第026話:氷の女王の涙と、最高級和牛による買収
深夜。都内の一等地に広大な敷地を構える、旧エネルギーメジャー『神宮寺家』の本邸。
豪奢な装飾が施された応接室は、ひんやりとした重く苦しい空気に包まれていた。
「……また、新興メジャーの連中に研究施設への出資を打ち切られた。おまけに、ウチの若手エース研究員まで五人も引き抜かれたよ……」
ソファーに力なく沈み込む中年の男性――氷華の父であり、神宮寺グループの現当主が、頭を抱えるようにして疲労困憊の声を漏らした。
「そんな……お父様。彼らまで……っ」
氷華は唇を噛み締め、胸を痛めた。
神宮寺家は、旧式の魔力抽出技術を再構築し、新興メジャーの『独立型魔石電池』に対抗するための新技術の研究を急いでいた。しかし、新興メジャー側の卑劣な妨害工作と政治的圧力によって、研究は完全に暗礁に乗り上げていたのだ。
「連中は、神宮寺を物理的にも社会的にも完全に干し殺す気だ。魔石からの高効率なエネルギー抽出……理論上は可能なはずなのに、あと一歩がどうしても届かない。……このままでは資金も底を突き、我が家は終わりだ」
父が自嘲するように笑う。
「神宮寺家に残されている価値あるものなど……先祖代々、特別な日のために冷凍保存して受け継がれてきた『幻の魔境和牛のブロック肉(超高級食材)』くらいしかない……」
大人の世界の理不尽と絶望。没落していく家門を前に、氷華は悲壮感に暮れ、ポロリと一筋の涙をこぼした。
――しかし。
その悲しみの涙の奥で、ポンコツお嬢様の脳裏に一筋の強烈な閃光が走っていた。
(……お肉? 幻の和牛……!
そうですわ、あのご飯と昼寝にしか興味がない佐藤さん(トール)なら、このお肉を対価にすれば、あるいは……っ!)
氷華はハッと顔を上げ、涙を手の甲で拭うと、決意に満ちた強い瞳で父を見つめた。
「お父さま、そのお肉、私に預けていただけませんか?」
「なんだと?」
突然の娘の申し出に、父が怪訝な顔で顔を上げる。
「少し、心当たりがありますの。……もしかすると、神宮寺家を救う『ヒント』が得られるかもしれませんわ」
* * *
「……うむ。今日の白石殿の朝ごはんも、最高だな」
翌朝。渋谷のペントハウス。
神宮寺家の重苦しい鬱シリアスなどどこ吹く風。佐藤通は、広大なリビングのダイニングテーブルで、能天気に朝食のシャケの塩焼きを白米と共に掻き込んでいた。
「ふふっ、ありがとうございます。昨日佐藤様が張ってくださった防音結界のおかげで、昨夜はぐっすり眠れましたか?」
エプロン姿の白石さんが、お味噌汁をよそいながら優しく微笑む。
「ああ。外で何が爆発しようが気にならない、完璧な静寂だった。部室で作った結界が快適だったから、自室用にもう一つ錬成しておいて正解だったな。……ただ、白石殿が起こしに来てくれた声まで遮断してしまったのは計算外だったがな」
『(カシャカシャカシャッ!)寝起きの無防備なトール様と、起こしに来た白石殿の距離感バグりすぎ案件!
朝からエモエモですわーッ!』
イシュラーナが朝から限界オタク全開でスクショを撮りまくっている中、トールは満足げに緑茶をすすり、今日も極めてマイペースに登校の準備を始めた。
* * *
そして、昼休み。
魔道具研究会の部室で、トールがいつものように特大ソファーでゴロゴロしていると、氷華が重々しい足取りで入ってきた。
彼女の細い腕には、不釣り合いなほど巨大な保冷用のクーラーボックスが抱えられている。
「あのね、佐藤さん……いえ、トールくん。お願いがあるのですわ」
氷華はいつものツンとした態度を捨て、すがるような、切実な上目遣いでトールを見つめた。
「……なんだ、改まって」
トールが欠伸交じりに起き上がると、氷華は重いクーラーボックスをソファーの前のテーブルに置こうとした。
――が。
「きゃっ!?」
クーラーボックスの予想以上の重量と、床に転がっていた鯖江のドローンのケーブルに足を取られ、氷華が大きくバランスを崩した。
重いボックスがトールの方へ向かって倒れ込み、さらに氷華の身体もそのままソファーの上のトールへと覆い被さるように倒れていく。
「むっ!」
達人たるトールの反射神経が作動した。彼は瞬時に身をこなし、両手を伸ばす。
ガシッ!
と、トールの左手は倒れかけたクーラーボックスを見事にキャッチした。
しかし、空いた右手は、勢いよく倒れ込んできた氷華の身体を受け止める形となり――。
「「…………ッ!!」」
ドサッ、という音と共に、トールはソファーに仰向けに倒れ込み、その上に氷華が馬乗りになるような体勢で密着してしまった。
そして、トールの右手は、氷華のブラウス越しの『胸元』をガッツリと鷲掴みにしていた。
『ギャアアアアアッ! ラッキースケベ・イベント発動ォォォォッ!!
