第5話 夜
「────────」
ベッドに入って暫く。やなぎは眠る事が出来ず、天井をじっと見つめていた。漠然とした不安が、ただ襲い来る、夜。彼女は大きく溜息を吐いて、どうすればいいんだろ、と不安を口にする。
記憶を失った。
妖魔に襲われた。
起きた事は数えるほどだが、どちらも人生において経験するとは思えない事。
妖魔はちょっと置いておこう。無理。許容出来ない。
「……何も、思い出せない」
自分の名前も、出身も解らない。地名や知識は残っているけれど、自分に関する事が何一つ思い出せない。憶えてる地名も、やなぎの出身地ではない事が何となくだが解ってしまう。自分に関する記憶が全て消えている様な状態だ。誰かが意図的に選んで消したのでは? と思う程に。
なんで消えたのだろう。アオイに斬られたから? ……それは無い。断言できる。だって、やなぎは、京を走っていた記憶がある。もし、アオイが原因であるなら、走っていた記憶さえも無くなるはず。
京を走っていた記憶のその前を、思い出せない。どうして京を走っていたのか、何かから逃げていたのか、それとも最初からあの声に呼ばれてだったのか、分からない。
そうして考え事をしていると、なんだか天井が近くなって、頭がふらふらと、揺れているような感覚になる。
「……寝れない…」
身体は眠たがっているのに、寝られない。
仕方なく起きて、水でも飲んで、気分をリセットしようと思ってリビングへと向かう。
リビングと廊下を隔絶しているドアをそっと開いてリビングに入ると、
「んぁ、おー、やなぎ。どした~?」
とまだ眠っていなかったのか、アオイが居た。
「なんだか眠れなくて」
「そか。色々あったもんなぁ。温かいもんでも飲むか?」
「いえ、水だけ頂きたくて」
「水道水しかないけど……ええ?」
「ありがとうございます」
アオイが立ち上がって、キッチンへと向かいコップに水を汲んでくれる。
「眠くは無いん?」
「とても眠いです。けど……寝れなくて。おかしいですよね」
「しゃあないよ。うちも同じ立場やったら寝れんし」
「アオイさんは何を?」
見ると、机の上にノートパソコンが置いてある。
「今日の報告書纏めとるんよ。祓え戸は報告書怠ると怒るからなぁ」
「祓え戸?」
「祓妖師を管理する場所やね。妖魔の監視をしつつ、現れたらうちら祓妖師に出撃させる機関。今日遭遇したお巡りさんにも、祓え戸の方からお話があるんちゃうかな。妖魔による被害を受けた人達を保護する機関でもあるな」
「被害を受けた人?」
「そ。暫定ではあるけど、やなぎみたいな子。うちが経営してる喫茶は妖魔に被害を受けた子達の支援目的で建てらたものやで。まあ今は妖魔しか居らんけど」
汲んでくれた水を一気に飲み干して、ふぅと息を吐く。
「えと、妖魔しか居ないっていうのは……」
「文字通りやで~……。あー、災害って言葉が引っ掛かっとるんか」
またパソコンの前に座った彼女はカチカチと2回クリックした後、キーボードを叩く。
「あの子達は中途半端に妖魔として顕界してしまった子達や。焼き付いた影が薄ければ薄い程弱くなってまう。害は無いし、人間に友好的やから、うちが保護してるんよ。いつかは、鏡世界に返すんやけどな」
「ミナトさんも?」
「ミナトちゃんは……ちょっと複雑やね。あの子、本気出せばうちとタメ張るんよ」
「戦えないって言ってましたけど」
「今はな。ちょっと色々あって変身以外の力全部失っとるんよ。かわいそーやろ?」
いじらしい目でくふふと笑う。(割と意地悪な人なのかな)
そんな彼女の隣に座ってみるやなぎは、パソコンを少しだけ覗く。
「あ、こら。見てもおもろないで」
「敬語だ……」
「そりゃそうやろ。うちが一生関西弁で喋っとると思っとんかぁ~?」
あ、はい……すみませんでした。思ってました……。関西人ってそうじゃん。
「報告者は一応きちんとした仕事なんやから、ちゃんと規則に則って書くよ……なんでそんなショック受けてんねん。うちの事なんやと思ってるんや?」
