第102話:「今日は、飯も昼寝も後回しだ」
その日の放課後、部室に集まった一同を前に、トールは静かに立ち上がった。
「――皆、聞いてくれ」
普段は寝転がってばかりのトールが、珍しく直立してそう切り出したことに、部室の空気が張り詰めた。
「三日後、常盤とやらが、ダンジョン最深部でゲートの起動実験を強行するそうだ。その日、奴は白石殿の飯も、俺の昼寝も、そしてお前たちの平穏も、人質に取ろうとしている」
トールは、木刀を静かに腰へと差した。
「――今日は、飯も昼寝も後回しだ」
その一言に、部室の全員が息を呑んだ。この一年余り、どんな脅威を前にしても崩れなかったトールの日常の優先順位が、初めて、明確に後回しにされた瞬間だった。
「……本気、なんですのね」
氷華の声が、僅かに震える。
「ああ。本気だ」
トールは、いつになく真っ直ぐに、部室の全員を見渡した。
「白石殿、氷華、盾花、鯖江、イシュラーナ、そして蓮。お前たち一人ひとりの日常を、俺は、これ以上ないほど大切に思っている。それを脅かす者がいるのなら、俺は迷わず、俺の持てる全てを使う」
「トールさん……」
盾花の目に、涙が浮かんだ。
「――皆で、行きましょう」
白石さんが、静かに、しかし確かな決意を込めてそう言った。
「わたしたちの日常は、わたしたちの手で、守り抜きます」
「わたくしも」
氷華が、杖を強く握りしめた。
「私も、絶対に」
盾花も、大盾を構え直す。
「俺も、行くっス。今度こそ、剣や魔法じゃない俺の力を、ちゃんと役立ててみせるっス」
鯖江の言葉に、イシュラーナも静かに応じた。
『わたくしも、電脳の盾として、最後までお供いたしますわ』
蓮司は、不敵に笑いながら、腰の剣に手をかけた。
「五年越しの借りを、返す時が来たようだな」
* * *
「――ところで」
一同が決意を固めた後、鯖江がふと真面目な顔で切り出した。
「常盤の私兵部隊、それなりの人数がいるみたいッス。正面からぶつかれば、いくら俺たちでも、多少は苦戦するかもしれないッスよ」
「策はあるのか」
トールが尋ねると、鯖江は頷いた。
「はい。俺とイシュラーナさんで、事前に敵の通信網を撹乱しておくッス。そうすれば、少なくとも連携は大きく乱れるはず」
『わたくしも、可能な限り、皆様の道中の安全確保に努めますわ』
イシュラーナの言葉に、トールは満足げに頷いた。
「頼もしい限りだ。……よし、これで方針は固まったな」
こうして、部室の全員が、三日後の決戦に向けて、静かに、しかし確かな覚悟を固めたのだった。
* * *
その夜、白石さんは、いつもより少しだけ豪勢な夕食を用意した。
「――皆さん、明後日からの三日間、きっと大変になります。だからこそ、今日は、しっかり食べて、しっかり眠ってください」
白石さんの言葉に、トールは深く頷いた。
「その通りだ。いくら覚悟を決めようと、空きっ腹では碌に剣も振るえん。今日だけは、いつも通り、飯を味わうとしよう」
「――さっき『飯も昼寝も後回しだ』って言ったばかりじゃないですの」
氷華がくすくすと笑いながら突っ込むと、トールは真顔で言い返した。
「後回しにするのは、決戦の当日からだ。今宵はまだ、猶予がある」
その素っ気ない理屈に、部室には、久しぶりの明るい笑い声が響いた。
「――トールさんって、本当にブレませんね」
盾花が笑いながらそう言うと、蓮司も同意するように頷いた。
「ああ。だが、そのブレなさこそが、こいつの強さの根っこなんだろうな」
賑やかな食卓を囲みながら、一同は、来る決戦への静かな覚悟を、確かに胸に刻んでいった。
食後、それぞれが自室へと戻っていく中、トールは一人、ベランダに出て、夜空を見上げていた。
「――カタストロフ」
腰に差したままの魔剣に、そっと手を添える。持ち主の魂を喰らうとされるその呪いの剣は、しかしトールの手の中で、今夜もまた、静かに、まるで意志を持つかのように寄り添っていた。
(――お前たちの分まで、俺は、この暮らしを守り抜く)
異世界の戦場で散っていった、かつての戦友たちへの想いを胸に、トールは静かに、しかし確かな決意を固めていた。
「――トール様」
不意に、スマホの中からイシュラーナの声が響いた。
『わたくしも、最後まで、トール様のお傍におりますわ』
「――ああ。頼りにしている」
その短いやり取りの中に、これから訪れる決戦への、確かな絆と覚悟が込められていた。かつて異世界の戦場を共に駆けた戦友の声にも似た、その温かな一文が、トールの胸のうちを静かに、そして確かに満たしていく。明日からの三日間、自分は決して独りではないのだと、トールは改めて、そして深く実感していた。仲間たちと共に歩んできたこの日常があるからこそ、どんな強大な敵をも恐れずに立ち向かえるのだと。その確信だけを胸に、トールは静かに夜空を見上げ続けた。
窓の外に広がる、いつも通りの渋谷の夕暮れが、その日はいつもより、少しだけ赤く燃えているように見えた。




