第014話:至高の豚の角煮と、武士の落涙
それは、新興メジャーの特別教官による無慈悲な『第一回・新入生ステータス定期測定』が行われた日の夕刻のことである。
レベル2以下の判定を受けたEクラスの生徒たちが、グラウンドで泥と汗と涙にまみれながら地獄の特別指導を受けている中、佐藤通は夕日に背を向けて颯爽と帰路についていた。
「待ちなさいっ! ずるいですわ!
わたくしもトロトロのお肉が食べたいですわーッ!!」
背後から、フェンスにすがりつく銀髪のお嬢様(神宮寺氷華)の絶叫が木霊したが、トールの足取りが鈍ることは一切なかった。
彼にとって、巨大企業の覇権争いやクラスメイトとの友情よりも、己の平穏と「定時退社」、そして何より「至高の夕飯」の方が数万倍も重要なのだ。
『トール様、あまりにも無慈悲!
でもその冷酷なる定時退社ムーブ、推せますわーッ!』
ブレザーの胸ポケットで、スマホ(イシュラーナ)が小刻みにバイブレーションを鳴らしながらテキストを読み上げる。
「無慈悲ではない。俺は入学して以来、一度もサボることなく真面目に『様子見』の任務をこなしているのだ。勤務時間が終われば城に帰り、己の肉体を労るのは武士として当然の権利である」
『まあ、トール様はすでにレベル3のボーダーをクリアしてますからね!
(わたくしの完璧なハッキングのおかげですけれど!)』
「うむ。それに、今日は朝から白石殿が『豚の角煮』を三時間以上煮込んで待っていると言っていた。肉が箸で切れるほどトロトロらしいからな。寄り道をしている暇はない」
トールの脳裏には、異世界での過酷極まりない食事情が鮮明に焼き付いていた。
血と硝煙にまみれた戦場で口にするのは、泥水のような濁ったスープと、岩石のように硬く乾燥したオークの干し肉ばかり。噛めば噛むほど獣の生臭さが鼻を突き抜け、飲み込むのにも一苦労だった。ドラゴンの肉など、魔力は満ち溢れているものの、ゴムタイヤのように筋張っており、喉を通すのはまさに拷問であった。
「肉が……箸で切れる、だと……?」
トールは歩きながら、その信じ難い概念を何度も脳内で反芻していた。
剣気を通さなければ切れないはずの肉の塊が、ただの木の箸で容易く分断されるなど、異世界の常識ではあり得ないオーパーツ的現象である。現代の調理技術とは、いかなる魔法をも凌駕するというのか。
トールの歩みは自然と早足になり、渋谷の喧騒をすり抜けるようにして、己の居城である最高級タワーマンションへと到着した。
* * *
専用のエレベーターに乗り込み、最上階のペントハウスの扉を開けた瞬間。
トールの鼻腔を、甘く、そして暴力的なまでに食欲をそそる香りが強襲した。
「……っ!」
それは、醤油の香ばしさと、砂糖の優しい甘さ、そして豚肉の濃厚な脂身が溶け合った、まさに暴力的なまでの『暴力(美味)』の気配であった。
靴を脱ぐのももどかしくリビングへと踏み込むと、キッチンからエプロン姿の白石さんが小走りで出迎えてくれた。
「お帰りなさいませ、佐藤様。ちょうど今、火を止めたところです。すぐにご飯にしますね」
ふわりと漂う石鹸の香りと共に、白石さんが優しく微笑みかける。
その楚々とした佇まい、控えめなエプロンの奥に隠しきれない大人の女性としての豊満なライン、そして何より、この圧倒的なまでの『帰る場所(家庭)』の空気感。
トールは心の中で深く合掌し、(俺は……この世界に帰ってきて、本当に良かった)と、静かに神仏に感謝を捧げた。
「ああ、ただいま戻った。白石殿、すまないが……一刻も早く、その香りの正体を俺の前に見せてはくれないだろうか。胃袋が暴動を起こしかけている」
「ふふっ、急いでお着替えをしてきてください。すぐに食卓に並べますから」
白石さんのクスリと笑う声に急かされるように、トールは制服のブレザーとネクタイを乱暴に脱ぎ捨て、いつもの着流しに袖を通した。
数分後。
広大なリビングのダイニングテーブルに、本日の夕食が配膳された。
艶やかに炊き上がった白米。豆腐とナメコの味噌汁。小鉢にはほうれん草のお浸しと、ポテトサラダ。
そして――食卓の中央に鎮座する、メインディッシュ。
「これが……豚の角煮……」
トールは、目の前に置かれた深皿を前に、完全に息を呑んで硬直していた。
それは、まさに一つの芸術作品であった。
