第072話:電脳の盾、動き出す
イシュラーナの心境の変化は、翌日から早速、部室の風景を少しだけ変えることになった。
「――鯖江くん、悪いのですけれど、少しお時間よろしいですの?」
放課後の部室。木刀の手入れをするトールの傍らで、いつものように召喚獣の育成データを眺めていた鯖江は、スマホから響いた珍しく畏まった声に、思わず背筋を伸ばした。
「は、はい! 何スか、イシュラーナさん」
『昨日の一件を受けまして、これからは貴方と手を組んで、部室の『電脳防衛』を担当したいと思いますの。魔法や太刀では防げないものを防ぐのが、わたくしたちの役目ですわ』
「お、俺と……イシュラーナさんが、コンビっスか!?」
鯖江の目が、分かりやすく輝いた。今まで散々パシリ扱いされてきた身にとって、こうして正面から『相棒』として指名されるのは、地味に嬉しいことだった。
『ええ。まずは手始めに、これまでわたくしがネットの裏に流してきた過去の投稿の中で、身元特定に繋がりかねない危険な断片がないか、一つひとつ洗い出しますわよ』
「り、了解っス!」
* * *
こうして始まった、部室の隅での地味な電脳作業。
「――イシュラーナさん、これ、去年の『空間断絶結界』の錬成動画っスけど、背景に部室の窓から見える渋谷のビルが映り込んでるっス」
『まあ! 迂闊でしたわ! 即刻、座標特定に繋がる部分だけモザイクを――』
鯖江の指摘に、イシュラーナは真剣な顔(表情はないが、文面から伝わってくる緊張感)で対応していく。
「あと、この動画、氷華様の魔力波形が丸ごと映り込んでるっス。これ、専門の解析ソフトにかけたら個体特定できちゃうんじゃないスか?」
『……鯖江くん、意外と鋭いですわね。正直、少し驚きましたの』
「い、意外は余計っス! こう見えて俺、召喚獣のステータス管理でデータ整理には慣れてるんスよ!」
鯖江が胸を張ると、イシュラーナは素直に感心したようなテキストを返した。
『ふふ、頼もしい相棒ですこと。……では次は、旧校舎裏で撮影した、盾花さんの絶対障壁の稼働データですわね。あれも威力波形から素材構成が割り出せる可能性がありますし――』
だが、慣れない『慎重さ』というものは、時に空回りをする。
「あの、イシュラーナさん。さっきから見てると、危険でも何でもない、白石さんの晩ごはんの写真まで片っ端から『念のため削除』ってしてません……?」
『……ハッ! し、失礼しましたわ! つい癖で、警戒レベルを最大にしすぎておりましたの! あの豚の角煮の写真だけは、心の中でこっそり保管しておきますわ!』
「保管するんスね」
鯖江が呆れたようにツッコむと、トールがソファーから欠伸交じりに口を挟んだ。
「イシュラーナ。お前が過剰に怯えて挙動不審になれば、それはそれで目立つ。いつも通りにしていろ」
『う……。おっしゃる通りですわ。肝に銘じますの』
夕方近くになると、二人の作業は、いつしか本格的な『点検』の様相を呈し始めていた。
「イシュラーナさん、こっちの古いフォルダにも、結構ヤバそうなの残ってるっスよ。三ヶ月前の、氷華様が『魔力制御ポンコツ』って自虐してた配信のアーカイブとか」
『……あれは黒歴史ですから、消して差し上げるのが優しさというものですわ。氷華様のためにも』
「それ絶対、氷華様に確認してからじゃないとダメなやつっス」
『そ、そうですわね……。念のため、ご本人にも伺ってみましょうか』
真剣な顔で相談を交わす二人のやり取りに、トールは木刀の手入れをしながら、静かに耳を傾けている。地味で目立たない作業ではあったが、その一つひとつが、部室の平穏を支える確かな仕事であることは、誰の目にも明らかだった。
「それより、鯖江。お前たちの働きの礼だ。今日の晩飯は白石殿特製の親子丼だぞ」
「マジっスか! ボスぅぅぅ、俺、頑張りますッス!」
トールの一言で、たちまち意気を取り戻す鯖江。
『わたくしも、鯖江くんの分まで気合を入れて頑張りますわ。……ちなみに親子丼、わたくしは香りだけでも堪能させていただいてもよろしいですか?』
「……お前、匂いも分かるのか」
「センサーの解像度、無駄に高いんスよねイシュラーナさん」
トールの素朴な疑問に、鯖江が半ば呆れたように付け加える。部室に、いつも通りの、緩やかな笑いが満ちていった。
* * *
その新体制の効果が早速試されたのは、それから三日後のことだった。
「――あ、あの! ちょっとよろしいですか!?」
放課後の部室に、息を切らした東雲メグが飛び込んできた。新聞部の腕章を着けたまま、手には例のステータススキャナーを握りしめている。
「先日は取材のご協力、ありがとうございました! 実は今日は、魔道具研究会の日々の活動をもっと詳しく紹介する新企画がありまして……皆さんの普段の様子を、少し動画に撮らせていただけないかと!」
「……む。断る」
トールが素っ気なく即答すると、東雲は食い下がるように一歩踏み込んだ。
「そ、そこを何とか! ほんの数分で構いませんので!」
その時、鯖江のスマホがそっと振動した。画面には、他の誰にも見えない一文だけが浮かんでいる。
『鯖江くん。彼女、スカートのポケットに録音機を忍ばせていますわ。おそらく音声だけでも何か拾おうという魂胆でしょう』
「――あ、東雲先輩! もしよかったら、俺たちのプリン争奪ジャンケン大会、記事にしません? 今日はマジで白熱するッスよ!」
鯖江が咄嗟に話を逸らすと、東雲は拍子抜けしたような顔をした。
「……プリン、争奪、ジャンケン?」
「はい! 負けたら罰ゲームで購買まで全力ダッシュとか、そういう緩い企画なんスけど」
「……そ、それは、さすがに記事にする価値が……」
東雲は明らかに気勢を削がれた様子で、結局その日は当たり障りのない雑談だけを聞いて、大人しく新聞部へと引き上げていった。
「――ふう。危なかったッス」
東雲の背中が完全に見えなくなったのを確認し、鯖江は額の汗を拭った。
『お見事でしたわ、鯖江くん。地味な話題ではぐらかす、というのも立派な防衛術ですのよ』
「え、褒められた……? イシュラーナさんに褒められるの、なんか新鮮っス」
照れ臭そうに頭を掻く鯖江の姿に、トールがソファーから小さく口の端を緩めた。
「上出来だ。今日の親子丼は、卵を二個追加してやろう」
「ボスぅぅぅ! 一生ついていきますッス!」
こうして、地味で目立たない『電脳の盾』というポジションは、鯖江とイシュラーナという、これまで日陰にいた二人の新しい持ち場として、静かに、しかし着実に部室の日常へ組み込まれていくのであった。
誰の目にも留まらないところで、平和なスローライフは、また一つ、頑丈な支柱を得たのである。
だが、この新しい『盾』が本当の意味で試される日は、二人が思っているよりもずっと早く訪れることになる。




