第086話:ホワイトデーと、不器用な三倍返し
三月十四日、放課後。
「――というわけで、本日はホワイトデーですわ!」
部室の扉を開けるなり、氷華が待ちきれない様子で宣言した。
「氷華、その台詞、先月も聞いた気がするな」
「発言者が違いますでしょう! 今日は、贈っていただく側ですのよ!」
氷華が頬を膨らませる横で、盾花と白石さんも、どこか落ち着かない様子でソファーに腰を下ろしていた。結衣ちゃんだけが無邪気に、テーブルの周りをくるくると歩き回っている。
「パパ、今日は何かくれるの?」
「うむ。もちろんだ」
トールが短く答えると、部室の空気が一斉に色めき立った。
「――も、もちろん、ですって……!」
「佐藤さん、今、さらっと恐ろしいことを仰いましたわね……!」
氷華と盾花が思わず顔を見合わせる。だが、当のトールは、いつも通りの真顔で、部室の隅に置かれた大きな紙袋の山を指し示した。
「一人ずつ、名を呼ぶ。前へ出よ」
その、まるで論功行賞のような物言いに、白石さんが小さく吹き出した。
「佐藤様、まるで殿様みたいですね」
「事の重大さに見合った態度を取っているだけだ」
トールは大真面目にそう返すと、紙袋の山から一つを取り上げた。
* * *
「まずは、鯖江」
「あ、はい! っス!」
名を呼ばれた鯖江が、緊張の面持ちで前に出る。手渡された紙袋の中身を覗き込んだ瞬間、彼は思わず声を上げた。
「――こ、これ、最新のドローン用バッテリーパックじゃないっスか!? しかも三個も……!」
「結衣特製の友達チョコ、忘れていない。三倍返しというやつだろう」
「マジっスか……! ありがとうございますボス!」
感激する鯖江の隣で、白石さんが感心したように呟いた。
「律儀ですね、佐藤様は」
「相手が何を望んでいるかくらいは分かる」
トールは素っ気なく言うと、次の紙袋を手に取った。
* * *
「盾花」
「は、はい!」
名を呼ばれた盾花が、緊張しながら前に出る。手渡された箱を開けると、そこには、精巧な作りの金属製の彫刻刀が数本、丁寧に並べられていた。
「これ……」
「戌井鍛冶工房謹製、とまではいかんが、腕の良い職人に頼んで誂えさせた。型の細部を仕上げる時、今の道具では限界があると、以前ぼやいていただろう」
「覚えていてくれたんですか……」
盾花の声が、僅かに震えた。バレンタインの前夜、金属の型で不格好なチョコを作った、あの何気ない会話を、トールはきちんと聞いていたのだ。
「実家の工房にも、いずれ渡すといい。地元のテレビが取材に来るのだろう。良い道具は、良い仕事の土台になる」
「――はい。大切に使わせていただきます」
盾花は箱を胸に抱きしめるようにして、深く頭を下げた。その耳が、ほんの少しだけ赤く染まっていることに、気づいた者はいなかった。
* * *
「白石殿」
「はい」
最後に名を呼ばれた白石さんが、静かに前へ進み出る。トールは紙袋ではなく、代わりに、少し照れくさそうに口を開いた。
「お前への返礼は、物ではない。今夜、俺が作る」
「――え?」
「結衣も含めて、三人分の夕餉を、俺が用意する。いつも世話になっている分の、礼だ」
白石さんが目を丸くする横で、結衣ちゃんが飛び上がって喜んだ。
「パパのごはん、たのしみ!」
「し、失敗しても文句は言うなよ」
珍しく歯切れの悪い口調でそう付け加えるトールに、白石さんは、堪えきれないというように、ふふ、と柔らかく笑った。
「楽しみにしていますね、佐藤様」
その笑顔に、トールは僅かに視線を逸らしながら、小さく咳払いを一つした。
* * *
「――あの、佐藤さん」
一通りの受け渡しが終わり、部室に和やかな空気が満ちる中、氷華が控えめに、しかし確かな期待を込めた声で呼びかけた。
「む」
「わたくしの分は……」
トールは紙袋の山を見渡したが、そこにはもう、氷華への品は残っていなかった。氷華の表情に、一瞬、影が差す。
「氷華の分は、この場では渡さん」
「……え?」
「後で、二人だけの時に渡す。皆の前でする話ではない」
その一言に、氷華の顔が、みるみる赤く染まっていった。盾花と白石さんが、思わず顔を見合わせる。
「な、な……! そ、それはつまり……!」
「変な勘繰りはよせ。単に、渡す物の性質上、そうするのが筋というだけだ」
トールは至って真面目な顔でそう言うが、その言葉の意味を、部室にいる誰もが正確に理解していた。バレンタインの夜、氷華だけがトールに『もう一つ』を渡したように、今日もまた、二人だけの時間が用意されているのだ。
「……承知いたしましたわ」
氷華は頬を染めたまま、それでも精一杯、平静を装うように頷いた。だが、その瞳の奥には、隠しきれない喜びの色が、確かに揺れていた。
* * *
「それにしても、佐藤さんって、意外と義理堅いですよね」
部室を後にする道すがら、盾花が彫刻刀の箱を大切そうに抱えながら呟いた。
「不器用なだけだと思いますよ」
白石さんが穏やかに応じる。
「不器用、っスか」
「ええ。器用に立ち回ることができないから、その分、覚えていることを一つずつ、丁寧に返そうとするんです。……それが、佐藤様の誠実さなんだと思います」
白石さんの言葉に、盾花は小さく頷いた。窓の外では、三月の柔らかな夕陽が、渋谷の街並みを橙色に染め始めていた。
その頃、部室に一人残ったトールは、最後の紙袋の中身を、そっと確かめていた。中に収められていたのは、控えめだが確かな輝きを放つ、小さな髪飾りだった。
「……氷華に、似合うといいが」
誰に聞かせるでもない呟きが、静かな部室に溶けていった。




