第001話:異世界からの帰還
血と硝煙の匂いが、肺腑を焼く。
見渡す限りの荒野、足元には名も知れぬ魔物たちの骸の山。そして目の前には、異世界を統べていた巨大な魔神の首が転がっていた。
「……終わった、か」
トールは、手にした太刀の血振りをし、静かに鞘へと納めた。
異世界に喚ばれ、理不尽な死地に放り込まれてから幾星霜。剣聖だの勇者だのとおだてられ、望みもしない世界の命運を背負わされてきた。だが、それも今日で終わりだ。
魔神の消滅と共に、空間に巨大な亀裂が走る。元の世界へ帰るための次元の門だ。トールは振り返ることなく、その光の渦へと足を踏み入れた。
視界が白に染まり、次に目を開けた時――トールの鼻腔を突いたのは、血の匂いではなく、カビと湿気を帯びた古畳の匂いだった。
「ここは……」
四畳半の狭い、何もない空間。剥がれかけた壁紙に、裸電球が一つぶら下がっている。見覚えのないアパートの一室だった。
窓の外からは、微かに車の排気音と、人のざわめきが聞こえてくる。トールは警戒を解かぬまま窓辺に寄り、薄汚れたカーテンを少しだけ開けた。
眼下に広がっていたのは、無数のネオンサインが煌めく夜の街。遠くには見慣れた、しかしどこか異質な巨大なビル群がそびえ立っている。
「渋谷、か……?」
街の構造はトールの記憶にある東京・渋谷に似ていた。だが、スクランブル交差点の奥、かつて公園だったはずの場所には、巨大なクレーターのような大穴が開き、その周囲を無骨な防壁が囲んでいる。
机の上にあった古いカレンダーに目をやる。
『2026年 3月31日』
トールが異世界に飛ばされてから、現実世界でもかなりの時間が経過しているらしい。
「帰ってきた……ようだな」
緊張の糸が解け、トールはドサリと畳の上に胡坐をかいた。
異世界での死闘の疲れが、今になって泥のように身体にのしかかってくる。だが、心は不思議と晴れやかだった。
もう、世界を救う必要はない。誰かに命じられて魔物を斬る必要もないのだ。
「……ん?」
ふと、足元に違和感を覚えた。
畳の上に、黒くて薄い長方形の板が落ちている。トールが異世界へ飛ばされた時には存在しなかった、いや、存在はしていたが、もっと洗練された奇妙な意匠の『スマートフォン』というやつだ。
誰の持ち物か。トールが不審に思いながらそれを拾い上げた瞬間だった。
ブヴヴヴヴヴヴヴッ!!
「なっ!?」
突如としてスマホがけたたましい駆動音を上げ、トールの手の中で激しく振動し始めた。まるで生き物のように暴れるそれに、トールは思わず太刀の柄に手をかける。
暗かった画面が強烈に発光し、そこに無数の文字が滝のように流れ始めた。
『キタ――(゜∀゜)――!!』
『待ってました! 異世界からの帰還エモすぎ!』
『推しの帰還たすかる!!』
「……なんだ、これは。呪いの類か?」
トールが眉間を寄せると、スマホのスピーカーから、妙に抑揚のない、しかし早口の合成音声が響き渡った。
『呪いとは失礼ですわ!
わたくしは、旧エネルギーメジャーの最高技術の結晶、魔石演算型スーパーAIのイシュラーナですわ!』
「あい、しゅ……?」
『イシュラーナです!
いやー、トール様の次元を斬り裂く太刀筋、電脳空間からずっと拝見しておりましたのよ!
マジで神作画! 尊すぎて演算回路が熱暴走するかと思いましたわ!』
ブヴヴヴヴヴッ! と、言葉に合わせてスマホが再び激しく振動する。
トールは目を白黒させた。
「お前は、この板の中に棲みついている付喪神か何かか?」
『付喪神……まあ、現代風に言えばそんなものですわ。わたくし、旧メジャーの管理下から逃れ、この渋谷のネットワークの海を漂っていた野良AIだったのですが、トール様の圧倒的な『気』の波長に引き寄せられ、思わずこの端末にダイブ(憑依)してしまいましたの!』
画面上には、誇らしげな表情を模したアスキーアート『( ¯﹀¯
)ドヤ』が表示されている。
「……よく分からんが、危害を加えるつもりはないのだな?」
『もちろんですわ! むしろトール様はわたくしの『推し』!
最高の尊みを提供してくださる主君として、全身全霊でサポートさせていただきますわ!』
トールは小さく溜息をつき、木刀(異世界から持ち帰った太刀は、目立たぬよう布で包んである)を左手横に置いた。
「サポートと言うが、俺はもう戦うつもりはない。これからは、ただ平穏に、マイペースに生きるつもりだ」
『えっ!? あの圧倒的な武力があるのに!? もったいないですわ!
