第081話:三学期の始業式と、忍び寄るチョコレートの気配
一月中旬。二年参りの余韻もまだ冷めやらぬ渋谷代々木学園に、三学期の始業式の朝がやってきた。
「――というわけで、三学期は短いようで長い。気を抜くな」
体育館の壇上、校長の型通りの挨拶が続く中、Eクラスの列の最後尾で、トールは大きな欠伸を噛み殺していた。
「……む。この儀式は、いつまで続くのだろうな」
「佐藤さん、静かに。校長先生のお話ですわよ」
隣に立つ氷華が、そっと肘で小突いてくる。だが、その氷華自身も、退屈そうに小さく足踏みを繰り返していた。
「体育館、寒いッスね……」
「鯖江くん、鼻水垂れてますよ」
盾花が呆れたように囁くと、鯖江は慌てて袖で鼻を拭った。列の少し離れたところでは、結衣ちゃんが小学部の集団に混じって、退屈そうに大きく伸びをしている。
いつも通りの、騒がしくも平和な冬の朝だった。
* * *
放課後の部室。
「――というわけで、三学期最初のホームルームで発表があった。期末テストは二月上旬。範囲はこれまでの実技全般だ」
凪教官の淡々とした報告に、部室の空気が僅かに引き締まる。
「まあ、お前たちが本気を出せば、今更心配するようなことは何もないだろうがな」
「教官、それ本人たちに言うと調子に乗るので、あまり言わないほうがいいと思います」
盾花の冷静な指摘に、凪教官は「一理あるな」とだけ言って踵を返した。
「テストか。まあ、悪くない」
トールがソファーに寝転がりながら呟く。実技試験に関しては、もはや誰も彼の心配などしていなかった。
「それより――」
白石さんが、キッチンから湯気の立つ湯呑みを運んできながら、ふと思い出したように口を開いた。
「お正月に、盾花さんの工房のこと、少し話題になっていましたよね。あれから、何か進展はありましたか?」
「あ、はい! 実はそれなんですけど」
盾花が待ってましたとばかりに、鞄からタブレットを取り出した。
「地元のケーブルテレビが、母の工房を取材したいって連絡してきたんです。業界誌の記事を見た人が、番組に紹介してくれたみたいで」
「テレビ、とはまた大きく出たな」
「はい……。母はすごく緊張してるみたいですけど、少しでも工房が知られるきっかけになるならって、快く受けてました」
盾花は誇らしさと気恥ずかしさが入り混じった表情で、タブレットの画面を皆に見せた。地元局の取材予定を伝える、母親からの短いメッセージが表示されている。
「良かったな」
トールが素っ気なく、しかし確かな温かみを込めて呟いた。
「はい……! ありがとうございます」
盾花が小さく頭を下げる横で、氷華がにこやかに拍手を送る。
「素晴らしいことですわ。盾花のお母様の腕が、正当に評価される日が来たということですもの」
「氷華ちゃんにそう言ってもらえると、なんだか実感が湧きます」
和やかな空気が部室を満たす中、トールの膝の上のスマホが、誰にも気づかれないほど微かに振動した。
『――ちなみに、この取材の件、局のスタッフに紛れて、業界の動向を探るような素性の人間が一人混ざっているようですわ。今のところ害意は感じませんけれど、念のため注視しておきますわね』
イシュラーナからの、ごく短い私信だった。トールは短く「うむ」とだけ返し、それ以上は何も言わなかった。まだ形にならない小さな気配を、いたずらに騒ぎ立てる必要はない。それが、この数ヶ月で彼女が身につけた分別だということを、トールはよく知っていた。
* * *
テストの話題が一段落した頃、部室の隅で年間予定表を眺めていた鯖江が、ふと声を上げた。
「あ……。来月、バレンタインじゃないっスか」
その一言に、部室の空気が一瞬、不自然な静けさに包まれた。
「バレンタイン……」
最初に反応したのは氷華だった。頬に、僅かに緊張の色が走る。
「そ、そういえば、そんな季節でしたわね……!」
「氷華ちゃん、今すごく分かりやすい顔してますよ」
「な――! し、してませんわ! ただの世間話への反応ですもの!」
盾花のからかいに、氷華が慌てて取り繕う。その隣で、白石さんは湯呑みを片付けながら、いつも通りの穏やかな微笑みを浮かべているだけだった。だが、その手つきが、ほんの一瞬だけ止まったことに気づいたのは、トールだけだったかもしれない。
「バレンタイン、とは?」
唯一状況を飲み込めていないトールが、素朴な疑問を口にする。
「お、俺が説明するッス! 女子が男子にチョコレートを渡して、好意を伝える日っス!」
「ほう。菓子を贈る風習か。それは、実に良い風習だな」
トールが好意的に頷くと、氷華の顔が、さらに赤みを増した。
「そ、そういう単純な話でもありませんのよ……! もっとこう、色々と、意味合いというものが……!」
「意味合い、とは」
「そ、それは……その……」
しどろもどろになる氷華を見て、白石さんが助け舟を出すように、ふふ、と小さく笑った。
「気持ちを込めて、特別な人に贈るお菓子、ということですよ、佐藤様」
「特別な人、か」
トールは短く復唱すると、特に深い意味も持たせずに頷いた。彼にその意図が正確に伝わっているかどうかは、この場にいる誰にも判断がつかなかった。
「――と、とにかく! 今年のバレンタインは、色々と気合を入れて臨む所存ですわ!」
氷華が誰にともなく宣言すると、盾花と白石さんも、それぞれ小さく笑みを交わした。三人の視線が、ほんの一瞬だけ交錯する。それは決して険悪なものではなかったが、確かな熱を帯びた、静かな火花のようなものだった。
「わたくしも、負けませんので」
「わたしも、頑張ります」
「私も、結衣と一緒に腕によりをかけますね」
それぞれの決意を胸に秘めながら、部室にはいつも通りの、しかしいつもより少しだけ浮き立った空気が流れていく。
窓の外では、まだ冷たい一月の風が、渋谷の街を吹き抜けていた。だが、その風の中に、ほんの微かに、二月の甘い予感が紛れ込み始めていることに――このときのトールだけは、まだ気づいていなかった。




