第064話:新興メジャー、退場す
新興ダンジョンメジャー本社、最上階の役員会議室。
常務・黒羽の前に置かれたタブレットには、三件の無味乾燥な報告書が並んでいた。
「――特許無効審判の件、三件とも棄却されました。審査官の所見によれば、神宮寺グループの新技術は『既存のいかなる魔道工学の延長線上にもない、分類不能な技術体系』であり、類似特許による無効化は不可能とのことです」
「……株の方は」
「そちらも、芳しくありません。空売り筋にこちらのダミー口座の動きを先読みされていたようで、静かに買い集めるどころか、逆にこちらの買い注文そのものが投機筋に利用され、含み損だけが積み上がっております。第028話の一件(カチコミ後の空売り騒動)以来、市場はウチの動きそのものを警戒しているようです」
黒羽の眉間に、深い皺が刻まれる。
「……最後の一枚は」
「戌井鍛冶工房の債権の件ですが……つい先日、出所不明の高純度ダンジョン鉱石が同工房に納入されたとの情報が入りました。以後、資金繰りは急速に改善しており、もはや我々が握っていた債権そのものに、脅しとしての意味がなくなっています」
「……三つとも、か」
黒羽は椅子に深く沈み込み、初めて感情らしい感情を滲ませた、乾いた笑いをこぼした。
「金も、法も、時間も。すべて先回りされていた、ということか。……いや、先回りされていたのではないな。あちらは、こちらが何を仕掛けてくるかなど、そもそも気にも留めていなかった。ただ、目の前の飯と、目の前の人間関係を大事にしていただけだ。それだけで、我々の三つの刃は、振り下ろす前から折れていた」
「じょ、常務。今後の方針は……」
黒羽は静かに立ち上がると、窓の外に広がる渋谷の夜景を見下ろした。
「――撤退する。神宮寺家、および渋谷代々木学園の魔道具研究会への直接的な干渉は、以後、一切禁止だ」
「て、撤退ですか!? しかし、あの技術を放置すれば……」
「放置するのではない。手を引くのだ。これ以上あの連中に関わり続ければ、次に潰れるのはウチの方だという確信が持てた。……それに」
黒羽は懐から一枚の社内文書を取り出した。取締役会からの、彼自身の更迭を告げる辞令だった。
「どのみち、私の首はここまでのようだ。後任には、もう少し賢いやり方を教えておいてやろう。――君たちがもし今後もあの企業(謎の天才集団)を追うのなら、私からの忠告はただ一つだ。奴らを『敵』として見るな。奴らは、ただ機嫌よく飯を食っているだけの、天災のようなものだ」
黒羽はそう言い残すと、シュレッダーの電源を切り、静かに会議室を後にした。
――新興ダンジョンメジャーが、渋谷代々木学園の魔道具研究会に対する直接的な攻勢を完全に停止した、その日のことである。
* * *
同じ頃。都内の、とある省庁の一室。
窓のない会議室で、地味なスーツ姿の官僚が、分厚いファイルを机に置いた。
「――旧エネルギーメジャーと新興ダンジョンメジャー、両者の非公式な小競り合いが、ここ数ヶ月でようやく落ち着きを見せています。原因は、渋谷代々木学園に通う、とある学生グループのようです」
「民間企業同士の喧嘩に、国が首を突っ込む必要があるのか?」
「――あります。彼らが生み出しているオーパーツ級の技術は、もはや民間企業のレベルを超えています。国家のエネルギー安全保障、ひいては防衛技術にも関わる可能性がある。……このまま民間企業同士の駒として扱われ続けるのは、いささか看過できません」
官僚は、ファイルの表紙に貼られた一枚の写真――部室で欠伸をする、どこにでもいそうな冴えない男子生徒の写真――を、静かに見つめた。
「一度、然るべき筋から接触してみるべきかもしれませんね。……民間企業よりも、もう少しだけ『分かっている』大人が」
* * *
渋谷のペントハウス。
「……クシュンッ!」
「あら、佐藤様。また風邪ですか?」
「いや……また、どこか遠くで、何か面倒事の気配がした気がしただけだ」
トールは特に気にした様子もなく、白石さんの淹れてくれた温かいほうじ茶をズズッとすすった。
新興メジャーという長年の脅威が、静かに、そして呆気なく戦線から退いていくその裏側で。
より大きく、より厄介な影が、ゆっくりとこちらへ近づきつつあることに――マイペースな武士は、まだ何一つ気づいていなかった。
ただ、今日の夕飯が何になるのか。彼の頭の中には、それ以上に優先すべき議題など存在しなかったのである。