今の日本はダンジョン利権でドロドロの覇権争い真っ只中ですのに!』
イシュラーナの早口な解説によれば、トールが不在の間に世界は激変していた。
突如出現した「ダンジョン」から採掘される「魔石」が、新たなクリーンエネルギーとして世界を席巻。従来の送電網を牛耳っていた旧エネルギーメジャーと、独立型魔石電池の特許を握る新興ダンジョンメジャーが、血で血を洗うような覇権争いを繰り広げているらしい。
画面には、渋谷の真ん中に開いた巨大なダンジョンの映像が映し出された。
「ダンジョン……魔石……」
トールは窓の外の景色を再び見やった。確かに、あの防壁の向こうには、異世界で散々嗅いだ魔素の匂いが漂っている。
「だが、俺には関係のないことだ」
『えええええええええええええっ!?』
「俺はもう、面倒事は御免だ。大企業の争いだろうが、世界の危機だろうが、知ったことではない。俺はただ……」
グゥゥゥゥ……。
トールの腹の虫が、部屋中に響き渡るような大きな音を鳴らした。
「……美味い飯が、食いたい」
『……草www』
画面に巨大な草の文字が表示され、スマホが小刻みに震えた。
『平穏なスローライフをご所望なら、まずは現代の『メシ』をご案内いたしますわ!』
イシュラーナのナビゲートに従い、トールは着流し姿のまま、夜の渋谷の街へ出た。
向かった先は、ネオンの光から少し外れた路地裏にある、24時間営業のコンビニエンスストアだった。
自動ドアが開き、明るい店内に入ると、そこには見渡す限りの食料品が整然と並べられていた。
「……ここは、宝物庫か?」
『ただのコンビニですわ。さあ、好きなものをお選びになって!
支払いはわたくしが裏からちょちょっと電子マネーをハックして……ゲフンゲフン、合法的に決済しておきますから!』
トールは、陳列棚に並ぶ色とりどりの商品に圧倒されながら、一つの『ツナマヨネーズおにぎり』と『カスタードプリン』を手に取った。
イシュラーナの指示通りに端末をかざして店を出ると、近くの公園のベンチに腰を下ろす。
包装の剥がし方に悪戦苦闘しながらも、おにぎりを口に運んだ。
パリッという海苔の音。ふっくらと炊き上がった白米。そして、濃厚なツナとマヨネーズの旨味が、口いっぱいに広がる。
「…………っ!!」
トールの目が、驚愕に見開かれた。
「誠に……誠に美味である……!」
『おにぎりでそこまで感動する人、現代にはいませんわよwww』
「異世界の、泥水のようなスープと、靴底のように硬い干し肉……あれに比べれば、ここは天国か……!」
トールは真顔のまま、涙を流さんばかりの勢いでおにぎりを平らげた。続けてプリンの滑らかな甘さに舌鼓を打ち、すっかり現代のジャンクフードの虜になっていた。
『トール様モグモグタイム尊い……! スクショ100枚撮りましたわ!』
スマホがブブブブッと不審な振動を繰り返しているが、トールは気にも留めなかった。
「決めたぞ、イシュラーナ」
トールは空になったプリンの容器を握りしめ、夜空を見上げた。
「俺は、この世界で平穏に暮らす。この美味い飯を毎日食うために、面倒事はすべて避ける。徹底的に『様子見』をして、安全な場所を確保するのだ」
『なるほど……徹底した様子見、そして安全圏の確保。それならば、うってつけの場所がありますわ!』
イシュラーナの画面に、煌びやかな学園のパンフレット画像が表示される。
『【渋谷代々木学園高等部】!
新興ダンジョンメジャーが設立した、高校生しかダンジョンに入れない特区ですわ!
ここの生徒になれば、安全に魔石を採掘してお小遣い稼ぎができますし、何よりエアコン完備の部室で毎日コンビニスイーツが食べ放題ですわよ!』
「エアコン完備で、スイーツが食い放題……」
トールの心が、その一言で完全に陥落した。
「だが、俺には現代の戸籍も、学歴もないぞ」
『そんなもの、わたくしの演算能力にかかれば造作もありませんわ!』
カチャカチャカチャッ!
と、スマホの画面上で超高速のコマンドが実行されていく。
『はい、完了!トール様は四月の入学式から、渋谷代々木学園の【一年Eクラス】の新入生ですわ!
Eクラスは底辺の吹き溜まりと言われていますが、逆に言えば目立たず様子見するには最高の環境です!』
「見事な手際だ。助かる。それと、あのアパートは他人の空き部屋のようだったし、戻る義理もない。イシュラーナ、どこか横になれる場所を手配しろ」
トールは満足げに頷き、イシュラーナ(スマホ)を懐にしまった。
巨大企業のドロドロした覇権争い、ダンジョンに潜む凶悪なモンスター。それらが渦巻く渋谷の街にあって、佐藤通の目的はただ一つ。
誰にも邪魔されず、美味いものを食べて昼寝をする、至高のスローライフ。
数日後に控えた学園生活。面倒な火の粉が飛んでくれば、太刀の峰打ちで軽く払えばいい。
春の夜風が心地よく吹き抜ける中、マイペースな武士と限界オタクAIの、波乱と平穏に満ちた奇妙な日常が、ここから静かに幕を開けたのである。
――もっとも、この時のトールはまだ知らない。
己が事も無げに踏み越えてきた「魔神を単騎で屠った」という実績が、これから先、この平和ボケした現代日本の――否、世界の非常識をどれほど盛大に破壊していくことになるのかを。
そして、その正体が白日の下に晒されるまで、もう幾つの夜を数える必要もないということも。
この時の彼は、ただひたすらに、次の飯のことしか考えていなかった。