「う、……そうですよね。ごめんなさい。京なのに大阪とか神戸あたりの関西弁混ざってるっぽいなって思ってて……。ちょっとだけ気になってました……」
「それは聞いてへんわ。いやまぁ、うち一応京生まれなんやけどな。大阪と神戸にも住んでた事あるんよ。よー解ったな?」
「なんとなく……です。マジで、無駄な知識だけ残っててムカつく」
「くふふ、ええ事やん。全部忘れたらほんまにどうしようも無くなるで」
自分の事は何1つ思い出せないのに、無駄な知識だけは沢山出てくる。ショート動画とか見て蓄えた真偽不明の知識とか混ざってそうで最悪だ。やなぎ、良くないよ、そういうの。
「うち、もうちょい報告書書くけど、やなぎはどーする?」
「横で見てて良いですか?」
「構わんけどおもろないで?」
「……だとしても、今べっど入っても眠れる気がしなくて」
「そか。ええよ。ゆっくりしていき」
許しを得たやなぎは、少しだけアオイに近づく。少しだけシャンプーの良い匂いがする。カチューシャで前髪を上げた彼女は、かたかた、とキーボードを一定の速度で打ち続けている。今日あった事を事細かに書いている。
「そういえば」
と書きながら彼女はやなぎに声を掛ける。
「記憶があらへんからって、命に価値無いとか思うの禁止な」
「起きてたんですか?」
「んなわけ。ミナトから聞いたんよ。止めてな、それ。絶対許さへん」
「……………………私を狙ってましたし、合理的だと思ったんですけど」
「あほ、命に合理性とかある訳ないやろ。命は大事にするもんや。夕方言った様に、もし記憶が戻らんでもこれから作って行けばええ。今を理由に全てを犠牲にせんといて。次同じこと言ったらもっかい斬る」
「……はい」
「解ったらええ」
と、右手でキーボードを叩きながら、左手でやなぎの頭を撫でた。もしかしてやなぎの事を幼児か何かと思っているんだろうか。記憶的な意味で言えば、思い出が何も無いので赤ちゃんと一緒だが……。
「あの、そういえば聞くの忘れてたんですが、アオイさんっていくつなんですか?」
「うち? 今年で……23やな」
「え、成人!?」
「なんや、失礼なやっちゃな。うちこれでもお酒飲めんで? 夕食ん時飲んでたやろ」
「てっきりジュースかと……!」
「くふふ、うちの事未成年やと思ってたん?」
「高校生くらいかと……。とても可愛らしいので」
「まぁ、お酒買う時毎度年齢確認されるんやけどな……」
どうしてか虚ろな目をしている。(若く見られるのはぎりぎり良いことなのでは? ちょっとコンプレックスなのかな。可愛いのに)
めんどくさいのだろう、単純に。毎度身分証を出すのはめんどくさい。若く見られたいという欲求はアラサーくらいになってから生まれるもの……なのかもしれない。
「どうや~? 寝れそうなってきたか~?」
「……ごめんなさい、全く」
「そか。……よし、これで終わりや。けどもうちょいお話しよか」
「えと、アオイさんは眠くは……」
「眠いけど、うちがやなぎと話したいんよ。ちょっと付き合ってーな」
にやりと笑う彼女に、少しだけたじたじになりながら、うぇへへへへ~、と情けない鳴き声を上げた。え、何その鳴き声。とアオイにちょっとだけ引かれながら、今のはアオイさんが悪い! と照れ隠しを始める。
「おもろいなぁ、ほんま」
いじらしく笑う彼女はパソコンをぱたんっと閉じる。
「それで、え~と、何の話しような?」
「もふもふの話しましょ」
「もふもふの話……え、何が一番もふもふか……とか?」
「そーです!」
「えー……うちはあの狐の妖魔結構ええと思うたけどな?」
「あ、解ります。あのもふもふは中々でした……大きいので身体全部埋めれそうで」
いや、申し訳ないが、4トントラック並の巨大な狐は普通に怖い。一口で丸呑みにされそうだし……。肉食寄りの雑食である狐に追われるのは普通恐怖だ。いやまぁハムスターが4トントラックくらいの大きさだったら怖いし、なんでも巨大化は怖いっすね……。
