第003話:名刀の手入れと、極楽ハプニングの入学準備
ペントハウスに引っ越して数日が経った、四月の上旬。
柔らかな春の日差しが差し込む広いリビングで、佐藤通はあぐらをかき、静かに己の「得物」と向き合っていた。
彼の膝に置かれているのは、異世界から持ち帰った一本の太刀である。純白の布で刀身を丁寧に拭い、古い油を落として新しい丁子油を薄く塗り伸ばしていく。その一連の所作には、一切の無駄がなく、流れるような美しさがあった。
「……うむ。刃こぼれ一つない。誠に良い業物だ」
トールは光に刀身を透かし、満足げに頷いた。
『キタ――(゜∀゜)――!! トール様のお手入れタイム! てかその太刀、異世界の超絶すんごい伝説の武器なんですよね!?』
テーブルの上で激しくバイブレーションを鳴らすスマホ(イシュラーナ)が、テキストで興奮を伝えてくる。
「ああ。異世界の偏屈な鍛冶爺に打たせたものだ。『名刀・なんとか』と言っていた気がするが……長ったらしくて忘れた。まあ、竜の鱗でもスパスパ斬れるから重宝している」
『名前忘れてるし!! 伝説の武器の扱い雑すぎませんこと!? 草www』
トールが名もなき(本人が忘れただけの)名刀を鞘に納めた、ちょうどその時だった。
「佐藤様、お茶が入りましたよ」
キッチンから、エプロン姿の白石さんがお盆を持って歩いてきた。
彼女はソファーの横に立ち、ふとトールの姿を見下ろして――ピタリと動きを止めた。
「……っ」
白石さんの顔が、ポッと朱に染まる。
休日のトールは、ゆったりとした着流しを着ているのだが、あぐらをかいているせいで、胸元が大きくはだけていたのだ。
その無防備な胸元から覗くのは、異世界での凄惨な死闘を物語る『無数の古傷』と、無駄な脂肪が一切ない『鋼のように鍛え上げられた筋肉』。普段はマイペースで生活力皆無な彼からは想像もつかない、歴戦の武士としての鋭い大人の色気がそこにあった。
(な、なんでしょう、急に……すごく、男の人に見えて……っ)
心臓がドクンと跳ね、白石さんは慌てて視線を逸らした。
しかし、それが良くなかった。動揺のあまり足元への注意がおろそかになり、最高級の分厚い絨毯の縁に、スリッパのつま先を引っ掛けてしまったのだ。
「あっ……!」
バランスを崩し、前方のトールへ向かって倒れ込む白石さん。熱いお茶の入った急須が宙を舞う。
「むっ!」
トールの武士としての反射神経が作動した。彼は瞬時に立ち上がり、お盆と急須を片手で空中でキャッチ。もう片方の腕で白石さんの細い腰を抱き寄せる。
完璧な救出劇――になるはずだった。
しかし、慌てて立ち上がった拍子に、トール自身が己の着流しの長い裾を踏んづけてしまっていたのだ。
「ぬぉっ!?」
達人たるトールの足がもつれ、二人は絡み合うようにして、背後の巨大なふかふかのソファへと倒れ込んだ。
ボフッ! という音と共に、静寂が訪れる。
白石さんは仰向けにソファに倒れ込み、その上にトールが覆いかぶさるような体勢になっていた。
そして――トールの顔は、白石さんのエプロン越しでもはっきりと分かる、豊満で柔らかな胸の谷間に、見事にすっぽりと埋もれていた。
「……っ!?」
「ほう……」
顔面を包み込む、信じられないほどの弾力と、甘く懐かしい石鹸の香り。トールは思わず「誠に……極楽である」と、武士らしからぬ感嘆の息を漏らしてしまった。
異世界の硬い鎧やドラゴンの鱗とは次元が違う、現代の生活感あふれる女性の圧倒的な柔らかさが、彼を優しく受け止めている。
『ギャアアアアアアアア!! トール様のラッキースケベ発動キターーーーッ!!///』
テーブルに落ちたスマホ(イシュラーナ)が、着信ランプをストロボのように激しく点滅させ、無音カメラのシャッター音を狂ったように連写し始める。
「さ、佐藤様ぁぁぁっ!?」
数秒遅れて事態を把握した白石さんが、顔を茹でダコのように真っ赤にして悲鳴を上げた。
「す、すまない、白石殿! 絨毯の罠に遅れを取るとは、武士として一生の不覚!」
トールはバッと飛び起き、咳払いをして必死に威厳を保とうとするが、その耳までほんのりと赤い。
「い、いえ、私の方こそ不注意で……っ! け、怪我はありませんでしたか!?」
白石さんは慌てて身なりを整えながら、羞恥をごまかすようにパタパタと手で顔を仰ぐ。そして、エプロンのポケットから一枚のメモ用紙を半ば強引に取り出した。
「そ、それより佐藤様! こんなのんびりしている場合じゃありませんよ! もうすぐ入学式なんですから、準備しなければいけないものが山積みなんですから!」
「む……準備、だと?」
トールがわざとらしく眉を寄せると、白石さんはオカン特有の厳しい(しかし顔は真っ赤なままの)表情を作ってメモを読み上げた。
【渋谷代々木学園・入学前準備リスト】
・学園指定の制服一式(ブレザー、スラックス、ネクタイなど。採寸必須!)
・体操服・ジャージ・体育館シューズ
・通学用のカバン(ダンジョン実習もあるため、丈夫なリュック型が推奨)
・筆記用具・ノートなどの学用品一式
・初心者用ダンジョン探索ライセンスの仮申請
・実習用の防具やインナーの購入
・魔石通信対応の学生証用写真撮影
「……というわけで、これらを今週末までにすべて揃えないといけないんです!」
「なんと……異世界の魔神討伐よりタスクが多いではないか。誠に面倒だ。イシュラーナ、適当に裏から手配しておいてくれ」
『制服の採寸や写真撮影ばかりは、トール様ご本人が行かないと無理ですわ! というか、現代の男子高校生らしい青春のお買い物を楽しんでくださいませ! あとさっきのハプニング写真、高画質でクラウドに保存しましたわ!』
「貴様、後でデータを斬るぞ」
「そうですよ。ほつれた着流しばかり着ていてはダメです」
白石さんはクスッと笑い、先ほどのドキドキを隠すように優しく微笑みかけた。
「もし佐藤様がよろしければ……明日の日曜日、娘の結衣は実家に預けてあるので、私がお買い物にお付き合いしましょうか? 採寸のサイズ合わせや、学用品を選ぶくらいならお手伝いできますし」
「……! 誠か!」
トールは弾かれたように身を乗り出した。
「白石殿が同行してくれるのなら、いかなる苦行(買い物)も乗り越えられよう。昼は外で美味いものを奢らせてくれ」
「ふふっ、ありがとうございます。では、明日は渋谷のデパートへ行きましょうね」
『……デート! これ完全に休日のデートのお誘いですわーーッ!!』
激しく明滅するスマホをそっと裏返しに伏せながら、トールは冷めた麦茶をすする。
名刀の手入れと、思いがけない極楽のハプニング。頼もしくも美しい家政婦と過ごす平和な時間の中で、トールの異世界帰りの荒んだ心は、現代日本の「日常」という名の温かい湯に、今日もどっぷりと浸かりきっていくのだった。




