第082話:バレンタイン前夜、三者三様の挑戦
第082話:バレンタイン前夜、三者三様の挑戦
二月に入ると、渋谷代々木学園の街並みは、いつの間にか赤とピンクの装飾に彩られ始めていた。
「街中、なんかこう……浮ついてるッスね」
放課後、駅前を通りかかった鯖江が、ショーウィンドウに並ぶ色とりどりのチョコレートを眺めて呟く。
「浮ついているのはお前の感想であって、俺には無関係だ」
トールが素っ気なく答えると、鯖江は「ボスは今年も蚊帳の外っスね……」としみじみ呟き、代わりに自分がもらえるかもしれない義理チョコの皮算用を始めた。
だが、その部室の外れでは、水面下で三つの静かな戦いが、すでに始まっていた。
* * *
神宮寺本邸、料理特訓室(改)。
「――氷華お嬢様、お手が止まっておられます」
家庭教師よろしく傍らに控える専属メイドの声に、氷華ははっと我に返った。
「し、失礼しました……! 続けますわ」
テーブルの上には、湯煎にかけたクーベルチュールチョコレートの鍋と、真剣な顔で計量スプーンを構える氷華の姿があった。
(花嫁修業では、和食も洋食も一通り仕込んでいただきましたわ。チョコレートくらい、造作もないはずですのに……!)
だが、いざ本番を意識すると、普段の落ち着きはどこへやら、手元が不自然に震えてしまう。
「あっ……!」
温度計を確認しようとした拍子に、腕が鍋の縁に触れ、僅かに中身が跳ねた。
「氷華お嬢様、火傷には十分お気をつけを」
「わ、分かっていますわ! ただ、少し緊張しているだけで……!」
氷華は深呼吸を一つすると、改めて鍋に向き直った。
(誰に見られているわけでもありませんのに、なぜこんなに緊張するんですの……。いいえ、分かっていますわ。今年こそは、ただの一つとして渡すのではなく――)
脳裏によぎるのは、去年の自分だった。皆で賑やかに交換して終わった、あの他愛のない時間。今年は、それだけでは終わらせない。そう決めたのは、他の誰でもない、氷華自身だった。
* * *
佐藤家のペントハウス、キッチン。
「結衣、次はバターを入れますよ」
「はーい!」
白石さんの隣で、結衣ちゃんがエプロン姿で、真剣な顔でボウルをかき混ぜている。
「ママ、これでパパ、喜んでくれるかな?」
「ふふ、きっと喜んでくださいますよ。結衣が心を込めて作ったものですから」
白石さんは優しく目を細めながら、結衣ちゃんの頭を撫でた。二人で作るのは、生地に果物のピールを練り込んだ、素朴なガトーショコラである。特別に凝った意匠こそないが、丁寧に、丁寧に、何度も味見を重ねながら作られていく。
「わたしの分は、パパに。ママの分も、パパに?」
結衣ちゃんの無邪気な問いに、白石さんは一瞬だけ手を止め、それから小さく微笑んだ。
「ええ。私の分も、佐藤様に」
「けっこん……?」
「もう、結衣ったら」
白石さんは頬を染めながら、誤魔化すように結衣ちゃんの鼻先を軽くつついた。だが、その口元に浮かぶ笑みは、いつもよりほんの少しだけ、柔らかいものだった。
窓の外はすでに日が落ち、キッチンには甘い匂いと、二人分の温かい笑い声だけが満ちていた。
* * *
戌井鍛冶工房(東京出張所と化した、盾花の自室)。
「――よし。型はこれで完成っと」
盾花は、小さなアルミの塊を丁寧にヤスリがけしながら、満足げに頷いた。
彼女が作っているのは、チョコレート用の特製シリコン型――ではなく、まさかの金属製鋳型だった。実家の工房で使う『型に金属を流す』技術を応用し、盾花のトレードマークである小盾を象った、精巧な立体チョコレート型を自作していたのである。
「これなら、市販の型より断然綺麗に抜けるはず……!」
湯煎で溶かしたチョコレートを、慎重に自作の型へと流し込んでいく。手つきは、いつもの部活動で見せる大盾の整備と同じくらい、真剣そのものだった。
「あ――こら、待って、まだ固まってない……!」
冷蔵庫にしまう直前、少しだけ型が傾いて、表面に小さな模様のズレができてしまう。それでも盾花は気にした様子もなく、むしろ嬉しそうに笑った。
「これはこれで、味があっていいかも」
不器用ながらも、彼女らしい創意工夫が詰まった、世界に一つだけの盾形チョコレート。完成予想図を思い浮かべながら、盾花は静かに冷蔵庫の扉を閉めた。
* * *
バレンタイン前夜。
それぞれの持ち場で、それぞれのやり方で、三人の女の子が静かな戦いを終えようとしていた。
「明日は、いよいよですわね……」
氷華は完成した高級チョコレートの箱を眺めながら、小さく呟いた。
誰に見られるでもなく、ただ自分自身に言い聞かせるように。
「頑張りましたよ、結衣」
「うん!」
白石さんと結衣ちゃんは、綺麗にラッピングされたガトーショコラを前に、満足げに頷き合っていた。
「よし、完璧――は言い過ぎだけど、まあまあ格好いい出来じゃないかな」
盾花は、模様が少しだけずれた盾形チョコレートを箱に詰めながら、独り言のように笑った。
誰も知らない、三者三様の一夜が更けていく。
その一方で、当のトールはといえば。
「……む。今日の夕飯は少なかった気がするな。夜食に何か腹に入れておくか」
台所を漁りながら、いつも通りの、あまりにも普段通りの一夜を過ごしていたのであった。




