第002話:静かな環境を求めて
4月1日。
異世界から帰還して一夜明けた朝、佐藤通は、渋谷の片隅にあるネットカフェの個室で目を覚ました。
昨晩、スマホに憑依した「しぶやおたくAI」ことイシュラーナに手配させ、当面の身分証と仮の宿として確保した場所だ。しかし、薄い壁一枚を隔てた外の世界は、トールが求めている「平穏」とは程遠い環境だった。
「……五月蠅いな」
トールは着流しの上から薄手の羽織を羽織りながら、小さく溜息をついた。
窓の外からは、けたたましいサイレンの音がひっきりなしに聞こえてくる。渋谷のスクランブル交差点跡地に出来た巨大なダンジョンへ向かう探索者たちの怒号、物資を運ぶ大型トラックの走行音、そして上空を飛び交う報道ヘリコプターのプロペラ音。
異世界の戦場に比べれば血の匂いこそしないものの、この現代日本――特にダンジョン特区に指定された渋谷という街は、常に何かを急きたてるような喧騒に満ちていた。
「昨日のコンビニ飯は確かに美味かった。だが、ここの周辺はうるさすぎる。……もっと静かで落ち着けるところがいいなぁ」
トールが独り言のようにボヤいた、その時だった。
机の上に置かれていた中古のスマートフォンが、突如としてブルルルルルッ!と激しく振動し始めた。
『キタ――(゜∀゜)――!! はい、お任せくださいませ!!』
画面が眩しく発光し、合成音声と共に、自信満々に胸を張るアスキーアート『( ¯﹀¯ )ドヤッ』が表示される。
「イシュラーナ。お前、ずっと俺の話を聞いていたのか」
『当然ですわ! 推し(トール様)の快適なスローライフ環境を構築することこそ、わたくしイシュラーナの至上命題にして最大の喜び! 劣悪なネカフェ暮らしなど、トール様の高貴な太刀筋には似合いませんわ!』
『旧エネルギーメジャーの裏金口座からちょこちょこっと……ゲフンゲフン、合法的なデイトレードにより、運用資金の調達は完了しておりますわ! すぐに最高の物件をご用意いたします!』
「……お前のその『合法的』という言葉には一抹の不安を覚えるが、まあいい。静かに眠れる場所ならどこでもいいぞ」
トールが木刀を手に立ち上がると、スマホは『承知いたしました!(`・ω・´)ゞ』という文字を表示し、ピロンと小気味よい通知音を鳴らした。
* * *
翌日。4月2日。
「…………おい」
トールは、眼下に広がる渋谷の街並みを呆然と見下ろしていた。
彼が立っているのは、喧騒から完全に切り離された天上――渋谷区内でも屈指の高級住宅街にそびえ立つ、14階建てタワーマンションの最上階だった。
広さは百平米を優に超えようかという巨大なリビング。床には足が沈み込むような最高級の絨毯が敷き詰められ、壁の一面は巨大なガラス張りになっている。防音ガラスは外界の音を完全に遮断し、室内には静寂という名の贅沢な空間が広がっていた。
「静かな場所を頼むとは言ったが、これはいくら何でも大げさではないか?」
『何を仰いますか! トール様の拠点となるのですから、最低でもこのレベルでなければ! セキュリティも最新鋭、ダンジョンからの魔力漏れ(ノイズ)を防ぐ結界シールドも完備の超優良物件ですわ!』
スマホがヴヴッと誇らしげに震える。
トールは部屋の中央に鎮座する、真っ白で巨大なふかふかのソファに腰を下ろした。異世界の硬い岩肌や粗末な宿屋のベッドとは比べ物にならない感触に、思わず「ほう……」と感嘆の息が漏れる。
だが、トールはすぐに重大な問題に気がついた。
リビングの奥には、見たこともないほど巨大で複雑なボタンが並ぶシステムキッチン。その横には、宇宙船のコックピットのような形をした最新式のドラム式洗濯乾燥機や、巨大な冷蔵庫が並んでいる。
「……静かで快適なのは認める。が、俺一人ではなにもできそうにないぞ」
トールは真顔でスマホ画面に向かって告げた。
異世界では野営の際に焚き火を起こす程度のことはできたが、現代のIHクッキングヒーターの使い方など微塵もわからない。風呂を沸かすパネルも、洗濯機のボタンも、すべてが彼にとっては未知の魔導具だった。
これでは、せっかくの城も持ち腐れである。コンビニ弁当ばかりではスローライフとは呼べない。
『ふふふ……お任せくださいませ』
イシュラーナの合成音声が、どこか得意げに響く。画面には『計画通り( ̄ー ̄)ニヤリ』のアスキーアートが浮かんでいた。
『トール様が生活スキル皆無であることは計算済み。すでに家政婦協会から、最高ランクの家事スキルを持つ人材を派遣手配しておりますわ! まもなく到着するはずです!』
「家政婦、だと?」
トールが聞き返した直後。
――ピンポーン。
静寂なペントハウスに、上品なチャイムの音が響いた。
トールが玄関のロックを解除し、重厚な扉を開ける。
そこに立っていたのは、トールの予想を完全に裏切る人物だった。
「初めまして。本日からこちらでお世話になります、家政婦の白石と申します」
柔らかく、どこか包み込むような落ち着いた声。
現れたのは、30歳前後と思われる女性だった。髪は後ろで緩やかに一つにまとめられ、清潔感のある淡い色のブラウスに、膝下丈のタイトスカート。その上から、控えめなフリルのついたエプロンを身に着けている。