命狙われたんだし、ちょっとは危機感を持った方が良いのではないだろうか。
その後も、もふもふの話を大体30分程し続けた。
「くふふ、ほんまに、もふもふが好きなんやなぁ?」
「はい。もう、とっても!」
「どーや? 少しは寝れそーなったかぁ?」
「…………ごめんなさい。まだ」
「……そか。そんなに明日が怖い?」
「えと……その────起きてまた、記憶が無かったらって思うと……折角良くして貰ったお二人の事、忘れたくないのに、けどなんで記憶がなくなったか分からないから……漠然と……怖くて」
「忘れてええよ。忘れたらまた話ししたらええ。何度でも付き合ったるさかい、そう不安に思わんでええよ」
そろそろ眠気の限界なのか、机に突っ伏して、顔だけやなぎに向けたアオイが、そう言って微笑む。
やなぎは、口から何か出そうになったのをぐっと堪える。そうすると代わりに目から涙がこぼれて来てしまった。
「あれ、ごめんなさい。泣くつもりじゃ……。その、嬉しい、です。とても。忘れてもまた、新しいの作ればいいって言ってくれた事も、今の事も」
「ええよ。沢山泣き。泣けば泣くだけ人は強ぅなれる。うちも小さい頃は沢山泣いたもんや」
彼女はまた、やなぎの頭に手を伸ばす。アオイは、くふふ、とまた笑みを浮かべながら、
「でも、そんなに怖いなら、一緒寝たろか?」
「……! いえ、そこまでじゃ!」
「えぇ~。我慢せんでええで? 女同士やん。なんでそんな照れるんよ」
「照れてませんっ」
そうやって否定すると、余計にアオイの意地悪心に火が点いてしまう。
「そうなん? なんや、ここまで一緒やから今更離れて寝るの寂しいなぁ思たんやけど、うちだけやったか……」
「ちょ、冗談はやめてくださいよ。私達まだ出逢って数時間ですよ!?」
「時間なんて関係無いやろ。うち、やなぎの事、結構気に入ってるんやで?」
「~~~~~~っ! からかうの、やめてくださいよ! もう!」
「くふふ、ほんまかわええなぁ」
眠気の限界に達して、思考がゆるゆるになっているのに、からかおうとしているから、歯止めが効かないのだ。明日起きた時思い出して死にたくなるパターンなので辞めておいた方が……。
「……でも、ありがとうございます。今なら眠れそうです」
「ええよ~。無くなった分、沢山思い出作ろうなぁ。うちが協力する。また忘れても、うちが覚えとるさかい安心しぃ。それにうちは…………すぅ…………すぅ…………」
「あ、ちょっとここじゃ風邪引きますよ」
目を完全に瞑ってしまった彼女を少し揺すって、起こす。アオイを支える様に肩を組んで、夕方案内された彼女の部屋へと、殆ど足を引き摺るように向かう。
ドアをそっと開けて、彼女の部屋に踏み入る。
「わ、あの時の服……」
ではなく、やなぎはアオイをベッドになんとか寝かせる。
「ぅぁ……えらい、すんまへん……なぁ」
「いえ、ありがとうございます。遅くまで」
「ええよ~……くふ、今日何回ええよって……言ったやろ……」
アオイを寝かせたやなぎは、ふぅと息を吐く。これでアオイが腰を痛める事も、風邪を引く事も──
「え、うわぁ!」
アオイに手を引かれて、そのままアオイにかぶさるようにベッドに倒れ込む。
「くひひ、車ん時と……一緒。これ、ええわ~。めっちゃ、落ち着……く……すぅ…………すぅ…………」
「────────────」
そんな事言われたら無理矢理動くなんてことが出来ないやなぎであった。結構ちゃんと抱きしめられている。
抱き枕にされている気分。鼻孔を擽る仄かなシャンプーと、彼女本来の甘めな匂い。規則的な寝息と、抱きしめられた事によって聞こえてくる小さな心音。
やなぎはちょっといい気分。
ほどなくしてやなぎは、突如として襲い来る巨大な睡魔に勝てるはずもなく、瞼をそっと閉じた。
「ちょっと……人誑しすぎない……?」




