第103話:決戦前夜、それぞれの言葉
決戦を翌日に控えた夜、ペントハウスのリビングには、いつもより少しだけ静かな空気が流れていた。
* * *
「――白石殿」
キッチンの片付けを終えた白石さんに、トールが静かに声をかけた。
「明日、危険なことになるかもしれん。だが、俺は必ず、お前と結衣の日常を守り抜く」
「はい。信じています」
白石さんは、優しく微笑んだ。
「わたしは、佐藤様が、いつも通り帰ってきてくださること。……それだけを、信じていますから」
トールは、その言葉に、静かに頷いた。何も言わずとも、二人の間には確かな絆が通っていた。
「明日の朝も、いつも通りのお弁当を、お作りしますね」
「――ああ、楽しみにしている」
その何気ないやり取りの中にこそ、二人が積み重ねてきた日々の重みが、確かに込められていた。
* * *
「――佐藤さん」
自室に戻る前、氷華がトールを呼び止めた。
「わたくし、明日、精一杯戦いますわ。……ですから、その、戦いが終わったら」
「終わったら?」
「――また、いつも通りの部室で、お茶を淹れさせてくださいまし」
その、いつもと変わらぬ願いに込められた確かな想いに、トールは僅かに口の端を緩めた。
「無論だ。お前の淹れる茶は、悪くない」
「――ふふ、そのお言葉、忘れませんわよ」
氷華は、いつもの勝気な笑みを浮かべて、自室へと戻っていった。だが、扉を閉める直前、その笑みの下に隠れていた、僅かな不安の色を、トールだけは見逃さなかった。
「――氷華」
「はい?」
「案ずるな。俺は、お前たち全員を、必ず守る」
その短い一言に、氷華は一瞬だけ目を見開き、それから、これまでで一番柔らかな笑みを浮かべた。
「――ええ。信じておりますわ」
* * *
「トールさん」
盾花もまた、静かにトールの前に立った。
「明日、私、絶対に皆さんを守ります。今度こそ、母の工房のためだけじゃなく、この部室のみんなのために」
「――ああ。頼りにしている」
トールの短い一言に、盾花は確かな誇らしさを胸に、大盾を握りしめた。
「――それに」
盾花は、少し照れくさそうに続けた。
「もう、一人で抱え込んだりしません。トールさんが、そう教えてくれましたから」
「うむ。それでいい」
トールが頷くと、盾花は晴れやかな笑みを浮かべた。
* * *
「――蓮」
二人きりになった部室で、トールは静かに声をかけた。
「五年前、お前を失ったと思っていた時の後悔を、俺は忘れたことがない。明日は、もう二度と、お前を失うようなことはさせん」
「――上等だ」
蓮司は、不敵に笑った。
「お前こそ、俺の前で無茶な死に方をするなよ。今度は、俺がお前を守る番でもあるんだからな」
二人は、静かに、しかし確かな絆を込めて、拳を軽く合わせた。
「――なあ、トール」
「なんだ」
「明日が終わったら、また、あのパン争奪戦の続きをしような」
その、あまりにも他愛のない一言に、トールは思わず笑いをこぼした。
「――ああ。望むところだ」
* * *
一同が寝静まった後、トールは一人、リビングのソファーに腰掛け、静かに木刀とカタストロフの両方を手入れしていた。
(――明日は、これまでで最も厄介な戦いになるだろう)
異世界の戦場で幾度となく経験した、絶望的な状況下での決戦の記憶が、脳裏を過る。だが、あの頃と違うのは、今の自分には、守るべき確かな日常と、共に戦ってくれる頼もしい仲間たちがいるということだった。
「――トール様。眠れませんの?」
胸ポケットから、イシュラーナの声が、いつになく優しく響いた。
「いや。ただ、少し、明日のことを考えていただけだ」
『皆様、それぞれの想いを胸に、明日を迎えようとしておりますわ。トール様が全てを一人で背負う必要は、どこにもございませんの』
「分かっている」
トールは、静かに目を閉じた。
「だが、俺は、この部室の一番の年長者だ。皆を守るのが、俺の役目だと思っている」
『ふふ、それも、トール様らしいお言葉ですわね』
イシュラーナはそう言うと、僅かに声を柔らかくした。
『ですが、どうか、お忘れなきよう。皆様もまた、トール様を守りたいと、心から願っておりますのよ』
その言葉に、トールは静かに頷いた。
「――ああ。分かっている。明日は、皆で共に、この日常を守り抜く」
その言葉を最後に、トールは静かに目を閉じ、短い眠りについた。かつて異世界の戦場で、幾度となく繰り返してきた決戦前夜の静けさとは、まるで違う、穏やかな眠りだった。翌朝目覚めたトールの表情には、これ以上ないほどの落ち着きが宿っており、その姿を見た白石さんも、静かに、しかし確かな安堵の笑みを浮かべたのだった。「今日も、しっかりお弁当をご用意しましたよ」という何気ない一言が、いつも以上に、トールの胸を温かく満たしていった。この当たり前の日常こそが、今日という日に自分が命を賭してでも守り抜くべきものなのだと、トールは静かに、しかし強く実感していた。
窓の外には、決戦前夜とは思えないほど、静かで穏やかな夜空が広がっていた。