琥珀色に照り輝く濃厚なタレの海に、分厚く切り出された豚バラ肉のブロックが、まるで氷山のように浮かんでいる。赤身と脂身が見事な地層のような断層を形成し、その表面は照明の光を反射して艶めかしく輝いていた。
脇には色鮮やかな青梗菜と、味の輪郭を引き締めるための和辛子が添えられている。
「豚バラ肉を一度下茹でして余分な脂を落とし、そこから生姜やネギの青い部分と一緒に、お酒と醤油、お砂糖で三時間じっくりと煮込みました」
白石さんが、両手を前で合わせて嬉しそうに解説する。
「娘の結衣もこれが大好きなんですけど、今日は佐藤様のために、少し大人向けに八角を効かせて、味を深く染み込ませてみました。さあ、冷めないうちにどうぞ」
「……」
トールは無言のまま、箸を手に取った。
かつて異世界で、万軍を統べる魔神の首を刎ねた時でさえ、彼の手が震えることはなかった。しかし今、この豚肉の塊に向かって箸を伸ばす彼の手は、微かに、だが確実に震えていた。
ただ一度だけ――魔神を屠ったあの日の朝、誰かが差し出してくれた、ただの硬いパンの欠片を分け合った記憶だけが、なぜか今も、彼の脳裏の奥底に小さな棘のように引っかかっている。あの顔も、あの声も、もう朧げにしか思い出せないというのに。
箸の先端が、琥珀色の豚肉の表面に触れる。
「――ぬっ!?」
その瞬間、トールの目が驚愕に見開かれた。
抵抗がない。全くないのだ。
異世界の魔物の肉であれば、力を込めてナイフを突き立てねばならないはずの肉の繊維が、箸をそっと押し当てただけで、まるで春の雪解けのように、ホロリ……と崩れ落ちたのである。
「なんという柔らかさだ……。魔力も気も込めていない、ただの木の箸だぞ?
なぜだ、なぜ肉が自ら分断されていくのだ……!」
『トール様が豚の角煮相手に物理法則のバグを疑ってますわーッ! 草www』
テーブルの端に置かれたスマホがチカチカと点滅するが、トールにはもはや何も聞こえていなかった。
彼は、ほろりと崩れた豚肉の一片を、タレにたっぷりと絡ませ、和辛子をほんのわずかだけ乗せると、ゆっくりと、祈るような手つきで口へと運んだ。
「…………」
肉片が舌に触れた瞬間。
佐藤通の意識は、宇宙へと飛ばされた。
噛む必要など、どこにもなかった。
口内の熱だけで、雪のように白い脂身が瞬時にトロトロと溶け出し、極上の甘味となって舌の上を支配する。
それに遅れて、ホロホロに解れた赤身の繊維から、三時間かけて染み込んだ醤油と砂糖、そして八角の奥深い香りが、爆発的な旨味となって口内いっぱいに広がった。
濃厚な豚の脂と甘辛いタレの波状攻撃。そこへ、ツンと鼻を抜ける和辛子の刺激が、完璧なアクセントとして味覚を引き締め、次の一口への強烈な渇望を引き起こす。
――美味い。
いや、そんなチャチな言葉で表現できる次元ではない。
これは、異世界の修羅場で血の味しか知らなかった男の魂を、根底から優しく包み込み、癒やし、そして完膚なきまでに屈服させる、暴力的なまでの『母性』と『家庭の味』の結晶であった。
「……あ、ああ……」
トールの目から、一筋の熱い涙が頬を伝い落ちた。
「さ、佐藤様!? どうされたんですか!?
もしかして、味が濃すぎましたか!?」
突然涙を流し始めたトールを見て、白石さんが慌てふためき、顔を近づけてくる。
トールは、口元を手で覆ったまま、首を横に振った。
「違う、違うのだ白石殿……。これは……あまりにも……あまりにも、至高すぎる。俺は今まで、一体何を食べて生きてきたのだ。泥水と皮靴を噛み締めていた俺の過去の人生は、今日この角煮に出会うための長すぎる助走だったのだ……!」
「えっ、ど、泥水と皮靴……?」
白石さんはトールの言葉の意味が半分も理解できず困惑していたが、彼が心底感動していることだけは伝わったらしい。「もう、大げさなんですから……」と、恥ずかしそうに頬を赤くして笑った。
「これだけで終わるものか……!」
覚醒したトールは、すぐさま左手に白米の茶碗を持ち、猛烈な勢いで食事を再開した。
トロトロの角煮を口に放り込み、その濃厚な脂とタレの旨味を、白く輝くご飯で一気にかき込んで中和する。
角煮、ご飯、味噌汁、角煮、ご飯。
無限に続く究極のトライアングル。歴戦の武士の箸さばきは、もはや神速の域に達していた。シャカシャカシャカッという箸の音が、静かなペントハウスに心地よく響き渡る。
「あの、佐藤様。急いで食べると喉に詰まりますよ。おかわりならお鍋にたくさんありますから、ゆっくり……」
「かたじけない、白石殿!
