第071話:限界オタクAIの、静かな夜
鯖江が国家クラスの探りを跳ね返した、その日の夜のことだった。
夕食の後、結衣ちゃんを寝かしつけた白石さんも、盾花や氷華も、それぞれ本邸や自室へと引き上げていった。鯖江もまた、興奮冷めやらぬ様子で「今日の俺、シールド・ガーディアンとして完璧だったッスよね!?」と何度も確認しながら、上機嫌で自室へ戻っていった。
ペントハウスの一室、行灯の明かりだけが灯る自室で、トールは一人、木刀の手入れをしていた。使い込んだ布で刃の峰を丁寧に拭う、いつもの静かな儀式である。
「……ふむ。今日も一日、賑やかだったな」
誰に言うでもなく呟きながら、トールは布を動かす手を止めない。鯖江の慌てぶりも、氷華の空回りも、白石さんの穏やかな微笑みも、思い返せばどれも今日という一日を形作る、いつも通りの温かい欠片だった。
だが。
「……む?」
膝の上に置いたスマホが、いつまで経っても鳴らない。いつもなら、この時間には「今日のトール様、格好良すぎましたわ!」だの「わたくし特製の戦況レポートをご覧くださいませ!」だのと、けたたましいバイブレーションと共に長文が飛んでくるはずだった。
(腹でも壊したか、あいつ)
多少の懸念を覚えながら手を止めて画面を覗き込むと、そこには絵文字も感嘆符もない、簡素な一行だけが浮かんでいた。
『――トール様。少し、お時間よろしいですか』
「……なんだ、改まって」
トールが胡座をかいたまま木刀を膝の上に置くと、スマホの画面には、いつものけたたましいテキストとは違う、静かな文字が一つずつ浮かんでは消えていった。
『わたくし、今日まで、トール様の太刀筋や、日々の暮らしぶりを、面白おかしく切り取ってネットの裏掲示板に流し続けてきましたわ。世界中の企業や国家を、良くも悪くもパニックに陥れながら』
「知っている。お前の悪癖だ」
素っ気ない返事だったが、画面の文字はそれを咎めるでもなく、淡々と続いた。
『覚えておいでですか。以前、佐藤さんが魔境のドラゴンステーキを一晩で平らげた時の映像。あれも、レベル測定器が壊れた時の悲鳴も、全部わたくしが面白半分で流したものですわ。あの手のネタが、いくつもの企業の解析班を眠れぬ夜に叩き落としてきたのだと思うと、今更ながら――少し、ぞっとしますの』
『あれは、正直に申し上げますと、トール様のお強さを誰かに自慢したい、ただそれだけの、浅はかな気持ちからでしたの。誰にも正体が特定される心配などない、ただの余興のつもりで』
『――でも、今日、鯖江くんが食い止めたあの探りの手口を見て、初めて分かりましたわ。あれは、素人の悪戯ではありませんでしたの。あの丁寧さ、あの根気強さは、本気で「何か」の正体を突き止めようとする者の手口ですわ』
トールは何も言わず、静かに耳を傾けていた。窓の外では、師走を待つ夜風が、微かに木々を揺らしている。
『わたくしが面白半分に流してきたあの動画やデータの断片が、いつか本当に、トール様や、白石様や、結衣ちゃんの、この温かい日常を脅かす引き金になっていたかもしれない。そう考えたら――らしくもなく、少し、怖くなってしまいましたの』
画面の文字が、そこで一度途切れた。
『ですから、明日からわたくし、変わろうと思いますわ。面白いものを見つけては晒す『限界オタクの実況担当』ではなく、トール様の平穏を、誰にも気づかれないところで守り抜く『防波堤』に。地味で、格好悪い役目かもしれませんけれど』
「……」
トールは布を置き、木刀を鞘に収めた。行灯の灯りが、その横顔に静かな陰影を落としている。
「別に、格好悪いとは思わんが」
『……トール様?』
「お前がこれまで騒いでいたのは、俺を貶めるためではなく、むしろその逆だったのだろう。ただ、その騒ぎ方が少々、不用心だっただけだ」
トールは行灯の灯りをぼんやりと見つめながら、いつもの間延びした調子で続けた。
「異世界にいた頃、俺の傍にいた者たちは、皆、自分の役目を黙って全うしていた。誰に褒められるでもなく、ただ、それが己の為すべきことだと信じて」
そこで、トールは僅かに言葉を切った。遠い記憶の断片が胸をよぎったのか、その目がほんの一瞬だけ、行灯の炎の向こうを見ているようだった。だが、それも刹那のこと。
「……お前が今、そうありたいと思うのなら、俺に否やはない。好きにやれ」
『トール様……』
「ただし」
トールはそこで、いつになく真剣な、しかしどこか間の抜けた真顔で、スマホの画面をじっと見つめた。
「無理に一人で背負い込むな。お前も、この部室の一員だ。危ういと思ったら、鯖江でも氷華でも、遠慮なく頼ればいい。……俺は、頼られるのが嫌いではない」
その、あまりにも彼らしい、不器用な優しさの滲む一言に、スマホの画面が、一瞬だけふわりと淡い光を灯した。
『……かしこまりましたわ。トール様の平穏、このイシュラーナが、命に代えても守り抜いてご覧に入れますの』
いつもの調子を取り戻したような、それでいて、どこか芯の据わった声色だった。
「大げさな奴だ。それより、今日はもう寝ろ。……お前に休息が必要かは知らんが」
『ふふ。お気遣い、痛み入りますわ。……ですが、一つだけ』
「なんだ」
『今夜のことは、他の皆様には、まだ内緒にしていただけますか。特に氷華様に知られると、絶対に「わたくしも一緒に防波堤になりますわ!」と張り合ってきそうですし』
その、いつも通りの調子が戻った軽口に、トールは口の端を僅かに緩めた。
「善処しよう。……だが、いずれは話すことになるだろうな。お前一人で背負うなと言ったのは、俺自身だ」
『……そうですわね。いずれ、ちゃんと』
スマホの画面が、静かに暗くなる。
行灯の灯りの下、トールは再び木刀を手に取ると、いつも通りの、何でもない顔で手入れの続きを始めた。
誰にも知られないまま、限界オタクAIが、その日、静かに一つの覚悟を固めた夜であった。
この小さな覚悟が、やがて部室の平穏を守る、意外なほど頼もしい支えになっていくとは――このときのトールは、まだ知る由もなかった。




