第031話:究極の魔境和牛ビーフシチューと、平和すぎる食卓
日本のダンジョン産業を牛耳る新興メジャー本社ビルを、たった一振りの木刀とハッキングで完膚なきまでに物理的・経済的に崩壊させた佐藤通は、夕闇の迫る渋谷の街を足早に歩いていた。
その後ろを、マジックバッグをぶら下げたドローンと、半ば魂が抜けたような顔をしたパシリの鯖江録郎がフラフラとついてきている。
「ボ、ボス……俺たち、とんでもないことをしでかしたんじゃ……。日本の経済が、いや、世界のダンジョン産業の勢力図が完全に塗り替わっちゃいますよ……っ」
「五月蠅いぞ、鯖江。そんなことより、急がないと白石殿の夕飯が冷めてしまうだろうが。今日は氷華が持ってきた『幻の魔境和牛』を使った究極のビーフシチュー、三日間食べ放題の二日目なのだからな」
一国の経済よりも夕飯のシチューの温度を優先するトールは、ペントハウス専用のエレベーターに乗り込むと、迷うことなく最上階のボタンを押した。
「お、俺もついて行っていいんスか!?」
「うむ。お前は俺の快適な散歩(実習)のために働いたのだ。美味い飯を食う権利がある」
「一生ついていきますボスゥゥッ!」
エレベーターの扉が開き、ペントハウスの玄関をくぐった瞬間。
「……ッ!!」
トールの足を、強烈で暴力的なまでの『美味のオーラ』が根元から縫い留めた。
赤ワインとデミグラスソースの奥深い香り、そして最高級の魔境和牛から溶け出した極上の脂の匂いが、広大なリビングの隅々にまで充満していたのだ。
「お帰りなさいませ、佐藤様。鯖江くんも、いらっしゃい」
エプロン姿の白石さんが、お玉を持ったまま優しく微笑んで出迎えてくれる。その圧倒的な母性と生活感に、血なまぐさい(?)カチコミを終えたばかりのトールの心は、一瞬にして完全に浄化された。
「ああ、ただいま戻った。白石殿、すぐに……すぐに食卓につかせてくれ。胃袋が限界だ」
「ふふっ、急いでお着替えをしてきてくださいね。お腹を空かせているだろうと思って、今日は付け合わせも豪華にしてありますから」
数分後。着流しに着替えたトールと、制服のままの鯖江がダイニングテーブルに着席する。
目の前に運ばれてきたのは、純白の深皿にたっぷりと注がれた、漆黒に近いほど濃厚な琥珀色のビーフシチューだった。
シチューの海の中央には、氷華の父(旧メジャートップ)が涙を飲んで手放した『幻の魔境和牛のブロック肉』が、大人の拳ほどの大きさでゴロゴロと鎮座している。
傍らには、こんがりと焼かれたガーリックトーストと、色鮮やかなシーフードサラダ。
「いただきます」
トールは祈るように両手を合わせると、すぐさまスプーンを手に取り、シチューのスープと共に巨大な和牛肉を掬い上げた。
スプーンの重みだけで、肉の繊維がホロリと崩れる。
そのまま、口の中へ。
「…………っ!!」
トールの意識が、再び宇宙へと弾け飛んだ。
三日間じっくりと煮込まれた魔境和牛は、もはや「肉」という固形物であることを放棄していた。
舌に触れた瞬間、雪のようにとろけ出し、和牛特有の強烈な甘味と旨味が口内を支配する。そこに、赤ワインの酸味と、香味野菜の甘みが溶け込んだ自家製デミグラスソースの深いコクが怒涛のように押し寄せてきた。
「……美味い」
トールの目から、自然と一筋の涙がこぼれ落ちた。
「圧倒的な肉の暴力。それを完璧に調和させるソースの深み。異世界で俺が噛みちぎっていたドラゴンの肉など、ただの消しゴムに過ぎなかったのだ……。この一口のためなら、俺はどんな魔神でも……いや、どんな巨大企業でも片手で粉砕してやろう……!」
『動機が常にメシ! そして大企業を潰す理由がビーフシチュー! トール様、完全に狂ってますわーッ! 草www』
テーブルの上でイシュラーナがバイブレーションを鳴らすが、トールは完全に無視して二口目へと突入する。
「うおおおおおっ! なんスかこれ! 肉が溶けましたよ!? ほっぺたが落ちる通り越して、顎が外れそうッス!!」
向かいの席では、鯖江が泣きながらシチューをバゲットに乗せ、尋常ではないスピードで胃袋に詰め込んでいた。
「ふふっ、二人とも本当に美味しそうに食べてくれて嬉しいです」
白石さんは頬に手を当てて、満面の笑みで二人を見守っている。
「実は今日のサラダに乗っている海鮮や、このお高そうなバゲット、佐藤様のスマートフォンから『デイトレードで稼いだので、遠慮なく買ってください』って、家政婦協会経由で特別ボーナスが振り込まれたんです。だから奮発しちゃいました」
「む?」
トールがスプーンを止め、スマホを見る。
『( ¯﹀¯ )ドヤッ! 新興メジャーの株をショート(空売り)して合法的に巻き上げた資金の第一弾ですわ! 白石殿の料理スキルと最高の食材が合わされば、トール様の食卓はまさに無敵の神域ですのよ!』
「……なるほど。イシュラーナ、たまには役に立つではないか」
トールは満足げに頷き、ガーリックトーストをシチューの底に沈め、たっぷりとソースを吸わせてから口に運んだ。
「白石殿。このビーフシチューは、間違いなく俺の人生における至高の逸品だ。明日も明後日も、これを食える俺は、世界で一番の果報者だな」
真顔で、そして心底からの感謝を込めて、トールは白石さんを真っ直ぐに見つめた。
「あっ……そ、そんな、大げさですよ、佐藤様……っ」
大人の色気を持つ楚々とした家政婦の顔面が、一瞬にして林檎のように真っ赤に染まり上がる。
(こんな真っ直ぐな瞳で……美味しいって言われるなんて……。私、なんだか胃袋だけじゃなくて、心まで掴まれちゃいそうです……っ///)
胸を押さえて照れる白石さんの姿は、どんな高級スパイスよりもトールの心を和ませていた。
その頃。
外の現実世界では、新興ダンジョンメジャーの株価ストップ安と本社襲撃のニュースが全世界を駆け巡り、各国の軍事企業や報道機関がパニックに陥り、阿鼻叫喚の地獄絵図が繰り広げられていた。
しかし、ペントハウスの完璧な防音と結界に守られたダイニングでは、そんな喧騒は一切届かない。
最強の武士は、己の愛する平穏と究極のビーフシチューを守り抜いた満足感に浸りながら、今日もただひたすらに、極上のスローライフを味わい尽くすのであった。