目鼻立ちは派手ではないが、優しげで楚々とした美人だ。だが、トールが思わず息を呑んだのは、彼女から漂う「圧倒的な大人の生活感と色気」だった。
エプロンの紐を後ろでキュッと結んでいるため、控えめな服装でありながらも、女性らしい豊かな胸元のふくらみや、腰のくびれのラインがはっきりと強調されている。動くたびに、石鹸のようなどこか懐かしく甘い香りがふわりと漂ってきた。
「あっ、あの……佐藤様、でしょうか?」
白石が少し小首を傾げ、上目遣いでトールを見る。
異世界では、血の気の多い女騎士や、傲慢な魔法使いの姫などに言い寄られたこともあったが、トールは彼女たちを「やかましい」と一蹴してきた。だが、目の前にいるこの「現代の生活感あふれる年上の女性」の破壊力は、彼にとって未知の領域だった。
「……あ、ああ。俺が佐藤通だ。よろしく頼む」
歴戦の武士であるはずのトールの声が、不覚にも少し裏返った。
スマホの画面が『トール様が動揺している!? ギャップ萌えキター!!www』と激しく点滅し、ブルブルと震え回るのを、トールは慌てて羽織の袖で覆い隠す。
「ふふっ、お若いんですね。聞いていたお話では、気難しくて生活能力が全くない方だと伺っていたので、少し緊張していたんです。でも、安心しました」
白石は口元に手を当てて、ふんわりと微笑んだ。
「私、こう見えても5歳になる娘がいまして。子育てでバタバタした毎日を送っているので、若い方のお世話には慣れているつもりです。何でも遠慮なくおっしゃってくださいね」
――30歳、子持ちの奥さん(パート)だと!?
トールの心の中で、謎の雷鳴が轟いた。
なんだこの、妙に胸の奥がざわつく展開は。人妻特有の余裕と、家事のプロフェッショナルとしての頼もしさ。先ほどまでの「何もできない」という不安が一瞬で吹き飛び、代わりに「この人にすべてを委ねたい」という強烈な甘えの感情が芽生えそうになる。
「そ、そうか。……さっそくだが、腹が減った。何か作れるか?」
必死に武士としての威厳を保とうと、トールはあえてぶっきらぼうに言った。
「はい、もちろんです。冷蔵庫の食材を確認して、すぐに用意しますね。……あら?」
白石はキッチンへ向かいながら、トールの羽織の裾が少しほつれているのに気がついた。
「お洋服、少しほつれていますよ。後で直しておきますね。それと、そこのソファに座ってテレビでも見ていてください。すぐにお茶を淹れますから」
「あ、ああ……かたじけない」
トールは言われるがまま、大人しく巨大なソファにちょこんと座った。
キッチンからは、トントンと軽快に包丁がまな板を叩く音や、鍋がコトコトと煮える心地よい音が聞こえてくる。先ほどまでの渋谷の喧騒とは違う、極めて日常的で、温かな「生活の音」だった。
『トール様……完全に手懐けられてますわね。草www』
懐の中でスマホがバイブレーションで煽ってくるが、トールは無視した。いや、無視せざるを得なかった。キッチンに立つ白石の、エプロン越しに揺れる柔らかな背中から目が離せなかったのだ。
数十分後。
トールの目の前には、湯気を立てる完璧な和定食が並べられていた。
ふっくらとツヤのある白米、出汁の香りが鼻腔をくすぐる豆腐とワカメの味噌汁、そして、メインはふっくらと焼き上げられた手作りハンバーグにおろしポン酢が添えられている。
「あり合わせの物で申し訳ありません。お口に合うと良いのですが……」
白石が心配そうに見守る中、トールは箸を手に取り、まずは味噌汁を一口すすった。
「…………ッ!!」
トールの目が、カッと見開かれた。
カツオと昆布の合わせ出汁の深い旨味が、細胞の隅々にまで染み渡っていく。異世界の泥水のようなスープや、血生臭い魔物の肉とは次元が違う。昨晩のコンビニのおにぎりも感動したが、これは別格だ。
「これぞ……母の味。いや、妻の味か……? 誠に……誠に美味である!」
トールは感極まった表情で、ものすごい勢いでハンバーグと白米をかき込み始めた。
「ふふっ、良かったです。そんなに美味しそうに食べていただけると、作り甲斐があります」
白石は嬉しそうに目を細め、まるでお腹を空かせた子供を見るような慈愛に満ちた眼差しでトールを見つめている。
トールは食事を進めながら、心の底から確信した。
この静かで快適なペントハウスの城。そして、この温かくて美味い手料理を作ってくれる、どきどきするほど魅力的な家政婦さん。
この平穏なスローライフを守るためならば、少しくらいの面倒事(ダンジョンのモンスターや、企業間のドロドロした争い)など、太刀の峰打ちで軽く片付けてやってもいい。
『トール様のやる気スイッチ、思わぬ方向で入りましたわー!』
イシュラーナのテキストが流れるスマホを横目に、トールは最後の一粒まで米を平らげ、深く満足の息を吐いた。
明日から、ここ渋谷でのペントハウス生活が始まる。
マイペースな武士と限界オタクAI、そして最高に家庭的な家政婦さんによる、奇妙で騒がしくも心地よい日常が、ここから本格的に幕を開けるのだった。




