第004話:試着室の死闘と、ネクタイの結び方
4月5日、日曜日。
無数の人々が行き交う渋谷の巨大デパートの一角で、佐藤通は完全に気圧されていた。
「……人が、多いな。魔物の群れの比ではないぞ」
普段は着流し姿のトールだが、今日は外出用にと白石さんが見繕ってくれた現代の私服――シンプルな白いTシャツに薄手のジャケット、そして細身のチノパン――に身を包んでいる。鍛え抜かれた体躯のおかげで服自体は似合っているのだが、本人は「布地が窮屈だ。いざという時、太刀が振りにくい」と不満げである。
「もう、佐藤様。そんな険しい顔で周囲を睨みつけないでください。周りの方が怖がっていますよ」
隣を歩く白石さんが、トールの袖をちょいちょいと引っ張った。
今日の彼女は、いつものエプロン姿とはうってかわって、休日の「大人の女性」のお出かけスタイルだった。身体のライン――特に豊満な胸元――が強調される淡いピンク色のリブニットに、ふわりとしたフレアスカート。ほんのりとメイクもしており、歩くたびにフローラル系の甘い香りが漂ってくる。
すれ違う男性たちが次々と白石さんに目を奪われていることに、トールは(隙だらけの街だな)と見当違いの感想を抱いていた。
『キタ――(゜∀゜)――!! 私服デート! 人妻との休日お買い物イベントですわーッ!』
トールのズボンのポケットの中で、スマホ(イシュラーナ)が激しくバイブレーションを鳴らす。
『トール様の私服姿エモすぎ! そして白石殿のそのニット、完全に『分かっている』チョイスですわ! 破壊力が高すぎます!』
「イシュラーナ、やかましいぞ。足が痺れる」
「えっ? 佐藤様、何か仰いました?」
「いや、なんでもない」
トールはポケットの上からスマホを物理的に軽く叩いて沈黙させると、白石さんの案内に従って『学生服・学用品フロア』へと向かった。
* * *
「いらっしゃいませ。渋谷代々木学園の制服採寸ですね。まあ、立派な体格の弟さんで……」
採寸を担当する年配の女性店員が、トールの肩幅をメジャーで測りながらにこやかに言った。
「あ、いえっ。弟ではなくて……私はこの方の、その、家政婦と言いますか……」
白石さんが顔を真っ赤にして両手を振る。
「あらやだ! てっきり若くしてご結婚された奥様かと……失礼いたしました」
「お、奥様……っ!///」
白石さんの顔がさらに沸騰したように赤くなる。
一方のトールは「妻……そうか、現代では家事を取り仕切る者を妻と呼ぶのだな。なるほど、理にかなっている」と一人で勝手に納得し、ウンウンと頷いていた。
『トール様、納得する部分が絶対間違ってますわ! 草www』
「そ、それでは佐藤様! 指定のシャツとスラックス、それにブレザーをお渡ししますので、あちらの試着室で着替えてみてください!」
逃げるように衣服一式をトールに押し付け、白石さんは試着室のカーテンを閉めた。
狭い試着室の中で、トールは一人、最大の試練に直面していた。
「……なんだ、この複雑怪奇な構造は」
現代の制服――特にシャツの小さなボタンや、スラックスのチャックという未知の機構が、異世界帰りの武士を大いに苦しめていた。ドラゴンの鱗で作られた鎧ですら、もっと着脱が容易だったというのに。
さらに彼を絶望させたのが、『ネクタイ』という一本の布切れである。
「これを首に巻くのか? まるで絞首刑の縄ではないか。どう結べば正解なのだ……っ、くそ、布が余るぞ」
不器用なトールが五分ほど格闘した結果、ネクタイは結び目のような謎の塊となり、シャツのボタンは掛け違い、無残な姿が完成してしまった。
「佐藤様? なんだか中で唸り声が聞こえますが、大丈夫ですか……?」
見かねた白石さんが、外から声をかけてくる。
「すまない、白石殿……。この現代の武装は、俺には高度すぎるようだ」
シャッ、とトールがカーテンを開ける。
そこに立っていたのは、シャツのボタンが半分はだけて見事な腹筋を覗かせ、首には謎の布の塊(ネクタイの残骸)を巻きつけた、非常に残念なイケメンの姿だった。
「も、もう! 佐藤様ったら、ボタンも掛け違えてるじゃないですか! 貸してください!」
オカン気質を刺激された白石さんが、反射的に狭い試着室の中へと足を踏み入れてしまう。そして、シャッと再びカーテンを閉めた。
一畳にも満たない、密室。
「ほら、じっとしていてくださいね。ボタンは下から順番に留めるんです」
白石さんがトールの真正面に立ち、至近距離でシャツのボタンを留め始める。
「かたじけない……」
トールが素直に下を向いた瞬間――彼の腕に、『信じられないほど柔らかい感触』が押し当てられた。
「……っ!?」
白石さんがボタンを留めようと身を乗り出しているため、彼女の豊満な胸元のふくらみが、トールの胸から腕にかけて、むにゅっと完全に密着してしまっていたのだ。
(こ、この柔らかさは……異世界の物理法則を超越している……っ!)
