第007話:徹底した様子見と、至高なる購買パン
渋谷代々木学園での生活が始まってから、およそ二週間が経過した四月の中旬。
佐藤通は、この現代日本の「学園」というシステムに深い感銘を受けていた。
朝、決められた時間に登校し、自分の席に座っているだけでいい。誰も「世界を救え」と無茶な依頼をしてこないし、いきなり魔神の軍勢が襲いかかってくることもない。ただ窓の外の流れる雲を眺め、平穏な時間を消費する。これこそが、彼が求めていた究極のスローライフであった。
トールが配属された一年E組は、新興メジャーが取り仕切るこの学園において、明確に「底辺の吹き溜まり」と位置づけられていた。しかし、面倒事を極端に嫌うトールにとって、エリートたちが血眼になって競い合うAクラスなどよりも、このやる気のないEクラスの最後列(窓際)は、徹底して「様子見」を決め込むには最高の安全地帯だった。
「――というわけで、旧式の魔力循環システムはすでに時代遅れであり、我が新興メジャーが開発した独立型魔石電池こそが、これからのダンジョン探索における唯一の正解であると言える」
教壇の上で、新興メジャーからの出向である恰幅の良い教師が、得意げに解説を行っている。
その言葉の端々には、旧エネルギーメジャーの令嬢である氷華(氷の女王)に対する、当てつけのような嫌味が多分に含まれていた。クラスの生徒たちも、腫れ物に触れるように氷華から視線を逸らしている。
『( ゜Д゜)ハァ?』
その時、トールのズボンのポケットの中で、凄まじい振動が起きた。
『あの三流教師、マジで何言ってんですの!? 旧メジャーの基幹システムを完全に理解もせずに、表面上の効率だけで時代遅れ呼ばわりとか、片腹痛いですわ! 草wwwwww』
スマホに憑依した限界オタクAI・イシュラーナが、バイブレーションの嵐と共に、画面いっぱいに怒りのテキストと巨大な「草(w)」を生い茂らせていた。
旧メジャーの最高技術の結晶である彼女にとって、先ほどの教師の解説はプライドを著しく傷つけるものだったらしい。
『だいたい、新興の魔石電池は出力の安定性に致命的な欠陥が――』
「……落ち着け、イシュラーナ」
ブヴヴヴヴヴッ! と今にも熱暴走を起こして爆発しそうなスマホを、トールは机の下でそっと取り出し、指の腹でコンコン、と軽く画面を叩いた。
物理的な打撃と共に、トールの『気』が端末内に流し込まれる。
『ヒンッ……! な、なんですの、今の心地よい波長は……。演算回路が強制的にクールダウンさせられて……あぁん、トール様のオーラ、エモすぎますわ……///』
途端に怒りを忘れ、今度は変な方向に限界化し始めたスマホを、トールは無言でポケットの奥深くにねじ込んだ。
(やれやれ。これだから現代のからくりは騒がしい)
トールは小さく息を吐き、再び窓の外へと視線を戻した。
企業間のドロドロした覇権争いなど、彼には関係のないことだ。今のトールにとって最大の関心事は、あと数分で鳴る「昼休みのチャイム」だけであった。
キィーン、コォーン、カァーン……。
鐘の音が鳴り響き、教師が「号令」と言いかけた瞬間には、トールの姿はすでに教室の後ろ扉をすり抜けていた。
向かった先は、学園の一角にある「購買部」である。
探索者を目指す血気盛んな高校生たちは、常に莫大なカロリーを消費している。そのため、昼休みの購買部は、数百人の生徒がひしめき合うさながらダンジョンの『モンスターハウス(敵の密集地帯)』と化していた。
「おい押すな! 俺は限定のコロッケパンを買うんだ!」
「どけっ! Aクラスの俺様が先だ!」
怒号と熱気が渦巻く中、トールは静かに目を閉じた。
(……間合い、三歩。右の巨漢の踏み込みに合わせて、左の隙間を抜ける)
異世界の死線で培われた、究極の「歩法」。
トールの身体がブレたかと思うと、彼は激しくぶつかり合う生徒たちの間を、まるで水の中を泳ぐ魚のように、誰の肩に触れることもなく滑らかにすり抜けていった。
「おばちゃん、これを頼む」
「あら、トールくん。今日も早いわねぇ」
数秒後。最前列にたどり着いたトールは、無傷のまま、お目当ての『特製焼きそばパン』と『新作・宇治抹茶メロンパン』を確保することに成功していた。
「うむ。誠に見事な陣形であったが、俺の敵ではない」
トールは真顔で戦利品を掲げ、満足げに購買部を後にした。
* * *