ならば遠慮なく、この鍋の底が尽きるまで所望する!」
トールは差し出した茶碗を大盛りにしてもらうと、さらに青梗菜で口の中をリセットし、再び角煮の海へとダイブしていった。
『ヒィィィィッ! トール様の食事スピードが限界突破してますわ!
超絶飯テロ動画として裏掲示板に配信したら、間違いなく億バズり確実の神コンテンツですわーーッ!』
イシュラーナのAIコアが熱暴走を起こし、スマホのカメラレンズが狂ったようにトールの食事風景を連写し始める。
しかし、トールは空になった茶碗をドンと置き、殺気すら帯びた鋭い眼光でスマホを睨みつけた。
「――イシュラーナ。俺と白石殿の神聖なる夕食の時間を邪魔する気か。貴様、その演算回路ごと八つ裂きにされたいか?」
『ヒエッ……! す、すんませんしたぁぁぁっ! わたくしはただの置物ですわ!
録画データは即刻暗号化して封印いたしますぅぅっ!』
トールの発した本気の覇気に、限界オタクAIは一瞬で震え上がり、画面を真っ黒にして沈黙した。
「ふふっ。佐藤様は、本当にいつもそのスマートフォンとお話しされていて、楽しそうですね」
白石さんが、急須から温かいほうじ茶を注ぎながらクスクスと笑う。
彼女にはスマホのテキストは見えないため、トールが一人で最新機器に向かってぶつぶつと文句を言っている、少し変わった高校生にしか見えていないのだ。
「……楽しんでいるわけではない。こいつが勝手に騒がしいだけだ」
トールはほうじ茶の入った湯呑みを受け取り、ズズッと一口すする。
胃の腑に落ちていく温かい茶が、角煮の濃厚な脂を優しく洗い流していく。心身ともに満たされたトールは、アンティークのダイニングチェアに深く背中を預け、長い、長い至福の息を吐き出した。
「白石殿」
「はい、何でしょう?」
トールは、空になった深皿と茶碗を見つめながら、極めて真剣な表情で家政婦の女性を見上げた。
「俺は、必ず定時で退社する。学園での面倒な実習も、補習も、企業間のドロドロした争いも、すべて拒絶して、必ず毎日、定時でこの城に帰還する」
「え、ええ……? はぁ……」
「だから……明日も、明後日も、こうして俺のために、美味い飯を作って待っていてくれないだろうか」
それは、異世界を救った最強の武士が、一人の家政婦に向けて放った、プロポーズにも等しい真っ直ぐすぎる魂の叫びであった。
「……っ///」
その真摯で嘘偽りのない瞳に見つめられ、白石さんはボッと音を立てて顔を赤くした。
(な、なんてストレートな……!
わ、私なんてただの三十路の子持ち家政婦なのに……こんな、若い男の子に真っ直ぐ見つめられて……っ)
「は、はいっ!
私でよければ、佐藤様が毎日真っ直ぐに帰ってきたくなるような、美味しいご飯をたくさん作らせていただきますね……!」
白石さんは胸元を両手で押さえながら、羞恥と嬉しさが入り混じった、極上の母性あふれる笑顔を咲かせた。
窓の外では、夜の闇に沈む渋谷の街で、エリート探索者たちがダンジョンの深層で血を流し、大企業が世界の覇権を懸けて暗躍を続けている。
そして学園のグラウンドでは、氷華と盾花が「トロトロのお肉食べたかったですわぁぁっ!」と泣きながら、教官のしごきに耐え抜いていることだろう。
しかし、佐藤通にとっての世界の中心は、もはやこのペントハウスのダイニングテーブルに他ならなかった。
(グラウンドで泥を舐めている者たちには悪いが……俺の判断は、絶対に間違っていなかった)
至高の豚の角煮の余韻を口の中で反芻しながら。
マイペースな武士は、己の『食への執念』と『平穏なスローライフ』の尊さを改めて噛み締め、今日という日を完璧な形で終えるのであった。