しかもお約束の胸揉みスチルですわーッ!!///』
イシュラーナが狂ったようにシャッター音を鳴らす中、氷華は顔面を沸騰させたように真っ赤に染め上げ、涙目でトールを見下ろした。
「さ、さささ、佐藤さんッ! どこを触っていますのッ!
ばか、えっち、変態ですわーーッ!!///」
ポカポカとトールの胸を叩く氷華。しかし、当のトールは一切動じることなく、己の右手の平の感触を真顔で確かめ、ポツリと呟いた。
「……なるほど。クーラーボックスの中に入っていた『板氷』か。やけに平らで硬い感触だと思った」
ピシッ。
「だッ、誰が板氷ですのォォォォォォォォォォォッ!!?」
(……でも。本気で振り解こうと思えば、いつだって振り解けたはずですのに。あの一瞬だけ、随分と長く感じましたわ……)
顔の火照りが怒りだけのせいではないことに、氷華自身がまだ気づかないふりをして、コホンとわざとらしい咳払いを一つこぼす。
Aスタイルのコンプレックスを無慈悲に抉られた氷華が、恥じらいから一転、ガチギレの殺意をみなぎらせてトールの首を絞めにかかる。
「ヒヤッホー! 今日もボスの部室は賑やかッスねー……って、あわわわっ!
何か見ちゃいけない修羅場!?」
遅れて入ってきた鯖江と盾花が、ソファーでの惨劇を見て慌てて目を覆った。
「落ち着け、氷華。それより、この箱の中身はなんだ。隙間から、途轍もなく芳醇な冷気(美味の予感)が漂ってくるぞ」
トールが首を絞められながらも左手のクーラーボックスを気にする素振りを見せると、氷華はようやく我に返り、真っ赤な顔でコホンと咳払いをしてソファーから降りた。
「……父が、会社で魔石からエネルギーを取り出す研究をしているんだけれど、どうしても上手くいかないらしくって……。なにか、ヒントになるようなことがないかって。もし少しでも知恵を貸していただけるなら、この神宮寺家秘伝の『幻の魔境和牛ブロック肉』を差し上げますわ!」
氷華がクーラーボックスの蓋を開けると、中から神々しいオーラを放つ巨大な肉の塊が現れた。
「……大企業のことなど俺の知ったことではない。面倒だ」
『トール様!!
そのお肉、市場に出れば数千万円は下らない超絶レア食材ですわよ!
白石殿に渡せば、究極のビーフシチューが三日間食べ放題になりますわーーッ!!』
「……詳しく話を聞こう」
イシュラーナの囁きを聞いた瞬間、トールは食い気味に前傾姿勢になり、見事な手のひら返しを披露した。
「ほ、本当ですの!? ありがとうございます!
ええと、父の研究データによれば、魔石から高純度のエネルギーを抽出しようとすると、どうしても回路の中で反発が起きて詰まってしまい、最悪の場合爆発してしまうそうで……」
必死に説明する氷華の言葉を適当に聞き流しながら、トールは部室の隅に転がっていた空き缶(鯖江が飲んだイチゴオレの缶)と、小さなハズレ魔石をいくつか手に取った。
「エネルギーが詰まって取り出せないなら、出口のバルブを俺の『気』でコンッと叩いて広げてやればいいだけだろう。イシュラーナ、回路を繋げ」
『承知いたしましたわ! 超絶演算ハッキング、開始しますのよ!』
トールは空き缶の中に魔石を放り込み、両手から圧倒的な『気』を流し込んだ。
パキンッ!
という軽い音と共に、空き缶の表面に奇妙な魔力回路の文様が浮かび上がり、青白い光が安定して脈打ち始めた。
「ほら、これでエネルギーが詰まらずに無限に出続けるはずだ。持っていけ」
「……え? こ、これだけですの……?」
氷華がポカンと口を開ける。大企業の天才研究員たちが何百億円をかけても解決できない問題を、トールは「イチゴオレの空き缶」を使って、たったの一分で解決してしまったのだ。
「うむ。約束通り、その肉は俺がもらうぞ」
トールは和牛のブロック肉を大事そうに抱え込み、「今日の夕飯は宴だな」とご機嫌な様子でソファーに戻っていった。
* * *
その日の夜。神宮寺本邸の地下に設けられた、旧メジャー最高機密の魔力研究ラボ。
数人のエリート研究員たちが疲労困憊でモニターを眺める中、氷華は父の前に立ち、持参した保冷バッグの中から『それ』を取り出した。
「お父様、これ……。わたくしの通う学園で、とても凄い技術を持った方が、ヒントとして作ってくださったんです」
氷華が恭しく両手で差し出したのは、どこからどう見てもただの『イチゴオレの空き缶(アルミ製)』であった。
「……氷華? お前、父さんをからかっているのか?」
父の眉間に深いシワが刻まれる。周囲の研究員たちも、「お嬢様、我々は今、神宮寺の存亡を懸けた新世代バッテリーの開発で手一杯でして……そのようなゴミを構っている暇は……」と呆れたようにため息をついた。
「違いますわ! 見た目はアレですが、中には魔石が……!」
氷華に押し切られる形で、チーフ研究員が渋々、その空き缶を最新鋭の『魔力構造解析スキャナー』のチャンバーへとセットした。
解析開始のボタンを押す。
――ピィィィィィィンッ!!
