第110話:いつも通りの部室
夏の終わり、部室にはいつも通りの、賑やかな空気が満ちていた。
「――というわけで、轟教官の紹介で、私も来年から探索者ギルドの見習いとして働くことになりました」
凪教官が、珍しく穏やかな表情で近況を語る。
「あの理不尽な生徒たちのもみ消し業務から、少し離れられると思うと、正直、肩の荷が下りる思いだ」
「先生、それ本人たちの前で言っちゃっていいんスか」
鯖江が苦笑する横で、トールも「まあ、世話になったな」と素っ気なく返した。
* * *
「――佐藤さん! 実は今度、新聞部の部長を引退することになりまして」
東雲メグが、部室にひょっこり顔を出した。
「あれから色々考えたんですけど、やっぱり地に足のついた取材がしたいなって。今度、地方紙の記者見習いになるんです」
「ほう。それは、良い選択だな」
「はい! この学園で追いかけたスクープは、結局一つも取れませんでしたけど……。おかげで、本当に大切な取材の心得を学べた気がします」
東雲は、晴れやかな笑顔でそう言うと、部室を後にした。
* * *
かつて新興ダンジョンメジャーの常務だった黒羽もまた、風の噂で、地方の小さな魔道具メーカーに再就職し、堅実な仕事ぶりで評判を得ているという話が伝わってきていた。
「――皆、それぞれの場所で、それぞれの日常を歩んでいるのだな」
トールが、しみじみとそう呟くと、白石さんが温かい紅茶を差し出した。
「はい。それは、佐藤様たちも、同じですね」
「うむ。……そして、これからも、変わらず続いていく」
* * *
「――そういえば、蓮くん」
盾花が、ふと思い出したように口を開いた。
「戸籍のこと、結局どうなったんですか? 東城様が、色々手を回してくださったとか」
「ああ。表向きは、地方から引っ越してきた身寄りのない親戚の子、ってことで話が通った。東城殿には、随分と世話になったよ」
蓮司がそう答えると、氷華が興味深そうに続けた。
「これからも、鴉羽の家として、この街で暮らしていかれますの?」
「ああ、そのつもりだ。……トールと同じ学園に通っていられるなら、それで十分すぎるくらいだからな」
その素直な一言に、部室の空気は、いつも以上に和やかなものになった。
「――皆、それぞれの場所で、それぞれの日常を歩んでいるのだな」
トールが、しみじみとそう繰り返すと、蓮司が不敵に笑った。
「お前も、これから何度、その台詞を言うつもりだ」
「言い足りんくらいだ、これは」
その軽口に、部室いっぱいの笑い声が響いた。
* * *
その夜、片付けを終えた白石さんが、ふと窓の外を見つめながら呟いた。
「――この一年、本当に色々なことがありましたね。転入生の蓮司さんが来て、東城様との関係も変わって、そして、あの大きな決戦も」
「うむ。だが」
トールが静かにそれを引き取った。
「どれだけ大きな出来事があろうと、結局、俺たちの日常は、こうしていつも通りに戻ってくる。それこそが、俺たちの本当の強さなのかもしれんな」
「――トールさんらしい、素敵な考え方ですね」
盾花がそう微笑むと、氷華や鯖江も同意するように頷いた。
『わたくしも、皆様のその強さを、これからもずっと、お傍で見守らせていただきますわ』
イシュラーナの声が、静かに部室に響く。
窓の外では、夏の終わりの穏やかな風が、いつも通りの渋谷の街を吹き抜けていた。部室には、これまでと変わらぬ、賑やかで温かい笑い声が、いつまでも満ちていた。
* * *
翌朝、いつも通り部室の扉を開けたトールを、白石さんの明るい声が出迎えた。
「――佐藤様、おはようございます。今日も、いつも通りのお弁当、ご用意しましたよ」
「うむ。……いつも通り、というのは、実にいい響きだ」
トールがそう答えると、白石さんはくすりと笑った。
「ふふ、佐藤様らしいお言葉ですね」
窓の外に広がる、いつも通りの渋谷の朝の光景を眺めながら、トールは静かに、しかし確かな充足感を胸に、今日という新しい一日を迎えていた。数々の困難を乗り越えた先にある、この何気ない朝こそが、彼にとって、何よりの宝物だった。
「――さて、今日も一日、始めるとしよう」
トールがそう呟きながら教室へと向かう道すがら、氷華や盾花、鯖江、そして蓮司も、それぞれの足取りでいつも通りに登校していく。ばらばらのようでいて、確かに繋がっているその歩みは、この街の日常に、静かに、しかし確かに溶け込んでいた。
「――おはよう、トール」
「うむ、おはよう」
蓮司との何気ない挨拶を交わしながら、トールは今日もまた、いつも通りの、しかしかけがえのない一日を、確かな足取りで歩み始めるのだった。振り返れば、その後ろには、氷華や盾花、鯖江たちの賑やかな声が、いつも通り、変わらず、そして温かく追いかけてくるのだった。この賑やかで穏やかな日常こそが、規格外の武士が、これからもずっと大切に守り続けていく、かけがえのない宝物なのであった――。




