第083話:聖バレンタインと、氷の女王のひとひら
二月十四日、放課後。
「――というわけで、今年もバレンタインがやってまいりました!」
部室の扉を開けるなり、氷華が高らかに宣言した。その手には、リボンのかけられた小箱が誇らしげに掲げられている。
「わたくしのチョコレート、心して味わっていただきますわよ!」
「ずるいですわ、盾花さんのほうが先に――い、いえ、これは競争ではありませんでしたわね!」
自分で言い出しておきながら早口で訂正する氷華に、後から入ってきた盾花が苦笑しながら小箱を掲げた。
「わたしのは、ちょっと不格好かもしれませんけど……。心を込めて作りました」
「二人とも、お待たせしました」
最後に、白石さんが結衣ちゃんの手を引きながら、綺麗にラッピングされたガトーショコラの箱を手に部室へ入ってきた。
「わたしも作ったよ、パパ!」
「――む」
テーブルに三つの箱が並べられる光景を前に、トールは珍しく、木刀の手入れの手を止めて姿勢を正した。
「これは、盛況だな」
「盛況で済ませないでくださいまし! もっとこう、感動していただかないと!」
氷華が頬を膨らませる横で、鯖江が羨ましそうに三つの箱を見比べていた。
「いいなあ……。俺なんて今年も義理チョコすら来る気配ないっスよ」
「鯖江くんの分は、これですよ」
結衣ちゃんが、ポケットから取り出したくしゃくしゃの包み紙のチョコを、にこにこと差し出す。
「けちゃ、これは……!」
「結衣特製、友達チョコです!」
「うおおおおっ、ありがとうッス結衣ちゃん! 一生の宝物にするッス!」
感激のあまり涙目になる鯖江の姿に、部室が和やかな笑いに包まれた。
* * *
「まずは、わたくしから」
氷華が真っ先に小箱を差し出す。中には、艶やかな光沢を放つ、宝石のように整った一口サイズのチョコレートが並んでいた。
「ほう。見事な出来だな」
「で、でしょう! 何度も試作を重ねましたのよ!」
トールが一つ摘んで口に運ぶと、氷華は緊張の面持ちでその反応を窺った。
「……美味い。上品な甘さの中に、僅かな苦みが効いている」
「や――やりましたわ……!」
安堵と喜びが入り混じった声を上げる氷華に続き、盾花が自作の型で抜いた、盾の形をしたチョコレートを差し出す。
「これ、実家の技術を応用して作った型で……。ちょっと模様がズレちゃったんですけど」
「……ほう。俺の護りを象っているのか」
「わ、分かってもらえます!?」
トールが目を細めてしげしげと眺める様子に、盾花は嬉しそうに顔を輝かせた。一口食べると、素朴ながらも滋味深い甘さが広がる。
「素朴だが、丁寧な味だ。悪くない」
「あ、ありがとうございます……!」
最後に、白石さんと結衣ちゃんが並んでガトーショコラを差し出した。
「どうぞ、召し上がってください」
「パパ、わたしも一緒に作ったの!」
「うむ」
一口食べたトールの表情が、僅かに緩んだ。
「――これは、旨い。家庭的な、温かみのある甘さだ」
「良かった……」
白石さんがほっとしたように微笑む一方、結衣ちゃんは満面の笑みでぴょんぴょんと飛び跳ねていた。
三者三様の想いが込められたチョコレートを、トールは一つ一つ丁寧に味わい、それぞれに素直な感想を返していく。誰かを特別扱いすることも、誰かを蔑ろにすることもない、いつも通りの公平な態度だった。
「今年も、実に良いバレンタインだったな」
トールがそう締めくくると、部室は満足げな空気に包まれ、やがて解散の時間となった。
「それじゃあ私、先に本邸に戻りますね」
「俺も、召喚獣たちの世話があるんで失礼するッス」
「私たちも、そろそろ」
白石さんと結衣ちゃん、盾花と鯖江が、それぞれ部室を後にしていく。氷華も皆に続いて出口へ向かおうとした――が、その足が、扉の手前でふと止まった。
* * *
部室に、トールと氷華、二人だけが残された。
「氷華? どうかしたか」
「……佐藤さん」
振り返った氷華の顔からは、先ほどまでの陽気な調子が消えていた。その手には、もう一つ、小さな包みが握られている。
「実は、もう一つだけ、渡したいものがありますの」
「もう一つ? 先ほどのとは別か」
「はい」
氷華は、その小さな包みを、両手でそっとトールに差し出した。装飾もリボンもない、ごく質素な包みだった。
「先ほどのは、皆さんの前での、いつも通りのわたくしですわ。……でも、これは違いますの」
その声は、いつもの勝気な調子ではなく、消え入りそうなほど静かだった。
「不格好で、飾り気もありませんけれど……。今日、本当に渡したかったのは、こちらのほうですわ」
トールは無言でその包みを受け取ると、静かに開いた。中には、他の華やかなチョコレートとは違う、不揃いな、しかし丁寧に一つ一つ手で成形されたのだろう跡が残る、素朴な粒チョコが数個、収まっていた。
「これは、お前が一人で作ったのか」
「はい。誰にも手伝ってもらわず、レシピも見ずに、記憶だけを頼りに……。上手くはできませんでしたけれど」
氷華は俯きながら、震える声を絞り出した。
「わたくし、いつも意地を張って、負けず嫌いで、不器用にしか自分の気持ちを伝えられませんの。白石さんのように、自然に寄り添うことも、上手にできません。……それでも」
顔を上げた氷華の瞳には、これまで見せたことのない、真っ直ぐな光が宿っていた。
「わたくしなりのやり方で、貴方の隣に立ち続けたい。今日だけは、それを、ちゃんとお伝えしたかったんですの」
部室に、静かな沈黙が満ちた。窓の外から差し込む夕陽が、二人の間の空気を、橙色に染め上げていく。
トールは、その不揃いな粒チョコを一つ摘み上げると、静かに口へ運んだ。
「……」
しばしの沈黙の後、トールはゆっくりと口を開いた。
「不格好とは思わんな。丁寧に作られた味がする」
「……本当ですの?」
「ああ。それに」
トールは残りのチョコレートを、そっと自分の懐にしまい込んだ。先ほどの、皆から受け取った箱とは、明らかに違う扱いだった。
「これは、俺だけのものとして、大事にしまっておく」
その、ごく小さな仕草の差に、氷華の瞳が、みるみる潤んでいく。
「……佐藤さん」
「他の連中には、黙っておいてやる。……お前がそれを望むのならな」
トールにしては珍しい、気の利いた気遣いだった。氷華は堪えきれずに小さく嗚咽を漏らしながら、それでも精一杯の笑顔を浮かべた。
「……ありがとう、ございますわ」
窓の外で、二月の冷たい風が、それでもどこか優しく吹き抜けていく。
誰も知らない、氷の女王のひとひらの想いが、確かに届いた瞬間であった。
* * *
その夜、トールのスマホの画面に、誰にも見えない小さな一文が、静かに浮かんでは消えた。
『――今日のこと、わたくしは何も見ておりませんし、何も申し上げませんわ。ただ一つだけ』
『――良かったですわね、トール様』
トールは短く「うむ」とだけ返すと、懐にしまった小さな包みに、そっと手を添えた。
ハーレムの均衡は、これまでと変わらず保たれたまま。それでも、その天秤の片方に、確かな重みが一つ、静かに加わった夜であった。




