第100話:常盤の脅迫と、東城の孤独な戦い
内閣府特別顧問室。
「――どうやら、東城が裏切ったようだな」
常盤修造は、感情の読めない声で、手元の報告書を眺めていた。
「顧問、いかがなさいますか」
「なに、想定の範囲内だ。むしろ、これで手間が省ける」
常盤は、静かに立ち上がった。
「もはや、遠回しな交渉は不要ということだ。――直接、動かせ」
* * *
同じ頃、渋谷代々木学園。
盾花のスマホに、一本の非通知の電話が入った。
『――戌井盾花さんですね。お母様の工房、大変立派になられたようで』
「――誰ですか、あなた」
『名乗る必要はありません。ただ、一つだけお伝えしたいことが。あなた方が"魔道具研究会"の活動を続ける限り、あの小さな工房の平穏は、保証できかねます』
電話は、それだけを告げて一方的に切れた。
同じ頃、氷華の実家にも、結衣ちゃんの通う保育園にも、似たような、しかし決して明確な証拠を残さない、静かな圧力がかけられ始めていた。
* * *
その夜、部室に集まった一同の顔には、これまでにない緊張が浮かんでいた。
「――やってくれましたわね、あの常盤とやら」
氷華が、珍しく低い声で呟く。
「盾花の工房だけでなく、私の実家にまで、遠回しな脅しをかけてくるなんて」
「保育園にまで、っスか……。子供まで巻き込むなんて、最低ッスよ」
鯖江が怒りを露わにする。
トールは、静かに木刀を手に取った。
「――常盤とやら、俺たちの平穏を脅かすことが、どれほど愚かなことか、身をもって思い知らせてやる必要があるようだな」
その声には、いつもの気だるさとは違う、静かな怒りが滲んでいた。
「ただし」
トールは、部室の全員を見渡した。
「まだ動くな。相手の狙いを、完全に見極めるまでは」
その一言に、部室の全員が、静かに頷いた。嵐の前の静けさが、確かにそこに満ちていた。
* * *
新技術対策室。
「――東城主任。昨夜の資料保管フロアへのアクセス記録について、説明を求む」
上司からの詰問に、東城は表情を変えることなく答えた。
「定期的な資料整理の一環です。記録には残しております」
「常盤顧問の専用フォルダにまで、アクセスした形跡があるが」
「業務上、必要と判断いたしました」
平静を装いながらも、東城の内心は、決して穏やかではなかった。
(――ここで動揺すれば、すべてが終わる)
* * *
その日の午後、東城は密かに、対策室内の信頼できる数少ない同僚に接触していた。
「――お願いがあります。常盤顧問の予算執行記録、可能な範囲で構いませんので、写しを」
「東城さん、それは……」
「危険な行為だということは、承知しています。ですが」
東城は、まっすぐに同僚を見据えた。
「これは、国家のためでもあります。あの人の計画が実行されれば、取り返しのつかないことになる」
同僚は、しばしの逡巡の後、静かに頷いた。
「――分かりました。ですが、東城さんも、くれぐれもお気をつけて」
「ありがとう」
孤独な戦いの中で、東城は少しずつ、しかし確実に、証拠を積み上げていった。誰に頼まれたわけでもない、彼女自身の意志による戦いだった。
* * *
その夜、自室に戻った東城は、机の上に広げた資料を見つめながら、一人、静かに呟いた。
「――皆さんは、私よりずっと危険な立場にいる。それでも、あんなにも真っ直ぐに、自分たちの日常を守ろうとしている」
その姿を思い出すたびに、東城の胸には、確かな勇気が湧き上がってくるのだった。
(――私も、負けていられない)
窓の外に広がる夜景を見つめながら、東城は、静かに、しかし確かな決意を新たにしていた。組織という巨大な壁の中で、たった一人で戦うことの孤独と恐怖を抱えながらも、彼女の心は、かつてないほど強く、そして澄み切っていた。
* * *
その週末、東城は非番を利用して、こっそりと渋谷代々木学園の近くまで足を運んでいた。部室に立ち寄るつもりはなかった。ただ、窓の外から漏れる、あの賑やかな笑い声を、少しだけ聞きたかったのだ。
(――皆さんは、今日も、いつも通りなのね)
遠くに聞こえる、鯖江の陽気な声、氷華の澄んだ笑い声、そして時折混じる、トールの素っ気ない相槌。それらを耳にするだけで、東城の張り詰めていた心が、少しずつ解けていくのが分かった。
「――東城様?」
不意に背後から声をかけられ、東城は驚いて振り返った。そこには、買い物帰りらしい白石さんが立っていた。
「あ……。すみません、たまたま近くを通りかかっただけで」
慌てて取り繕う東城に、白石さんは柔らかく微笑んだ。
「そうでしたか。……もしよろしければ、少しだけ、お茶でもいかがですか」
その何気ない誘いに、東城は、これまで張り詰めていた何かが、ふっと緩むのを感じた。
「――はい。少しだけ、お邪魔させていただきます」
孤独な戦いの中にも、確かな温もりが、静かに差し込み始めていた。その温もりだけを胸に、東城はまた、組織という孤独な戦場へと戻っていくのだった。




