主任が、次年度も継続して、定期的な視察を行いたいとのことだ」
「……そうか」
トールは短くそう返しただけだったが、その目には、静かな緊張の色が宿っていた。
「詳しいことは、始業式の日に改めて話す。今日のところは、心構えだけしておけ」
凪教官はそれだけ言い残すと、部室を後にした。
窓の外では、桜の蕾が、まだ固く閉じたまま、春の訪れを静かに待っていた。新学期の足音は、確かに近づいている。転入生、そして底の見えない国家機関の継続的な影――それらが部室の平穏に何をもたらすのか、今はまだ、誰も知る由もなかった。
だが少なくとも、この日々を彩る温かな絆だけは、季節が移ろっても変わらず、確かにそこにあり続けるのだった。