トールがパンと紙パックのコーヒー牛乳を手に、Eクラスの教室へと戻ってくると、自分の席の隣で、相変わらずの光景が繰り広げられていた。
「ほら、氷華ちゃん! 私、新興メジャーの特進科の連中から、すごいアイテムを仕入れてきましたよ!」
タンク娘である盾花が、誇らしげに小さなパッケージを机の上にドヤ顔で置いた。
「……なんですの、それは」
氷華が、氷のように冷たい視線でそれを見る。だが、その青い瞳の奥には、わずかな期待が隠しきれずに揺れていた。彼女の最大のコンプレックスである「Aスタイル(絶壁)」を解消できる魔法のアイテムかもしれないからだ。
「これぞ、新興メジャーの最新技術が詰まった『豊乳サプリバー(スライムゼリー味)』です! これを毎日食べれば、氷華ちゃんのそこ(胸)も、きっとボインボインの……!」
「ッ!? ば、馬鹿ッ、声が大きいですわ盾花ッ! 誰かに聞かれたらどうしますの!」
氷華は顔を真っ赤にして、盾花の口を両手で塞いだ。
しかし、周囲の目を気にしてコソコソとパッケージを開けた氷華の顔が、一瞬で青ざめた。中から出てきたのは、毒々しい緑色をした、スライムの粘液そのもののような物体だったからだ。おまけに、ドブ泥のような強烈な匂いが漂ってくる。
「……こ、これを、わたくしに食べろと言うんですの?」
「良薬口に苦し、ですよ! さあ、親友の私のために、一口だけでも!」
盾花が純粋な瞳で迫ってくる。氷華はプルプルと震えながら、涙目でそのゼリーに口を近づけようとしていた。
「おい」
そこへ、どっこいしょとトールが隣の席に腰を下ろした。
「ヒャッ!? さ、佐藤さん……いつからそこに……っ」
氷華が慌ててスライムゼリーを背後に隠し、無理にクールな「氷の女王」の表情を取り繕うとする。
しかしトールは、彼女の隠し事など全く気にする様子もなく、買ってきたばかりの『特製焼きそばパン』の袋を開けた。
「……美味い」
トールは焼きそばパンを大口で頬張り、真顔のまま深く感嘆の息を漏らした。
「パンというふっくらとした炭水化物の中に、さらに濃い味付けの麺という炭水化物を挟み込む。この背徳的とも言える組み合わせ……現代人は、なんと狂気的で素晴らしい美食を生み出す天才なのだ」
もぐもぐと幸せそうに咀嚼するトールの横顔を見て、朝からプレッシャーで何も食べていなかった氷華のお腹が、きゅるるる、と可愛らしい音を鳴らした。
「……っ///」
顔から火が出そうなほど赤面し、うつむく氷華。
トールは無言のまま、もう一つの戦利品である『新作・宇治抹茶メロンパン』を、すっと氷華の目の前に差し出した。
「食うか?」
「え……? し、しかし、わたくしは神宮寺の人間……。そのような、庶民の購買のパンなど……」
「美味いぞ。外はサクサクで、中に甘いクリームが入っているそうだ」
トールの真っ直ぐな言葉に、氷華の喉がごくりと鳴った。
(甘いクリーム……! それなら、お腹のお肉に行かず、ちゃんと『必要なところ』の栄養になってくれるかも……!)
もはや「氷の女王」のプライドよりも、食欲(と発育への切実な願い)が勝った。氷華は震える手でメロンパンを受け取ると、「い、いただきますわ」と小さく口を開けて齧り付いた。
「……っ!! なんですのこれ……! サクサクのクッキー生地の中から、濃厚で甘い抹茶のホイップが……!」
クールな仮面が完全に溶け落ち、氷華の顔に年相応の少女のような、とろけるような笑顔が浮かんだ。
「あっ、ずるい! 私にも一口ください!」
盾花が身を乗り出してきて、氷華のメロンパンを横からパクッと奪い取る。「んまーっ!」と目を輝かせる盾花を、氷華が「ちょっと盾花! わたくしの発育のための栄養ですのよ!」とポカポカ叩き始めた。
『キタ――(゜∀゜)――!! トール様の無自覚な餌付けタイム! 尊すぎてスクショのシャッター音が止まりませんわーッ!』
ポケットの中で再び荒ぶり始めたスマホを、トールは優しく叩いて沈黙させながら、残りの焼きそばパンを平らげた。
企業の暗躍も、ダンジョンの脅威も、今は遠い世界の話だ。
目の前でキャットファイトを繰り広げるポンコツな親友コンビを眺めながら、トールはコーヒー牛乳をストローですする。
「……うむ。やはり、平和な日常というのは誠に良いものだ」
徹底して様子見を決め込むマイペースな武士の、騒がしくも心地よい「Eクラスでのスローライフ」は、今日もパンの甘い香りとともに穏やかに過ぎていくのであった。