歴戦の武士であるトールの身体が、石像のように硬直する。鼻先をくすぐるフローラルな香りと、彼女の体温がダイレクトに伝わってくる。
「次は、このネクタイですね。まったく、どうやったらこんな不思議な結び目になるんですか?」
白石さんは自分が密着していることなど微塵も気付かず(あるいは世話焼きモードに入って無自覚なまま)、トールの首元に手を伸ばしてネクタイを解き始める。
そのたびに、彼女の胸の柔らかな双丘が、トールの身体に押し当てられ、形を変えて擦れる。
(いかん……! これは、いかなる精神修行でも耐えられん『業』だ……!)
トールは必死に天井を見上げ、「無」の境地に達しようと般若心経を唱え始める。しかし、彼の武士としての平穏な心は、オカン特有の無防備な色気によって完膚なきまでにへし折られていた。
『キュイィィィィィン!!』
その時、脱ぎ捨てたズボンのポケットから、イシュラーナの異常な駆動音が鳴り響いた。
『密室! 至近距離! 試着室イベント、キタコレエエエエエエ!!///』
「ひゃっ!?」
突然スマホが発した機械音に驚き、白石さんが肩をビクッと揺らす。その拍子に、彼女の足が試着室の小さな段差に引っかかった。
「あ、危ない!」
トールが反射的に腕を伸ばし、倒れそうになった白石さんの細い腰をガッチリと抱き留める。
結果として――トールは壁に背中を預け、その胸の中にすっぽりと白石さんを抱き抱えるという、少女漫画も顔負けの完璧なハグ体勢が完成してしまった。
「…………あっ」
ここでようやく、白石さんは自分たちが置かれている『状況』と『距離感』、そして、トールの逞しい腕の中に閉じ込められている事実に気がついた。
見上げれば、首元まで真っ赤になったトールと至近距離で視線が絡み合う。
「さ、佐藤、様……あの、これは……」
「し、白石殿……その、胸が……当たって、いるのだが……」
嘘がつけない武士の素直すぎる告白に、白石さんの顔が一瞬で林檎のように茹で上がった。
「~~~~~~っ!!///」
ボンッ! と音が鳴りそうなほど赤面した白石さんは、バッとトールの腕から抜け出し、猛スピードでネクタイをギュッと結び上げた。
「は、はい完成です! お似合いですよ! 私、外で待ってますからあああっ!」
シャァァッ! とカーテンを乱暴に開け、白石さんは脱兎のごとく試着室から逃げ出していった。
一人残された試着室で、トールは綺麗に結ばれたネクタイに触れながら、ふぅ、と長く熱い息を吐き出した。
「……現代の買い物とは、魔神との死闘より心臓に悪いのだな」
『(カシャッ!カシャッ!カシャッ!)』
床に落ちたスマホが、無音カメラのフラッシュを狂ったように瞬かせていた。
* * *
その後。
無事にすべての入学準備を終えた二人は、デパートの最上階にあるレストランで、名物の特製デミグラスオムライスを向かい合って食べていた。
買い物の熱気(と先ほどの羞恥)を冷ますように、白石さんは無言でオムライスを口に運んでいる。その顔はまだ少し赤い。
「……美味い」
トールが、オムライスを頬張りながら真顔で言った。
「白石殿の手料理も絶品だが、こういう外の飯というのも誠に美味であるな。現代の食文化は本当に素晴らしい」
「……ふふっ」
トールのあまりにも幸せそうな顔を見て、白石さんの口元から自然と笑みがこぼれた。先ほどの気まずい空気は、いつの間にかふんわりと溶けて消えていた。
「佐藤様が美味しいと思ってくれたなら、良かったです。今日はお疲れ様でした」
「うむ。白石殿の案内のおかげで、完璧な装備(制服)が揃った。これで明日から、心置きなく学園での『様子見』ができそうだ」
巨大企業の覇権争いやダンジョンの脅威など、どこ吹く風。
マイペースな武士は、美味しいオムライスと美しい家政婦さんとの平和な休日に、心の底から満足していた。
いよいよ明日から、波乱とコメディに満ちた「渋谷代々木学園」での日々が幕を開ける。




