第085話:底の見えない日常
地下ダンジョン、第二十層。
普段トールたちが活動する階層に比べれば、児戯にも等しい安全域である。東城冴子は、この階層を視察先に指定していた。
「では、いつも通りの実技活動を、そのままお見せいただければ結構です」
東城はファイルを片手に、一同の少し後方から静かに歩を進める。その足取りには一切の無駄がなく、周囲への警戒も怠らない、明らかに現場慣れした者の歩き方だった。
「畏まりましたわ」
氷華が先陣を切り、いつも通りに杖を構える。盾花も大盾を携え、鯖江はドローンを一機、頭上に浮かべた。
トールだけは、いつも通り、特に気負う様子もなく、列の最後尾をのんびりと歩いていた。
通路の左右には、淡く発光する苔むした岩壁が続いている。第二十層は、初心者向けの実技演習にも使われる比較的安全な階層で、モンスターの出現頻度も低く抑えられていた。東城が視察先にこの階層を選んだのは、あくまで『安全な標準環境での実力確認』という建前を保つためだろう。
「普段は、もう少し深い階層で活動されているとお聞きしていますが」
「うむ。今日はお前たちに合わせて、浅い層にしてやった」
トールがあっさりとそう答えると、東城の筆記の手が、ほんの一瞬だけ止まった。『合わせてやった』という言い回しの意味を、正確に測りかねているようだった。
「……む。この階層、良い匂いがするな」
トールが不意にそう呟き、通路の脇に生えた野草へと視線を落とす。
「佐藤さん、視察中ですのよ!?」
「分かっている。だが、匂いは匂いだ」
トールがしゃがみ込み、興味深そうに野草を観察し始めると、東城の眉が、ほんの僅かに動いた。
(――視察中に、緊張感のかけらもない。演技には見えない。地なのか)
東城は静かにメモを取りながら、一同の後を追った。
* * *
通路を進んでしばらく、行く手の暗がりから、低い唸り声が響いた。
「来ますわね」
氷華が即座に反応し、杖を構え直す。
闇の中から姿を現したのは、この階層の相場通りの、レベル二十前後の中型モンスター――牙を剥いた巨大な猪型の魔物だった。この階層に配置される、いわば教科書通りの脅威である。
「氷華様、右から回り込みます!」
「承知!」
盾花が前に出て牽制し、氷華が呪文を唱え始める。鯖江のドローンも周囲を旋回し、状況を逐一記録していく。誰もが、いつも通りの、手慣れた連携の構えに入っていた。
(――この程度の相手なら、危険はない。予定通りの実技デモンストレーションだ)
東城が冷静にそう分析した、次の瞬間だった。
「……む。ちょうど良い」
しゃがみ込んだままだったトールが、摘んだ野草の匂いを確かめながら、ふと視線だけを猪へ向けた。
そして、片手に持った木刀を、振り向きもせずに、軽く一振りした。
――ヒュッ。
それだけだった。
猪型の魔物は、氷華の呪文が完成するより早く、盾花が前に出るより早く、まるで最初から存在しなかったかのように、光の粒子となって霧散していた。
「……あら?」
呪文を構えたまま、氷華がきょとんと立ち尽くす。
「え、もう終わったんスか?」
鯖江のドローンが、記録すべき戦闘の映像を、ついに一秒も撮ることができないまま、旋回を止めた。
「うむ。良い野草だ。これは白石殿の味噌汁に合うかもしれん」
トールは何事もなかったかのように立ち上がると、摘んだ野草をポケットにしまい、再びのんびりと歩き出した。
* * *
その一部始終を、東城は、ただ静かに見つめていた。
(――今の一振り。予備動作もなければ、狙いを定める素振りすらなかった。それどころか、視線すら向けていなかった)
彼女はこれまで、数多くの『規格外』を報告書の中で目にしてきた。突出した魔力量、異常な身体能力、規格外のスキル構成――そのどれもが、数値化し、分類し、対策を立てることのできる『異常』だった。
(だが、これは違う。強さを誇示するでもなく、警戒するでもなく、ただ興味の対象が野草に移っていただけ。この人物にとって、今の脅威は、脅威として認識されてすらいなかった)
底が知れない、というのは、こういうことを言うのだろう。東城は静かにそう結論づけながら、震えそうになる指先を、ファイルの上でそっと握り込んだ。
「……以上で、実技の確認は終了とさせていただきます。ご協力、感謝いたします」
東城は、努めて平静な声でそう告げると、丁寧に一礼した。
「もう終わりですの? あっけないですわね」
「ええ。十分な資料が得られましたので」
東城はそう言うと、静かにファイルを閉じた。その中には、猪型モンスターの討伐記録として、ただ一行、こう記されていた。
――対応時間、計測不能。脅威として成立せず。
* * *
視察の後片付けを終え、東城は一人、学園の正門で車を待っていた。
「――どうでした、視察は」
迎えに来た運転手に問われ、東城は静かに、しかし確かな熱を帯びた声で答えた。
「噂以上、としか言いようがないわね。今日のところは、これで十分」
「今日のところは、ですか」
「ええ。今すぐどうこうする段階じゃない。……でも」
東城は、渋谷の空を見上げながら、微かに口の端を上げた。
「いずれ、もう一度会いに来ることになると思うわ。あの底の見えなさは、放っておいていいものじゃない」
彼女を乗せた車が走り去った後、部室では、いつも通りの騒がしい日常が再開していた。
「危なかったですわね……。でも、佐藤さんったら、視察の最中まで野草に夢中になるなんて」
「悪癖の一つだと思って諦めろ」
トールが素っ気なく返すと、部室に、いつも通りの笑いが広がった。
誰にも気づかれないまま、水面下では、一つの静かな確信が育まれ始めていた。それが、この部室の平穏にとって何を意味するのか――今はまだ、誰も知る由もなかった。