次の瞬間。ラボ内の全てのメインモニターが、異常な数値を検知して真っ赤な警告色に染め上がった。
「なっ!? スキャナーがエラーを吐いているぞ!
なんだこの異常な魔力密度は!」
「チーフ! 空き缶の内部構造が……あり得ません!
中に放り込まれているのは市販の低級魔石のくせに、アルミ缶の金属繊維と原子レベルで完全に融合しています!
魔力回路の抵抗値が……ゼ、ゼロです!?」
「ゼロだと!? 馬鹿なことを言うな!
どんな最高級の希少魔材を使っても、エネルギー抽出時には必ず反発が起きるのが現代魔道工学の絶対法則だろうが!」
父が血相を変えてモニターの前に駆け寄る。
そこに表示されていたのは、トールが『気』を流し込んで強引にねじ曲げた物理法則と、イシュラーナが超絶演算で組み上げた無駄のない完璧な魔力循環アルゴリズムの可視化データだった。
「し、社長! この回路の組み方……見てください!
エネルギーの出口のバルブ部分が、まるで物理的に『コンッ』と叩き広げられたかのように強制拡張されています!
これにより、魔石がメルトダウンを起こすことなく、無尽蔵にエネルギーを抽出し続ける『擬似的な永久機関』が完成しています!!」
「んなっ……!? これを、この空き缶を誰が作った!?
現代の巨大企業が数千億円の予算と数年の歳月をかけても到達できない神の領域だぞ!?」
ラボ内に、大の大人たちのパニックに陥った絶叫が飛び交う。
さらに、別のモニターを解析していた若手研究員が、ガタッ!
と椅子を蹴り倒して立ち上がった。
「しゃ、社長ぉぉぉっ!!
この魔力波長のクセと、回路に刻まれた不可解なプログラミング・コードの痕跡……見覚えがあります!」
「何!? どこかの競合他社か!?」
「違います!
最近、ネットの裏掲示板で世界中の軍事企業や防衛産業をパニックに陥れている……あの『空間断絶シールド』や『自動収集マジックバッグ』を錬成した、【謎の天才企業】の技術と完全に一致しています!!」
「「「――な、なんだってェェェェェェェェェェェッ!?」」」
深夜の神宮寺家の地下ラボに、研究員たちと父の狂乱の叫びが木霊した。
世界中の国家機関や大企業が血眼になって探し回っている正体不明のオーパーツ開発集団。その最新作(イチゴオレの空き缶)が、なぜか今、自分たちの目の前にあるのだ。
父は白目を剥きそうなほど見開いた血走った目で、氷華の両肩をガシッと掴んだ。
「氷華! お前は一体、どこの誰と接触したんだ!?
その天才の名前を、今すぐ教えなさい!
何十億円、いや、神宮寺の全資産を積んででも、我が社に引き入れるんだ!!」
「……え?」
氷華はポカンとした。
(ト、トールくんが……あのネットで世界中を騒がせている謎の企業……!?)
言われてみれば、彼が部室で錬成した大盾や指輪、防音結界など、数々の異常なアーティファクトが思い当たる。
(でも……)
氷華の脳裏に、部室のソファーで「面倒事は嫌だ。静かに昼寝がしたい」と欠伸をしているトールの姿と、彼が作ってくれた完璧な魔力リミッター(指輪)が浮かんだ。
もしここで名前を言えば、大企業が血眼になってトールに群がり、彼の愛する平穏なスローライフは完全に崩壊してしまうだろう。
「……そ、それは、言えませんわ!」
「なっ!? なぜだ氷華!」
「その方は……とても平和と昼寝を愛する方なのです!
神宮寺の勝手な都合で、彼を大人のドロドロした争いに巻き込むような真似は、わたくしが絶対に許しませんわ!」
氷華はツンとそっぽを向き、口を貝のように固く閉ざした。
「そ、そんな殺生な!
頼む氷華、名前だけでも……ヒントだけでも教えてくれぇぇっ!」
日本のエネルギー産業を牛耳っていたはずの旧メジャーのトップたちが、一人の女子高生に向かって涙ながらに土下座で懇願するという、カオスな地獄絵図が展開される。
一方その頃、ペントハウスでは。
大企業が自分の捨てた空き缶で発狂し、さらにヒロインが体を張って自分の平穏を守ってくれていることなど一ミリも知らないトールが、白石さんの作った『究極の魔境和牛ビーフシチュー』のあまりの美味さに涙を流し、大企業への影響など一ミリも気にすることなく、平和な晩餐を満喫しているのであった。




